No.1 志士
 この言葉が長い日本の歴史の中で使用されたのは、幕末・維新に限られている。だが、『志士』という言葉自体は、すでに『論語』の「志士仁人は制を求めて以て仁を害するなく、身を殺して以て仁をなすなり」や、『孟子』の「志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず、勇士はその元(こうべ)を喪ふを忘れず」と、登場している。『仁を備え、死を恐れない勇者』といった意味のようである。  一方幕末の志士は、『論語』や『孟子』の意味に加えて、ひずみだした自国の体制を憂い、その方向や手段はともかくとして、それぞれに夢や熱い意志を胸にしていた人々を指すようだ。 響きは「獅子」や「死し」に通ずるものがあり、この簡単な平仮名たった二文字だけで、かくも熱く深い印象を我々に語りかけている。
DATE:June 21 1999
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No.2 志士2
 志士にも色々ある。藩という殻を飛び出して、個人という立場で国を見つめた者。藩の力を利用して、古い体制を打ち破ろうとした者。また、志士を陰で支えた豪商や女たちも、憂国の志士の仲間であると言えるだろう。
 その中でも、凛と幕末動乱期を駆け抜けた一人の女性を見逃せない。
 名を奥村五百子(おくむらいおこ)。弘化二年、肥前唐津の高徳寺に産まれた彼女は、男装し、倒幕の志士として戦ったのである。西南戦争の折には、西郷隆盛派についた兄と対立するという運命となるが、動乱期を生き抜き、後に愛国婦人会を設立。明治四十年、六十三歳で病没する。
DATE:June 28 1999
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No.3 土産
 坂本龍馬と言えば、西洋靴に西洋銃。時代の最先端を行くハイカラなファッションが、彼の個性とマッチして、ビジュアル的にも『英雄』を印象付ける絶妙な好素材となっている。
 さてその西洋銃。入手ルートは高杉晋作である。文久二年(1682年)上海見聞の折り、手土産代わりに購入したものを、晋作は龍馬に贈ったのだ。なんとも物騒ではあるが、晋作らしい土産である。が、西洋銃ぐらいで驚いてはいけない。晋作はその後、とてつもない土産を長崎で購入し、そのツケを藩にまわした。『オランダの外洋船(オテント丸)』である。その金額三万九千両(約二億円)。藩の重臣がアゴを外さんばかりに呆れ驚いたのは言うまでもない。他藩なら切腹ものだが、そこは長州藩。桂小五郎が藩主に直訴し、特別会計ということで出費が許可された。後にオテント丸は丙寅丸と改名され、晴れて藩の船として出動を果たす。
DATE:June 28 1999
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No.4 牛肉
 明治時代に大流行したものの中に、「牛肉」があるのは有名だ。だが、それを流行らせたのは誰かというのは、あまり知られていない話である。
 実はその役に、明治天皇と大久保利通の二人が関係していた。開国したとはいえ、 仏教の影響で、肉を食べるのは憚られるこの頃、大久保利通が明治天皇に、 「牛肉は栄養に富み、健康上大事である。野菜ばかり食べていては大事業は成せない」と説いた。 天皇はまず、牛乳から口にするようになり、やげて牛肉も食べられるようになった。その後天皇自らが仏教の禁を破って牛肉を食べたのだからと、国民にも食べるように促し、やがては食肉の習慣が大流行。おかげで今日、スキヤキという素晴らしい日本の代表料理がいつでも楽しめる世の中となったのだ。
DATE:July 12 1999
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No.5 来航1
 嘉永六(1853)年。黒船四隻で浦賀を訪れたペリー提督。「泰平の 眠りを醒ます 上喜撰 たつた四はいで 夜も眠れず」と狂歌にも詠まれたように、人々は驚愕し、さぞや日本中が震撼したであろう。…とは、ペリー来航の一般的な知識と印象である。だが、事実は少々違うようだ。
 ペリーに先立つこと七年前の弘化三(1846)年。アメリカのビッドル提督が、黒船二隻をして突然浦賀にやってきた。ビッドルの目的は、アメリカ大統領・ポークの親書の受理と、通商交渉。(全くペリーと同じである。)幕府はこれを拒絶し、ビッドルに退却を要求。ビッドルは九日程滞在した後、大人しくアメリカへ戻って行った。
 そして次にやって来たのがペリー艦隊。しかもこの来航に関しては、事前に幕府へ情報が届いていたのである。 当時、日本と友好的関係にあったオランダが、海外事情を事細かに幕府に知らせていた。ペリーの件にしても、艦の名前・司令官の名前・装備・そして日本への旅程まで、実に細かく報告していたのである。(来週の「来航2」へ続く)
DATE:July 19 1999
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No.6 来航2
 七年前のビッドルの来航、オランダの海外事情報告などによって、幕府はペリーの来航を事前に十分認識出来ていた。つまりペリーは突然浦賀にやってきたわけではなく、幕府も浦賀の人々もあまり驚かなかったのだ。 その様子を、「土人甚だ憂うるの色あり。しかれども絶えて騒擾の態なし」と、黒船見物に行った吉田松陰が日記に残している。「土地の人は心配な様子であるが、特別に騒いだりはしていない」と言う意味である。
 この来航は、前回のビッドルの失敗を取り戻すべく、力ずくでも条約を締結させんと、当初の予定では十二隻の艦隊で迫り来る構想だったのだが、様々な不備が重なり、結局まともに動くのは、 軍艦どころか防衛のための大砲を備えた蒸気船二隻と輸送船二隻。当の本人(ペリー)にとっては、結構計算違いだらけの来航になってしまったらしい。 それでも、結局は条約を締結させるに至ったのだから、ペリーの気合勝ちといったところか。
 余談だが「ペリー来航 1853年」を、「いや(18) 降参(53)だよ、ペリーさん」と覚えた昔を思い出す。現役学生の諸君は、今ではどう覚えているのか、是非とも教えていただきたい。
DATE:July 26 1999
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No.7 適塾
 緒方洪庵が大坂瓦町で開いた蘭学塾は適塾、または適々塾、適々斎塾とも呼ばれ、大村益次郎や福沢諭吉など、多くの俊英たちが学び巣立って行ったことで有名である。
 さてその授業風景。整然と机を構えて洪庵が蘭学を講じていたのかと思えば、実はなかなかワイルドで、自由奔放だったようである。酒は呑み放題。 虱もわき放題。一人一畳のテリトリーの中、夏は素っ裸で生活をしていたらしい。 (恐らく「なすびの懸賞生活」よりも凄まじい光景だったに違いない。)また、牛鍋屋から豚の頭を譲り受け、 解剖に役立てた後に皆で煮て食したとか。尤も、食すのが目的で、解剖がついでだったのかもしれないが。
 肝心の学問はというと、自学自習が原則で、質問するは恥とされていた。 定期的に行われる会読で自習の成果が試され、成績の如何で昇級が決定される。 拠って各々、向学心と自尊心を原動力に自主学習に励んだ。緒方洪庵の、人に蓋をしない大らかな生活と、自主性を伸ばすその指導方法が、後の偉人たちを輩出していった所以なのだろう。
DATE:August 2 1999
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No.8 物見遊山
 慶応元年、第二次長州征伐。手負いの虎を討つべく、幕府は兵力を西へと差し向けた。 その中に八王子周辺警備の「八王子千人同心」と呼ばれる一団がいた。彼らは江戸の初期に、 徳川家が武田家や後北条家の遺臣を土着させた半農半士の者たちで、定員がほぼ千人いたことから、 そう呼ばれるようになった。
 結構歴史のある彼らは、新式銃を三百程与えられ、名前も「千人銃隊」と改めて期待の出陣を果たす。 しかし幕府軍にとって事態は暗転。結局「千人銃隊」も、活躍らしい活躍もせぬままに帰国命令が出され、 帰路を四国の瀬戸内海沿岸として、慶応2年に八王子に引き上げてきた。
 帰途に要した時間、約三ヶ月。何とその間、彼らはちゃっかり、道後温泉に浸かって骨休めをし、 金毘羅参りをしていたのだ。中には土産のお札を、抱えきれない程持ち帰った者もいたらしい。
 四面楚歌で背水の陣の長州軍や、焦眉の急で累卵の危機の幕府軍を余所に、末端とは案外こういうものなのかもしれない。
DATE:August 9 1999
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No.9 生首
 現代の世では「生首」に遭遇する機会など皆無といっても良い。恐らく幽霊やUFOに遭う確率よりも低いだろう。(関係ないが筆者はUFOを二回目撃した。)
 しかし、江戸・幕末期には生首遭遇が日常茶飯事であったかというと、そうでもない。京都での、文久二年以後から明治にかけてのさらし首は、近藤勇も含めて8つ程度である。おそらく日本国中の生首目撃率は1%にも満たない数だろう。
 前置きはさておき、高杉晋作の幼少期を語るエピソードの中で、かなり強烈な話がある。
 萩の処刑場へお弁当を持っていき、処刑された罪人の生首を見物しながら平然と食したというのだ。想像するまでも無く、とても普通の神経では出来そうに無いだろう。
 とかくこの手の話は誇張されがちで、この話に至っても真実かどうかは疑わしいが、火の無い所に煙は立たない。極めて大人しい人物に、生首が登場する程の過激な逸話が残るケースは、まず有り得ないのだ。すなわちこういうエピソードが残ること自体、着眼すべき事実と言えよう。
 真偽はともかくとして、高杉晋作の気性が窺い知れ、実に興味深い逸話の一つである。
DATE:August 16 1999
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No.10 甘党
 新選組で甘党といえば、おそらく一番隊長・沖田総司の名前が真っ先に上がるだろう。酒を好まず(本当は飲んでいたという証言も有るが)、しるこなどの甘い物をよく口にしており、子供好きで誰からも好かれるような人物であると、広く現在に伝わっている。そんな沖田のキャラクターとかぶってしまう為か、もう一人の甘党の存在は、世間に大きく取り上げられた試しが無い。
 新選組局長・近藤勇。彼もまた、自他共に認める甘党なのである。
 いかにも豪傑で酒にも強そうな近藤だが、実はそれほど飲めなかった。宴会はどうやら大好きで、参加はするもののチビチビと酒を口にし、酔う前に伏せてしまう体質だったらしい。今で言う「お付き合い程度」の酒だろう。(宴会には、酒よりも他の目的があったと推測できるのだが。)
 近藤は、甘いもの…特に饅頭が好物だった。京から送った手紙の中にも、「住み心地はよくならない。ただ、こっちは菓子が美味しいのでありがたい」と残している。 少々厳ついあの体躯で饅頭を頬張るその様は、天才剣士沖田以上にギャップがあり、何とも微笑ましい限りである。
DATE:August 23 1999
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