No.11 褌(ふんどし)
 旅行・出張・朝帰り(?)。忘れずに用意しておきたいのが着替え用の下着である。
 図太い神経で有名な坂本龍馬でも、流石に同じ下着(褌)を付け続けているのは具合が良く無いと思ったようだ。
 時代は慶応。西郷隆盛の家に逗留した時のこと。龍馬は西郷の妻に、着替え用として古い褌で良いから譲ってくれと話したところ、妻は快く、言われるまま用意をして渡した。帰宅した西郷はそれを聞いて妻を叱責した。 「お国のために命を捨てようとするお方に、一番新しいのに代えてあげろ」と。そしてわざわざ新しい物を、龍馬のために用意させたのである。 龍馬は感激し(勿論その他の心遣いもあり)、隆盛夫妻に大きな信頼を寄せるようになったと言う。
 どんなモノでも、扱い一つで人柄や性格を映す鏡となり得る。
 たかが褌。されど褌。
DATE:August 30
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No.12 大老
 井伊直弼が時の大老となったのは、安政五(1858)年4月23日。 大老の候補には他に松平慶永の名もあったが、将軍家定は、自分の言いなりになりそうな人物として井伊直弼を推挙した。 「埋木舎(うもれぎのや/直弼の隠居場)」から脱して藩主となったその8年後。直弼43歳のことである。その後は教科書でも記されている通りの歴史へと展開してくのだが、面白い事実が一つある。
 桜田門外の変の後、井伊大老は何と二ヶ月近くもの間、生きていたのだ。
 首は確かにはねられた。(初めに銃で撃たれ、首を落とされたらしい。) しかしその首は、大老と年齢・背格好のよく似た「加田九郎太」という藩兵のものである。…と、井伊家では処理をした。
 実はこの時、井伊家にはまだ後継ぎが決まっていなかった。 ここで直弼が殺害されたとあれば、後継不詳でお家断絶は必至。そこで苦肉の策として、 直弼はまだ生きており、首を取られたのは「九郎太」であると周囲にも押し通した。 そして慌てて後継者を決め、何とかお家断絶を免れたところで直弼の病死を発表。
 従って記録上では、事件の後も、井伊大老は二ヶ月近く生きていたということになる。
DATE:September 5 1999
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No.13 唯我独尊
 部屋の床に虎の皮を敷き、訪れる人を威嚇してその反応を見たという悪趣味なこの男は、 少年時より秀才の誉れ高く、壮年期までは和漢の学の修業に努め、経学・朱子学に関心を持ち、 蘭学・洋学に勤しみ、砲術を修め、オランダ語と漢学の交換教授を行い、 フランス語事始めにも立ち会った。彼の元には多くの人材が集まり(虎の歓迎を受け)、交友を持ったことが記録にも残っている。
 ギラギラとした瞳と口元の髭が印象的な人物…と言えば、そう。松代藩士、佐久間象山である。
 その性格はというと、傲岸不遜で、なかなか個性的だったらしい。
 女性は顔より臀部(尻)であると信じ、下半身の大きな妾の紹介を人にしつこく頼んだりしている。西洋の遺伝学にちなみ、自分の血を健全な子供に残そうと思っていたのだ。自らを「天下の第一人者」と称し、日本人が世界で一番優れていると考えていたので、つまり自分は世界一。しかも、自分とナポレオンをなぞらえていた。 その素晴らしい血は正しく残さねばと言うのである。かなりの自信家だ。
 妹が象山に嫁いだ勝海舟などは、彼を「法螺吹きで困る」と酷評している。(勝自身も法螺吹きとして有名なのだが。)ちなみに勝海舟の妹・順子と結婚したのは象山四十二歳の時。順子は十七歳。共に初婚である。順子の臀部が大きかったのかどうかは定かではない。
DATE:September 12 1999
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No.14 河豚
 山口県は下関の特産物で、縁起を担いで濁点をとり、『フク(福)』と現地では呼ばれている。また一般に種子島(鉄砲ともいう)と異名を持っているが、これはあたると死ぬところから、そう呼ばれれるようになったらしい。
 長州の志士の中には、箸で切り身を摘み上げ、向こう側を透かし見て、舌鼓をならしていた者もいただろう。だが、その皿の上の白い華を、見ているだけで決して食そうとはしない者がいた。
 長州藩士・山県狂介。松下村塾の塾生で、後の山県有朋である。魚が嫌い…という訳ではない。「怒って膨れる姿が好かん」と、河豚を薦める高杉晋作に言い訳をしているが、毒を気にしてのことなのだ。「狂」と名前にはついているが、彼は結構綿密な計画をたてる男だったらしい。その慎重な性格が、幕末動乱を生き抜いて89歳という長寿を全うした所以なのだろう。
DATE:September 21 1999
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No.15 五稜郭
 安政元(1854)年3月「日米和親条約」が締結され、函館の開港が決まった。 そこでロシアとの問題もあり、北辺の守りを強化が急務となった幕府は、 函館に城郭を築いて函館奉行を置き、蝦夷地管理とともに北辺守護に備える事になった。 そこで安政四年に着工。八年をかけて元治元年に完成したのが五稜郭である。
 従来の天守閣スタイルでは、大砲などの格好のターゲットとなるばかりでなく、 火には全く弱かった。そこで外国との戦争を想定し、火器攻撃の防備を考え、 ヨーロッパで流行していた洋式スタイルを取り入れた、 全く従来にない形の城を建設することになった。
 五つの突き出た砦を創り、 その周囲には濠をめぐらせ、敵がどの方向から近づいても、 先端の砦から砲撃ができる計算である。(五稜郭の「稜」は隅・角の意で、 「郭」は砦。すなわち、五つの角の砦という意味が名前から分かる。)
 しかしこの五稜郭、当初建設予定であった出城が、財政上の都合から建築中止となった。 つまり未完成のまま、函館戦争を迎えることになってしまったのだ。
 外国からの脅威に備えて築城された五稜郭が、 よもや同じ国内勢力との最期の戦いの場になろうとは、当時の幕府には思いもしなかっただろう。 幕府軍は善戦していたが、落城の原因は、 榎本軍に新政府軍のスパイが潜入していたためだと言われている。
DATE:September 28 1999
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No.16 英語
 「掘った芋いじるな(触るな)」というフレーズを知っているだろうか。 実はこれは日本語ではない。「What time is it now.」を日本語に当てはめたものなのである。
 幕末には様々な外国人が入り乱れ、国家レベルの会談が各地で執り行われるようになる。 当然、相手の言葉を理解しなければならず、英語などの諸外国語を勉強する羽目になる 者が出てくる。和英辞典や英和辞典などあるはずがない。 耳で覚え、書き記して、口に出して覚える。これがまた、意外と良い発音に聞こえる。
 実際に「ホワットタイムイズイットナウ」と声に出し、次に「ホッタイモイジルナ」とソレらしく言ってみよう。多少のセンスも要するが、後者の方が遥かに実際の英語の発音に近いだろう。
 では、次に挙げたカタカナを実際に口に出してみよう。(アクセントは赤字部分)
 @ンケ Aスオ  Bツウ Cーノ Dアイロンダ
 一体何のことだか分かっただろうか?それぞれ、
 @ink Asnow Bbottle Cmoon Dislandのカタカナ表記である。実に絶妙だ。
 ここで一つ追記しておかねばならない。
 ペリーが来航した折り、 日本語−米語間の通訳が出来る人間が双方にはいなかったらしい。 ペリーが連れてきた通訳は米語−オランダ語。幕府の抱える通訳も日本語−オランダ語。 従って、ペリーとの会見はオランダ語を挟んだ伝言ゲーム状態だったと思われる。
DATE:October 4 1999
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No.17 エヘン
「エヘンがを」という言葉が坂本龍馬から姉の乙女にあてた手紙の中に登場する。 一体どんな「かを」を龍馬はしていたのか、その手紙を読めば容易に想像できる。
  手紙を出したのは龍馬二十九歳の春。 「此頃は天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、 ことの外かはいがられ候て、先きやくぶん(客分)のよふなものになり申候。 …(中略)…兵庫という所ニて、おゝきに海軍ををしへ候所をこしらへ、 又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも、四、五百人も諸方よりあつまり候事…(中略)…  すこしエヘンがをして、ひそかにおり申候。達人の見るまなこハおそろしきものとや、 つれづれニもこれアリ。猶エヘンエヘン、かしこ…(以下略)」
  勝麟太郎(海舟)の門人となった彼は、その状況と心境を手紙にしたため、 「をひとりで読んで下さい」と注釈して姉に送ったのである。 「達人の見るまなこハおそろしきものとや」とは自分を見る他人の眼で、つまりは自分を達人としているのである。また、軍艦が四、五十間(70メートルから90メートル)、塾生が四、五百人というのは、かなり大袈裟である。大先生勝麟太郎に認められ、今の自分を姉に分かって欲しいと筆を走らせるうち、絶好調になってきた様子が目に浮かぶようだ。
 「エヘンがを」の意味はお分かりいただけただろうか?「猶エヘンエヘン」と共に、実に茶目っ気の溢れる名文句である。
DATE:October 11 1999
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No.18 名前
 現代では基本的に名前は一つであり、変更する機会など、結婚して相手の姓を名乗るとか、 没後に戒名をつけてもらうとか、芸人や漫画家などある種の職業になって本名ではない 名前を付けることぐらいしか無いが、昔は諱(いみな)・字(あざな)・雅号・変名…等、 人によっては10個を軽く超える程沢山の名前を持っていた。
 「諱」とは実名のことで、死者の生前の名前をさす。生前には「名」と言い、 死後には「諱」と呼ぶのである。死んだ後には「謚(おくりな)」を呼んで、 生前の名前を呼ぶのを忌み嫌うことから「いみな」と呼ばれるようになったのだ。
 「字」とは中国では元服の時に実名の他につける名前で、他人がその人を呼ぶときには 「字」を呼ぶのを礼儀とし、自分が人に対して自分の名前を言う時には 「実名(死後に諱となる)」を呼ぶのが礼儀とされている。
 「号(雅号)」は呼び名の一種で、 住地や書斎などにちなんで付けることが多く、そのために風流な名前が数多く見られる。
 「変名」は幕末に多く見られ、本名で動くには憚られる立場の者たちが隠密に行動するために 付けた名前である。代表的な人物では坂本龍馬→才谷梅太郎、木戸孝允→新堀松輔、 高杉晋作→谷梅之助などである。
 また、幕末では自分の名前のみならず、地名にも変名(隠語)を使用していた。
 京都→東方、江戸→西方、長州→江之本、薩摩→円十郎などである。
 「江之本の瓜中万二(吉田松陰)が西方に発った」といった具合だろうか。
 ちなみに日本史上最も名前が多かったのは、33個というダントツ一位のこの人物。 新選組沖田総司の親戚筋にあたる大人気作家・曲亭馬琴である。 滝沢馬琴の名前も伝わるが、本人は生前、一度も滝沢馬琴とは名乗っていない。 後の国文学者の過ちが一般的になってしまい、あたかも滝沢馬琴の名前が存在したかのように、 現在にも通りが良くなってしまったのだ。 当時の有名人は、金に困るとその時に使用している名前を売り、自分はまた新しい名前を 付けて、また金に困るとそれを売る・・・ということを繰り返していたようだ。
DATE:October 18 1999
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No.19 珍客
 文久2年と言えば、薩英戦争や八・一八の政変(堺町門の変)など、まさに徳川三百年、ひいては幕政七百年の屋台骨の亀裂が顕れ始めた頃である。
 インドからの珍客に、庶民は大いに沸いた。
 やってきたのは一頭の象。それ以前にも、象は時折輸入されては見世物として人々にお披露目されていたのだが、亨保14(1729)年以来、それはしばらく途絶えていた。 絵でしか見たことのないその姿に、人々は一目それを確かめんと両国の見世物小屋へ大挙として押しかけ、象の錦絵が飛ぶように売れた。興行は両国以外でも開かれ、江戸や大阪の天王寺等では一時ちょっとした象ブームになったらしい。
 また、元治元年の三月には「中天竺舶来の軽業」と銘打つ西洋人の曲馬団が横浜などで興行した。中天竺とはインド中部のことを指すが、この場合外国人の普通名詞として使用されていたので、正確な人種は不明である。
 彼らは男女混合のミニサーカス団のようなもので、輪潜りや馬上の逆立ち、美女が玉乗りをしながら短剣を操る技などを観客に披露した。
 「夷人はちょっとコワイけれど、こんな楽しいモノなら大いに来日してもらいたい。」と思った庶民は、恐らく多数いたことだろう。
DATE:October 25 1999
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No.20 あさぎ
 あさぎ色には浅葱と浅黄の二種類がある。
 浅葱は近世から使われるようになった文字で、ネギ(葱)の若芽のような色…すなわち新選組の羽織でお馴染みの鮮やかな青い色である。武士が切腹する際に着用した浅葱の羽織を常に身につけることによって、生命を張って職についているのだという決意が、新選組の浅葱色の羽織には込められている。その羽織(隊服)の発案者は芹沢鴨で、ご丁寧に制作費用まで自ら都合(別名・恐喝)をした話は有名だ。
 一方の浅黄はかりやす草で染めた淡い黄色で、「浅黄裏」のことを単に「浅黄」とも言った。「浅黄裏」とは裏地に「浅黄木綿」を用いた着物のことだが、主に各国から江戸にやってきたいわゆる単身赴任の貧乏侍が、この浅黄木綿の裏地の着物を着用していたことから、遊里言葉ではもてない野暮な田舎侍を蔑視して「浅黄裏」と呼んでいた。
 浅葱と浅黄は同じ語感なので、同一視されたり、誤って表記されたりと、混乱が甚だしい。歌舞伎の「あさぎまく」では、今日「浅葱幕」と書く慣用が強いが、古くは「浅黄幕」の方が一般的である。また、「浅黄」を俗字とし、「浅葱」を本字としている文献(書言字考節用集)もあるが、結局は時代背景や状況などを考慮しなければならず、「あさぎ」の平仮名表記だけでは、どちらの色を指すかは容易に特定できないようだ。
DATE:Norbember 1 1999
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