No.21 降嫁
 幕府がうち出した公武合体の策に、天皇家と将軍家の縁組が執り行われたのはあまりにも有名な話である。最も高い身分である天皇家から下の身分に嫁ぐ。すなわち降嫁。勿論天皇家では当初首を縦にはふらなかったが、夷国嫌いの孝明天皇は岩倉具視などの説得の末、攘夷決行の約束と引き換えに、やむなく妹和宮を人身御供に差し出すことを承知した。 和宮には当時有栖川親王という婚約者がおり、何度も辞退したいと懇願した末、一時は別の候補者を将軍家へ薦めたがまとまらず、結局和宮が涙を流すこととなった。
 実はこの降嫁問題、まとまらなかったもう一人の候補者とあと二人…そして和宮を含めて四人の名前があがった。
 降嫁の話が出た際、一番に名前が出たのは孝明天皇の娘冨貴宮(ふきのみや)であった。しかし冨貴宮は産まれたばかりで、しかもまだ話がまとまらないうちに他界してしまった。もう一人は孝明天皇の姉敏宮(ときのみや)。だが年齢が三十歳だったので、十四歳の家茂に嫁がせるには少々無理があった。そして和宮が嫌がったために候補者となったのは、孝明天皇のもう一人の娘寿万宮(すまのみや)。これもまた、冨貴宮の次に産まれたばかりのまだ嬰児で、すぐに死亡した冨貴宮の例もあり、幕府側が受け入れなかった。
 泣く泣く嫁いだ和宮だったが、幕府の約束は不履行に終わるわ、公武合体を反対する者達に火を注ぐわ、どうやら降嫁は逆効果。 しかし和宮にとっては、家茂が優しく温和な人物だったのが、何よりも救いとなっただろう。やがて二人は、仲睦まじい夫婦になったと言われている。
DATE:Nobember 8 1999
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No.22 借金
 江戸末期、天下の薩摩藩にはある大きな悩みがあった。
  借金総額が五百万両(約三千七百五十億円)。利息だけでも年間六十万両(約四百五十億円)に登り、それに対して収入は十二万両程度(約九十億円)。借金の発端は、八代藩主・島津重家の放漫財政によるものだが、原因をとやかく言っている場合では無い。
 しかしこの難問…いや、不可能に立ち向かった一人の男がいた。 薩摩藩家老・調所笑左衛門(ずしょしょうざえもん)。彼は借金どころか、何とたったの十年で、藩庫に百万両(約七百五十億円)もの蓄えをもたらしたのである。 その方法は、何とも大胆不敵で強引だ。
 まず、元金の五百万両は、二百五十年払いとさせた。つぎに古証文を新しく通帳制に変更するという理由で借金証文を差し出させ、集めた証文を焼き捨ててしまった。こうして五百万両の借金をほとんど無きものとし、その上に偽金をつくって消せなかった分の支払い等にあてた。さらに需要のある黒糖に目をつけ、その販売権を握って増収を図り、琉球国を通じて禁止されている清との貿易を行った。
 つまり早い話が、ほとんど借金を強引に握りつぶした上、偽札を作って独占販売や密貿易を行ったのだ。これでは全く「や」も同然。そのダーティな手段に賛同する者ばかりではなかったと思われるが、これらの様々な策が功を奏して薩摩藩の懐は次第に暖かくなっていき、軍備補強にも力を入れるに至って明治維新の原動力となったのだから、天晴れと言わざるを得ないだろう。
 ちなみに二百五十年ローンは、平成十一年の現在でようやく百六十四年目にあたり、あと八十六年も残っている。元より全てを返済する気はなかっただろうが、それでも明治維新後までは真面目にコツコツ返済していたらしい。当然、偽札を使用したと推測されるのだが。
DATE:Nobember 15 1999
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No.23 総理
 日本の初代内閣総理大臣はご存じかつての千円札伊藤博文 (いとうひろぶみ:ひろふみは誤り)である。現代の世では、 内閣総理大臣になるには、まず総選挙の後に内閣はいったん総辞職し、 衆・参両院で首班指名の投票が行われる。
 当然、 国会多数党の代表者が多数票を獲得し、 内閣総理大臣に指名されるという訳だ。
 明治時代はどうやって内閣総理大臣を決めていたのかというと 、実は綿密な決定方法などは記されていない。ただ明治憲法(第10条) には、「天皇は…中略…文武官を任免す…」とある。 つまり総理大臣以下、国務大臣の任命と罷免を、 天皇の権限で行うことができるのである。とはいえ、 実際に天皇自身の独断でそれらが任免されていた訳ではなかった。
 初代総理大臣の例では、まず参議が話し合い、 意見を徴したうえで三条実美太政大臣が天皇に伊藤博文を推薦し、 天皇が首を縦に振った時点で、天皇の指名であることが決定づけられ、 親任式を経て広く国民にも公布された。伊藤はその当時、 欧州から帰国し、立憲制建設のために内政改革に尽力しており、 その主導権もほぼ掌握していたことから、 名前が出て然るべき人物であったのだ。
 以後は前任の首相が後継の首相を天皇に奏請する形式が定着した。 この場合でも、前任首相が独断で候補を選出していたのではなく、 事前に有力政治家の間に根回しをしておき、彼らの了解を得た上で天皇に奏請していたらしい。
 いつの世でも、多数党や権力者が有利な仕組みになっているようだ。
DATE:Nobember 22 1999
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No.24 夢枕
 時は遡ること鎌倉時代。幕府覆滅計画が露見し、 窮地に立たされた後醍醐天皇は潜幸先の笠置山で、 夢枕に立った子どもから楠木正茂の存在を知らされる。 彼こそが自分を救う武将であると悟った後醍醐天皇は、戦線から離れていた正茂を召喚する。 これは後醍醐天皇と楠木正茂の出会いを劇的に描いた『太平記』の創作部分である。
 それから五百年以上が経った明治37、8年。ロシアのバルチック艦隊が極東に向かった という噂がひろがった。日本に及ぶ危機を懸念する昭憲皇太后は、 その夜、夢を見た。
 「微臣坂本龍馬でございます。 このたびの海戦はいささかのご懸念遊ばす必要はございません。力及ばずといえども、 皇国の海軍を守護致します」と、見たこともない大男が夢枕に立ったのだ。
 皇太后は龍馬を知らないし、勿論本人はとうに暗殺されてこの世にはいない。 その後に届けられた坂本龍馬の写真をみた皇太后は驚いた。まさに夢枕の大男そのものだったのだ。
 この龍馬の夢枕の話は、土佐志士で後の内務大臣・田中光顕が残した 『維新夜話』の中に記されている。夢枕の話自体は『太平記』同様、創作の可能性もあるらしいが 、田中光顕はこの日本の窮地に、幕末の時代(ころ)を重ね見て、 坂本龍馬の如く人物の出現を望んでいたのかもしれない。
 光顕は『維新夜話』の中で「龍馬の献身的報国の至誠は死後といえども祖国を守っている」と書き遺している。
DATE:Nobember 29 1999
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No.25 流罪
 奄美大島・徳之島・沖永良部島と、三つの島に合計四年もの間島流しになっていた西郷隆盛だが、奄美大島の二年弱は島流しといっても、流罪には値しない。
 そもそも、奄美大島居住となった経緯は、勤皇僧と呼ばれた月照が藩に追われるにあたり、西郷と行動を共にした後二人で入水自殺を図ったのだが、西郷だけが助かった。 その西郷に対して、このまま責任を負わせて処刑するには惜しい人物であると、藩の家老新納駿河が一計を案じた。西郷には「菊池源吾」と改名させて奄美大島に亡命させ、幕吏が介入してきたら西郷の代わりに、最近刑死した罪人の死体を見せて誤魔化そうというのだ。ご丁寧に墓まで用意しておいたという説もある。拠って内容的には、流刑ではなく政治的亡命と言ったところだろう。
 奄美大島での生活は、苦しいものではなかった。食料は鹿児島から送られてくるし、政治情報も鹿児島の同士が報告してくれる。そればかりか島の娘との間に子供まで儲けるほどの自由な暮らしぶりで、在島役人の横暴を摘発して島の英雄になったりもした。
 しかし生活に不自由は無かったが、島からは出ることが出来ず、流れゆく時代の中で取り残されるような想いはあり、西郷にとっては、精神的な島流しに相当しただろう。
 合計四年に渡る離島生活は、後の西郷の性格に大きな影響を及ぼしたと言われている。おそらく激流から少し離れた穏やかな場所から、その二つの大きな眼(まなこ)で、大局を静かに見つめていたのだろう。
DATE:DATE:December 9 1999
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No.26 賠償金
 安政の開港以来、各地で尊皇攘夷派による外国人殺傷事件が頻繁するようになった。己の信念のままに、夷敵どもをぶった切るのはさぞや痛快だったに違いない。
 しかし攘夷運動のツケは大きかった。
 まず、万延元年。ハリスの通訳として来日していたヒュースケン暗殺。彼はまだ28歳。前途ある若者の未来を断ったということで、幕府は彼の母に1万ドル(6千両/約4億5千万円)を支払った。さらに文久3年の生麦事件では、東禅寺事件での賠償金も含めて11万ポンド(26万両/約195億円)がイギリスに支払わた。金を運ぶだけでも丸三日は要したと言われている。生麦事件では、薩摩にもイギリス政府から2万5千ポンド(6万両/45億円)の支払い要求が出たが、薩摩は拒否。薩英戦争の引き金となる。しかし結局、薩摩は幕府から借用して、要求額の全てを支払うこととなる。
 そして薩英戦争の30倍…1350億円が要求された攘夷運動は、長州藩による下関戦争の賠償金。実はこの破格の請求額には裏がある。イギリスの狙いは、支払えないだろう額の賠償金を請求し、支払えなければ新たな開港を要求することにあった。しかし幕府は開港よりも支払いを選んだ。そして6回払いの3回分までを支払った時点で明治維新がなり、残りの半分は新政府が数年かけて支払ったのである。
 新政府の中核には、薩英戦争・下関戦争の薩長雄藩が閉めている。結局攘夷運動のツケは、周り回って、最後には支払うべき所が支払うというオチがついたようだ。
DATE:December 21 1999
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No.27 辞世
 死を前にして口にする最期の言葉を「辞世」と言い、それを句にしたものを「辞世の句」と言う。
 辞世の句(言葉)は、死を直面にして出てきた素直なものもあれば、健在である生前から、あらかじめ用意されたものもある。現代ではあまり辞世は取りあげられないが、昔はその人の人物史を飾る最期の名台詞であった。
 高杉晋作の辞世の句とされている「面白きこともなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」の下の句は、高杉が臨終の際に「面白きこともなき世を面白く…」と言って力尽きようとした時に、側にいた野村望東尼が続けて詠み、高杉は「面白いのう…」と静かに笑いながら息を引き取ったというのが定説である。しかし実際は、その合作が生まれたのは臨終の前年の慶応二年であるらしい。高杉の最期の言葉は「吉田…」だったという説が、かなり有力となっている。師である吉田松陰が迎えに来ているのを感じたのか、また、死を前にして、先に逝ってしまった師を懐かしく想って呟いたのか。いずれにせよ、「鼻輪のない暴れ牛」と言われた男の、あまりにも静かな最期だったようだ。
 日本史上で一番凄まじい辞世は、何と言ってもこの人…安土桃山時代の茶人・千利休だろう。
 「人生七〇、力い希咄(りきいきとつ) わが宝剣 祖仏ともに殺す」
 「りきいきとつ」の「い(漢字では、口がまえの中に力と書く)」と「咄」は禅宗の用語で「クソッ」と言う意味で、訳すと「私の人生70年は、一体何だったのか、くそ!この宝剣で仏も先祖もみんな殺してやる」となる。豊臣秀吉に裏切られて最期を迎える彼の、素直な心境なのだろう。そんな辞世を吐かせた当の本人秀吉は「つゆと落ちつゆと消えにし我が身かな なにわのことは夢のまた夢」と、出来過ぎとさえ感じられる美しい辞世の句を残している。
DATE:December 27 1999
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No.28 廃藩置県
 明治4年7月に廃藩置県が発令された。これまで藩主だった殿様は、己が頂点では無くなってしまうにも関わらず、反対する藩主はほとんどいなかった。その理由はまず、藩主は全員東京在住の華族となり、それなりの身分が保証される。次に藩で抱えていた借金を政府が肩代わりしてくれる、という条件に納得したのだ。
 この条件に不満であった藩主は、果たして何人存在したか…というと、実はただ一人。薩摩藩主の島津久光である。
 前もって廃藩置県の話を聞いていた久光は、西郷隆盛に何度も「廃藩置県だけは是対にやるな」と強く念を押していた。財政にも困っておらず、幕末屈指の強国であるという自信と、ようやく幕府を倒し、さあこれから薩摩の天下が始まると、久光は思っていたのかも知れない。それを、他の弱小藩とアタマを並べて江戸(東京)で華族暮らしなど、プライドの高い久光公には堪えられなかったのだろう。
 しかし廃藩置県は施行された。
 日頃から温厚な長州の毛利公などは、他藩への手本のためにと諭されて、城まで取り壊されたというのに、やはり「そうせい」と言ったのだろう。
 対する久光の怒りたるや烈火の如く。報せを聞いた夜、彼は周囲も驚く奇行でもって、その怒りを表現した。何と久光は海に浮かべた石炭船からドカンドカンと、怒りの花火を何発もぶっ放したのだ。その光景たるや、まさに桜島の噴火そのもの。薩摩藩ならではの天晴れなパフォーマンスである。
 もともと、西郷隆盛を毛嫌いしていた久光公は、この件でも彼に裏切られたと感じ、「こんな大謀反人のことだから、今度は朝廷も裏切るだろう」と檄をとばした。
 後に西郷は西南戦争を引き起こし、久光の言葉も遠からずとなってしまった。
DATE:January 12 2000
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No.29 私塾1
 鎖国を続け、異文化の進入を堅く拒んできた日本であるが、教育水準は来日した諸外国の要人達が口を揃えて絶賛するほど高かった。
 宣教師ザビエルなどは、「日本人は今までに発見された民族の中で、最も優れたものである。未信者の中で日本人より勝っている人々はいないと思われる」と賞賛している。ヨーロッパ以外の住民は野蛮であると思っていた彼の優越感を、見事に挫いたのだ。 当時公的な教育機関としては、藩が運営する藩校があげられるが、とても庶民が通える所ではない。しかしザビエルやペリーなどの異人達が絶賛したのは、藩校に通う武士の子達に限らない。彼等が驚いたのは、その辺りを歩いてるただの一般庶民なのである。
 庶民の教育水準を高めたのは、寺子屋を含む私塾である。
 現在では国が教育に干渉しているが、当時の「国」…幕府としては、庶民の教育などに感心は無く、寺子屋を初めとする私塾に対する援助や干渉などは全くなかった。それ故に、塾の方針は主宰者に委ねられ、それぞれに個性的な塾が登場することとなった。 その数は、幕末江戸の記録によると、寺子屋だけでも1,500ほど、全国では一万以上にも登ったらしい。
 寺子屋は主に読み書きや算術(そろばん)、私塾は寺子屋レベルを卒業した者が更に通う所で、寺子屋を小学校とすれば、私塾は中学・高校・大学と言ったポジションと言ったところだろう。
 現在の世でも塾の体制は残っているが、ほとんどが目的の学校に入学するためのモノであって、勉学そのもの…ひいては人生の目標のためのモノは、残念ながら皆無に近い。
DATE:January 16 2000
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No.30 私塾2
 幕末はちょっとした私塾ブームになった。人の命に関わる医者ですら、当時は比較的簡単に開業できた時代なので、私塾を開くのも造作はない。例えば、吉田松陰とその兄が生徒第一号となった松下村塾も、何もないところから始まった。要は教える先生と教わる生徒が揃えば、私塾が成立したも同然なのである。
 私塾といっても、ボランティアではない。教える師も生活をしなければならない。つまりは月謝…ということになる。
 有名な先生による私塾の月謝は、年間で一両二分(十一万二千五百円)そのうえに盆と正月に付け届け(いわゆるお中元とお歳暮のようなもの)の金額を足すと、倍近くになることもあったらしい。
 緒方洪庵の適塾は中でも比較的安く、年間で一両弱(七万五千円以下)。さらに広瀬淡窓の咸宜園は0.5両(三万七千五百円)程度であった。
 しかしもっとも安いのは、松下村塾の無料だろう。
 通う生徒の身分が様々で、余裕のある者が謝礼という形でいくらかを収め、米や芋を月謝代りに持ってくる者もいれば、逆に、食うに困っている生徒に食事をさせて帰ることもあったらしい。
 多くの人物を輩出していった松下村塾だが、吉田松陰が主宰となったのは安政4年から5年にかけての約一年程。「勉強なされませ」が口癖で、誰に対しても丁寧で物腰が柔らかい様は、「まるで婦人のようだった」という。
 松陰亡き後、明治二年・玉木文之進によって再び松下村塾は開かれる。しかし萩の乱が勃発し、それに門弟達が多数参加したため、文之進は責任を感じて切腹した。結局松下村塾は、玉木文之進に始まり、彼と共に幕を閉じたことになる。
DATE:January 24 2000
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