No.31 髭
 明治維新後、新政府の要人達の間である事が流行した。
 大久保利通、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋…など、写真を見てみると、その口元には何故かみな立派な髭を蓄えている。
 髭は時代の流行でもあり、古代の律令制時代には聖徳太子や菅原道真などに見られるナマズ髭が主流である。のっぺりした顔にひょろりとした髭がポイントとなり、どこか知的な印象を与えている。戦国時代には加藤清正などにみられるワイルドな髭が流行した。戦国動乱の中で、強さを誇示するための威嚇の意味もあったと思われる。
 では、明治に流行った髭はどこからきているのだろうか。
 確かなルーツとは言い難いが、欧米外遊が原因ではないかと推測されている。
 欧米諸国を訪問した伊藤や大久保達は、西洋人の立派な髭と出会い、大いに威圧を感じたのだ。特にドイツの宰相・鉄のビスマルクからは、政治的・思想的にも感化され、彼の口元の髭にあやかって、自分たちも外見的な威厳と威圧を持たんと髭を伸ばし始め、それが他にも流行しはじめたという。
 そうして明治政府の高官達が伸ばし始めたばかりに、逆に一般庶民の髭は差し控えられるようになってしまった。「大した地位も無いのに髭を伸ばすとは」と周囲から非難されるのである。
 現在の政治家達の中に立派な髭を蓄えている人物はまず見あたらない。それは国民に対して威圧などよりも、クリーンなイメージを与えなければならないからだろう。そういえば政治家ではないが、昨年から約何名か、髭の立派な方々がテレビのワイドショーを騒がせている。言わずともお察し頂けると思うが、政治家よりも数段口先の上手い人種である。その髭は類似しており、受ける印象も共通しているから不思議である。
DATE:January 31 2000
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No.32 実技
 蘭学塾として天保7年大坂瓦町に開設した緒方洪庵の「適塾」は、福沢諭吉・村田蔵六(大村益次郎)など、多数の俊英達を排出した。医学者でもあった洪庵が目指していたのは、蘭学一般の理解のための能力養成を重視した語学教育・実技教育であった。
 ある時、塾生である福沢諭吉は、同じ仲間である橋本左内が奇妙な行動をとることに気付いた。彼は夜な夜な、人目を忍んで塾を抜け出し、何処かへ通っているのである。怪しんだ諭吉が後をつけたところ、左内は風呂敷包みを持ち、川にかかる橋の下へと降りていった。そこで左内は、病に苦しむ貧しい無宿人を、無償で治療していたのである。左内は諭吉に「塾で習った医術が本当に通用するか、試しているだけだ」と笑ったが、諭吉は心を打たれて、これを美談と後の世に伝えた。
 果たして美談か単なる好奇心による実技か、現在では謎とされているが、前者ならば義侠心、後者ならば向学心。どちらも天晴れな心構えということにしておこう。
 後に左内は適塾で蘭学と蘭方医学を修め、江戸で西洋学を学び、向学心のなすがままに見識を広げて行くが、その俊英が故に将軍継承問題に巻き込まれ、安政の大獄で処刑される。罪状は「将軍継承問題への介入不届き」であったという。
DATE:February 6 2000
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No.33 諸隊
 幕末期には数多くの隊や組が結成された。当初は尊攘結社、海防予備軍、治安予備軍などの目的を持ち、民衆救国意識の結晶として、各地で続々と誕生していったのだが、やがては軍隊としての色彩を強めていき、戊辰戦争でそのピークを迎えることになる。 北は、榎本艦隊の来攻に備え松前藩の農兵が結集した遊軍隊から、少年ばかりで結成された会津の白虎隊や二本松少年隊、婦女ばかりで長州部隊と勇敢に戦った婦女隊。また貿易商社として有名な坂本龍馬の海援隊。それに対して中岡慎太郎が京都で結成した陸援隊は、龍馬の海援隊と合わせて翔天隊とも称した。
 隊の確かな数は不明だが、記録に残っていない物も考慮すれば、百以上は軽く存在したのではないかと推測される。
 しかし慶応二年辺りから右上に伸びる線を描いていた隊の勢いも、鳥羽伏見の闘い以後、その数は下降の一途を辿り、やがては粛正されていった。
 歴史にその名を轟かせた奇兵隊も例外ではない。
 その維新後の末路は惨憺たるものであった。(各諸隊の詳細は[幕末資料館]の[諸隊リスト]参照)
DATE:February 14 2000
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No.34 奇兵隊1
 高杉晋作が下関で結成したのは、正規の軍である藩兵(正兵)に対して奇を行う兵、…すなわちゲリラ決行が目的の隊であった。上陸してきた外国軍と戦うには、陣を張って戦う軍隊方式よりも、不意打ちや神出奇没のゲリラ戦が有利であると考えたのである。
 当時はまだ武士道という厄介なものが残っており、正々堂々と闘うことが当然であったため、ゲリラ戦法に武士が喜んで参加する訳はないと晋作は感じていた。そこで憂国の志を持つ者は武士以外にも大勢いることを知っていた晋作は、その門戸を広く開いて、身分を問わず隊へ受け入れたのである。
 身分の区別無く平等に教育をする方針は、晋作の師である吉田松陰のものである。晋作もその影響を大いに受けて当然なのだが、彼が心の中で身分差別を完璧に排していたかどうかは、少々疑問が残る。
 奇兵隊は身分の別なく、皆平等に扱われていたかというと、そうではなかった。
 隊の規律には、「着服そのほか、かねてよりの御作法相守り、諸子、匹夫の差別相立て候様、隊長よりかたく取締まり仰せつけられ候事」とある。つまり、身分によって着る物やそのほかを、「差別相立て」ろと隊長命令があり、士分以外の身分の者を「匹夫」と差別をして呼んでいた記録が残っているのだ。
DATE:February 21 2000
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No.35 奇兵隊2
 奇兵隊内では給料が支払われていたが、それも身分によって、十倍近くの差が生じていた。それどころか、身分問わずと看板を掲げながら、士農工商以外の被差別民達は、入隊すら拒まれていたのである。(逆に、被差別民ばかりの隊である「屠勇隊」結成の意見書を、吉田稔麿が藩に提出している。被差別民とも隔てなく交流した松陰の影響と、自らも身分差別を受けた経験によるものと思われる。)そして極めつけは、身分を偽って入隊した被差別民の者を、ただそれだけの理由で切腹させた史実も残っているのだ。
 もとは攘夷運動(外国からの防衛)のために結成された奇兵隊だが、その戦力は藩内の反対勢力の鎮圧と幕府軍を迎撃するために爆発し、圧倒的不利を乗り越えて、奇蹟ともいえる大勝利を納めた。
 奇兵隊はその後も東北や北海道などを転戦し、やがて帰藩する。
 すっかり正規軍と立場が逆転した奇兵隊を待っていたのは、藩による「兵の精選」という篩いであった。精選されたのは、当然士分の者達である。それ以外の者は脱隊させられたのだが、それに不満を持つ者達が結集して反抗すると、藩は追討軍をだして彼等を処分した。斬首された数は133人。輝かしい奇兵隊の歴史にこんな汚点が残ろうとは、その時すでに他界していた初代総督は知る由もない。しかしもしも晋作が生きていたなら、彼は果たしてどう行動しただろう。匹夫(士分以外の者)達に手を差し伸べ、ともに追討軍と戦っただろうか。それとも三味線を弾いて背を向けただろうか。
DATE:February 28 2000
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No.36 贈り物
 嘉永6年、黒船四隻を率いてやってきたペリー提督は、翌年に再び来航し、強固たる姿勢で条約締結を幕府に迫った。が、今回のこの交渉。ただ力で脅すだけではなかった。相手に好印象を与えようと、前回の来航で約束した品々を持参してきたのである。名付けて「ペリー提督の好感度UP大作戦」。
 持ってきたのは小型蒸気機関車と電信装置の二つ。自国の進んだ文化を見せ付ける目的も、裏にはあったと思われる。
 早速浜辺に機関車を走らせてみる。小型であるため、客車の中には入れないので、幕府の役人達は屋根の上に乗った。時速は20マイル(32キロ)。チョンマゲに羽織袴のサムライが、小さな機関車の屋根にしがみつく様は、さぞや滑稽だったに違いない。電信装置の実験は、会見所から1.6キロ離れたところに小屋を建て、その間に電柱をたてて電線を張って行われた。当時の役人たちは、一瞬のうちに彼方へ言葉が伝達されるワンダホーでアンビリバボーなマジックに驚き、毎日通信所に押しかけては、いつまでも送受信する様を見物していたという。
 果たして二つの贈り物の成果や如何に?
 多少なりともペリーの好感度があがったのかどうか、時の老中阿部正弘に聞いてみたいものである。
DATE:Merch 6 2000
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No.37 鹿鳴館
 不平等条約改正交渉を有利に進めるための欧化政策のシンボルとして建設されたこの鹿鳴館は、総工費16万円をかけて明治16年11月28日に落成式を迎え、有栖川宮親王や諸大臣、外国公使など、約1200名が参列した。
 夫婦同伴で、洋装にダンス。これまで奥座敷にこもっていた高官の妻たちは、突然の社交界デビューにさざぞや戸惑ったことだろう。
 それを指導したのが山川捨松という会津藩士の末娘で、彼女は明治五年に日本初の女性留学者として渡米し、西洋の異文化を大いに学んで帰国した。政府高官の妻達にダンスなどを指導する彼女は、大層な美貌の持ち主で、西郷隆盛の従兄弟である大山巌に見初められ、後に妻となっている。
 さて、欧米諸国との政策的な社交場というこの鹿鳴館だが、時にはかなり脱線した乱痴気騒ぎの舞台ともなったようだ。
 その最たるものは、明治20年4月20日、伊藤博文・梅子夫婦主催の仮面舞踏会(ファンシー・ボールと呼ばれ、欧米などで行われていたのを真似たもの)。伊藤夫妻はヴェネチア貴族に扮して賓客を迎えた。娘の生子はイタリアの田舎娘、井上馨は三河万歳、杉孫七郎は霧隠才蔵、渋沢栄一は山伏…など、それぞれに扮装を凝らして、夜九時半から翌朝四時頃まで踊りまくったのだ。
 さすがにこの騒ぎは非難囂々。度重なるの鹿鳴館の、絢爛豪華な茶番劇に堪えかねた勝海舟は、伊藤博文に「鹿鳴館淫蕩時代に於ける二十箇条の建白書」を突きつけ、行き過ぎた夜会を指摘し、その是正を要求している。さらにこの仮面舞踏会の直後には、伊藤博文と戸田氏共伯爵夫人との不倫の噂がオマケについたという。
DATE:Merch 12 2000
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No.38 天狗党
 その名はあくまでも他称である。藩内の『諸生党』に対して、そのもう一方の彼等を『天狗党』と言うが、どちらも正式な名前では無い。
 熱心な攘夷論者である水戸の徳川斉昭が、下級武士の中から有能な者を抜粋して藩政にも関与させた。天狗党創設メンバーの、藤田東湖や戸田蓬軒らである。しかし彼等の意見が重要視されることに対して、上級武士達は反感を覚え、「彼等は藩を危うくする」と非難をした。「成り上がり者のくせに天狗のように鼻を高くして威張っている」と言うのだ。そうして彼等のことを『天狗党』と侮蔑を込めて呼ぶようになったのである。
 そこへ安政の大地震が起こり、藤田と戸田が死亡すると、市川三左衛門を中心とする上級武士達(諸生党)は佐幕論を掲げ、攘夷論達を退けた。
 だが、そんなことでは過激水戸尊攘志士たちは諦めない。
 水戸が駄目なら京都がある。京都へ上り、朝廷から攘夷の勅許を得ようと彼等は考えたのだ。京都には徳川斉昭の息子慶喜も居る。慶喜は必ず自分たちを理解し、尽力してくれるはずである。彼等の中には、帝や慶喜の居る京都にさえ行けば…と、まるで京都がエルサレムの如く聖地に思えた者も多かったに違いない。
 だが幕軍の阻止をかわして迷走しながらも、何とか希望の地、京都の目前に到達していた彼等を待っていたのは、自分たちが心の支えにしている慶喜の討伐軍だった。
 敦賀で下った彼等は、その時の党首武田耕雲斎をはじめ353人が斬首され、天狗党は消滅した。
 しかしその後、年少であるために斬首を免れた武田耕雲斎の孫が『諸生党』狩りに走る。『天狗党』消滅後も、水戸藩の血で血を洗う歴史は繰り返されていった。
DATE:Merch 20 2000
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No.39 玉突き
 江戸末期、オランダ人によって長崎の外人居留地へもたらされたのが最初のこの遊び。玉突きとは言うまでもなく、ビリヤードのことである。
 しかし日本人は専ら傍観するだけで、当初は横浜のイギリス・クラブなどで、西洋人達が楽しんでいるのみだった。それが徐々に盛んになっていったのは、明治六年頃から。東京の役人や軍人が、築地の精養軒などで行っていた。
 当時玉突きは、賭博の一種と考えられ、政府からは厳しく禁じられており、新聞の記事には、「これに溺れると家も蔵も、仕舞いには皆失す程の恐ろしい遊び」であり、「皆さん決してこの玉をお取りなさるな」「御覧なさるな」などと、玉突きを禁じる報道がされていた。また、「西洋風の遊技玉突きが大いに流行し、…中略…色々物品を賭にして、頗る勝負を競うとの風説」と、禁じられていたにも関わらず、大流行した様が明治九年九月の新聞に掲載された。
 その後、玉突き熱は醒めることなく、ついには『弄玉集(ろうぎょくしゅう)』という玉突き術の翻訳書までが出版され、ついには政府の禁制も解かれて、明治十一年頃には玉突き場が堂々と営業するようになったようだ。
 ほんの十余年前、刀で人を突いて(斬って)いた頃に比べれば、棒で玉を突くぐらい平和なものである。未だに銃を捨てられない国々を考えると、刀を捨てた日本人は、ある種、勇敢な人種なのだろう。
DATE:Merch 27 2000
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No.40 湯治
 「嫌いな人を見つけるのは難しい」と言われるほど、日本人は温泉大好き民族である。千利休やねねを連れて有馬温泉に通った豊臣秀吉の話など、温泉にまつわるエピソードは、日本史の中でも色々と残っている。
 さて、話は幕末。
 何かと多忙な志士達は、身体を清潔にしてる余裕がなかったためか、皮膚病を患う者が続出した。皮膚病と言っても様々あるが、志士たちが主にかかったのは、疥癬(かいせん)、白癬(はくせん)、湿疹などである。
 疥癬とは、かいせん虫の寄生による伝染性の皮膚病で、ひぜんとも呼ばれている。白癬とは、はくせん菌による皮膚病で、たむし・しらくも・はたけ・みずむし等の総称である。湿疹は炎症の一種で、あせも・ただれ・かぶれ・くさ等である。どれも大層かゆくて堪らないが、軽傷の時は忍耐次第でそれほど気にならなくなる。だが重傷になると、歩行も困難になることがあったようだ。
 当時にはこれとった特効薬が無い。軟膏はあったものの、皮膚病用というわけでもなかったらしく、たかが皮膚病と言えど、重傷患者にとっては大層厄介な病だったのだ。そこで取り入れられるようになったのが、薬湯による湯治療法。諸国間を行き来する志士たちの情報の一つとして、それは次第に広まっていった。
 吉田松陰などは、流石にいち早くその情報を入手していたようで、静岡の下田市にある蓮台寺温泉で皮膚病治療をしたと今に伝わっている。
DATE:April 3 2000
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