No.41 接待
 福沢諭吉らの遣欧使節一行は、文久二年ロシアの首都ペテルブルグ(レニングラード)に到着し、迎賓館で手厚い歓迎を受けた。
 各部屋には『和魯通言比孝(日露辞典)』が置かれ、墨・筆・和紙などの日本の筆記用具が備えてあった。さらに寝室でも当時の日本で流通していた箱枕。風呂場には糠袋。さらに食事には、箸は勿論のこと、和食を中心に大坂風の漬け物までが並んだ。
 この至れり尽くせりの接待に、外国生活が長くなっていた一行は大喜びをした。
 その接待裏には、ヤマートフという男が絡んでいた。
 ヤマートフとは、大和の男という意味である。この人物。こじつけたこのロシア風の名前からも察することができるように、純粋な日本人であった。
 遠江掛川藩(静岡)の足軽の家に産まれ、通称増田耕斎。彼は女性問題で藩を出奔して伊豆に流れ着いた折り、ロシア艦隊付きの中国語通訳と仲良くなる。そこで日本地図や本などを手配して、一度は幕府役人に拘束されるが、逃亡し、その中国人の手を借りてロシアへ帰国する船に乗り込んだ。しかし、道中でイギリス船に拿捕されて捕虜としてロンドンに拘束され、やがてロシアのペテルブルグへ送られた。
 そこで通訳として活躍し、『和魯通言比孝』の編纂にも関与。やがては大学の日本語講師となる。
 遣欧使節の福沢諭吉は、彼の心遣いに感激し、会いたいと望むが、彼はその前に姿を現すことはなかった。
 しかし明治六年。訪れた岩倉具視使節団と面会し、岩倉具視に帰国を勧められる。日本を離れて二十年。ついに彼は新しく生まれ変わった祖国へと帰ってきた。
 そんな彼に日本政府はというと、何の関心も関与もなかった。彼はロシア政府から送金される年金で生活をし、明治十八年、六十五歳で静かに息を引き取ったという。
DATE:April 9 2000
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No.42 伝来
 鍋物や漬け物等、和食に欠かせない日本的な野菜に白菜がある。しかしこの白菜はアブラナ科の一・二年草結球性(葉が重なりあって球状となる種類)で、明治初期頃に輸入された物である。原産地はアジア西方。日本へは中国で栽培されていた中国品種が伝わった。
 意外にも白菜より早く日本へ来ていたのが、同じアブラナ科・二年生結球性葉菜のキャベツである。原産地はヨーロッパ南西部で、日本へ伝来されたのは江戸時代末期頃らしい。
 当時の日本人はこの珍しい植物を、食用としてではなく、観賞用として扱っていた。観賞用の結球性植物といえば葉牡丹が思い出されるが、葉牡丹は、キャベツのなかに美しい色素を持った物が登場するようになり、それが花の牡丹に似ていることから葉牡丹と名付けられたのだ。つまり葉牡丹は牡丹の一種ではなく、キャベツの仲間なのである。
 元のキャベツはというと、初めは珍しいので専ら飾って眺めていたのだが、やがて栽培が進められるようになり、食用として取り入れられるようになった。折しも明治維新。洋食化が次第に進んでいく中、取り合わせの野菜として、キャベツの食用としての栽培に拍車がかかったのである。肉食が進んでいく中で、付け合わせのキャベツはただの添え物としてではなく、脂肪の消化を助ける役目も果たしている。つまりコテコテトンカツには、絶好のパートナーなのだ。
DATE:April 16 2000
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No.43 労さい
 日本古来では、不治の病とされていたこの労さい(「さい」は、"やまいだれ"の中に"まつり"と書く)は、別名伝尸病(でんしびょう・「し」はしかばねとも読む)とも呼ばれていた。高杉晋作や沖田総司等が命を落とした病といえば、そう、結核のことである。その中でも肺結核のことを労咳と言う。
 結核は江戸時代初期に、若い男女の間で、ほぼ全国的に流行した。
 その症状は、微熱・発汗が続き、全身がだるくなる。そのため沈うつになり、不眠や食欲不振になってくる。さらに症状が進むと血を吐いて、精神力・体力共に低下していくのである。
 結核の原因は、結核菌によるものである。医療技術が進んだ現代では幻の病であるかのような扱いであった。しかしどういう訳か、最近になって静かに復活し、問題となっているが、余程で無い限り死に至る病では無い。だが当時は原因不明の病であった為、難病とされていた。また、精神的な圧迫感があるため、一種の神経病とされ、恋の病であると診断する医師もいたようである。
 ちなみに肺や気管支の血を口から吐くことを喀血(かっけつ)と言う。それに対して胃から吐く血を吐血(とけつ)と言う。喀血は、肺などの血のため、綺麗な赤い色であり、対して胃から吐き出す吐血は濁っている。池田屋騒動で、修羅場の最中に沖田総司が吐いたのは、鮮やかな真っ赤な血であったのだ。
DATE:April 23 2000
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No.44 順応
 頑なに門戸を閉ざして鎖国を続けていた日本だが、一度受け入れるとなると、その順応力(吸収力)は脅威ともいえる速度である。二十一世紀まであと僅かという現在では、開国からまだ百四十年程だが、日本の言語はカオス状態となっており、ただでさえ複雑な上に外来語・和製英語などが氾濫し、日本語や日本文化を学ぼうとする外国の方々に申し訳ないような事態となっている。
 その順応力は、開国前の黒船来航でも発揮された。
 人々は怯えて不安になったばかりではなく、怖いモノ見たさに浦賀に集結した。中には、浦賀まで陸路を行くのは遠いからと、小舟でわざわざ海路を行った者も多かった。相模(神奈川)や上総・安房(千葉)などから、黒山の人だかりならぬ黒山の小船だかりが出来たと言う。それに対して幕府はペリー再来航の折り、見物船の取締を敢行し、警備船を出すことになった。
 ここで日本人の好奇心が爆発する。
 警備船の役人は、次第に黒船に慣れ、その乗組員とも接触するようになり、食物をもらうようになったのである。ゆで卵やオムレツ、パンやビスケットなど、時には乗船してご馳走になることもあった。その感想はというと、まずゆで卵は大丈夫。しかしオムレツには牛や豚などの肉類が入っており、これはいただけない。パンは、何やら光るベトベトしたものがついていて、これもダメ。(どうやらバターである)ビスケットはどうやら大丈夫。しかしギヤマンの器にはいった赤黒い液体(ワイン)は、人の生き血に見えて、とても口にはできなかったようだ。
 幕府首脳が眉間にしわを寄せて対策に悩んでいる末端では、すでに近代国家に向けての受け入れ準備が、こんな形で始まっていたのだ。
DATE:May 1 2000
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No.45 博覧会
 明治四年頃から、京都の西本願寺や東京の旧聖堂など、各地で博覧会のようなものが流行するようになった。当時そんな催しは珍しく、人々は新しい時代の息吹を体感するために足を運んでいた。しかしそれらは古くて珍しい物を集めたいわゆる『骨董市』レベルのものだったので、現在の博覧会とは大分事情が違うようである。
 現在の博覧会に近い物が開かれたのは、明治十年八月二十一日。東京は上野公園で開かれた『第一回内国勧業博覧会』である。
 この時期はまだ西南戦争が終結しておらず、延期の声もあがっていたのだが、政府の勝利がほぼ確定しており、天皇・皇后を主賓に迎えて予定通りに開会式が執り行われることになった。
 『骨董市』とは違い、今回の博覧会の目的は殖産興業政策の推進である。
 美術館や農業館、機会館などの展示会場では、展示品の他に美しく着飾った女工達の製糸実演や、食品・反物などの販売も行われ、会場を演出するための大噴水や大時計が創られた。さらに夜には不忍池での花火などが彩りを添え、昼間に劣らず夜間も大盛況で、広い公園内は立錐の余地も無い程だったようだ。
 期間は十一月三十日までの百日間。その間の出展点数は約八万四千点。出展者総数は約一万六千人。観覧人数は四十五万人。この数字からも、政府の力の入れ方、庶民の文明開化に対する姿勢が窺える。
DATE:May 7 2000
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No.46 虎徹
 「下拙の刀は虎徹ゆえに候や、無事に御座候」
 池田屋騒動の後に、刃こぼれをして使い物にならなくなった他の隊士の刀に対して、自分の刀は虎徹であったから、全く大丈夫であると近藤勇が言った話は有名である。
 しかし実際に近藤が持っていた刀が虎徹かどうかは、現在でも謎とされている。
 子母澤寛氏の『新選組遺聞』の中で、近藤は虎徹を買ったつもりだが、実は虎徹と作風の似た山浦清麿の刀を、虎徹として売りつけられ、それと知らずに愛用しているのだとある。名作には偽物が多く出回るのが世の常であるが、特に「虎徹をみたら偽と思え」と言われるほど、この名刀には贋作が氾濫しており、近藤の刀もその一つであった可能性が高いようだ。
 その入手方法にも諸説ある。
 近藤が大坂の警備に就いたとき、鴻池に押し入った強盗を斬り捨てた謝礼として鴻池から貰ったという説。斉藤一が京の夜店で購入し、近藤がそれを気に入り、譲って貰ったという説。近藤が京都で活躍中に、将軍家から拝領したという説。などである。
 虎徹を制作したのは、長曾弥虎徹という甲冑師の家系に産まれた男で、初めは甲冑を創っていたのだが、ある時、自分の兜が割られそうになったのを見て、割られる兜よりも割る刀を創ろうと思い立ち、刀鍛冶に転向したという経歴の持ち主だ。もともと古い鉄の処理に長けており、「古鉄」と銘を切っていたが、やがて中国の故事にちなんで「虎徹」と名乗るようになったという。甲冑師から刀工に転向したのは明暦二年(1656年)五十一歳の時(五十歳説もある)。池田屋騒動より遡ること二百余年前の話だ。
DATE:May 15 2000
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No.47 夏みかん
 5月に萩を旅すると、白い土塀から愛らしい黄色の珠がそこかしこで暖かく歓迎してくれるのに出逢う。萩の特産物として有名な夏みかんだが、その生産高が飛躍的に伸びたのは、明治維新の影響であった。
 士農工商の廃止。それによって一つの階層がポッカリと浮き上がる。刀を腰に差し、自らは何も生産せず、他層の上に大あぐらをかいていた「士」の層である。
 彼等のほとんどは、いわゆる大リストラの憂き目に会い、職を失ったプータローと化した。器用な者や要領の良い者はうまく転職できたが、大半は途方に暮れるばかりである。収入が無いのだから、日々の生活は窮する一方なのだ。
 その不満は明治新政府へと向けられる。だが新政府はそれどころではない。ゼロからのスタート…というよりも、マイナスだらけの所から、新しい時代の基盤を築いていかなければならないのだ。末端の生活など、各自で何とかしてくれという心境なのだろう。背を向ける新政府に対して、鬱屈したパワーは暴発し、秋月の乱・萩の乱…更には数万人が戦死をした西南戦争にまで拡大してしまう。
 その一方で、萩の元士族達は、あるモノに眼を付けた。
 当時から、萩各地で実を成していた夏みかんである。夏みかんは比較的栽培しやすく、不器用な武士たちでも、何とか生産をあげることができたのだ。しかし彼等の生活はそれほど楽にはならなかったようだ。それでも、何もしないで不平を言うだけよりは遙かに良いと、彼等はこぞって夏みかんを植え、懸命に育てた。
 それ以後、萩の夏みかん生産高は爆発的に増え、萩の特産にまでなっていった。もしも萩の土壌で育ち易かったのが、「夏みかん」ではなく「芋」だったなら、今頃市場では「薩摩芋」の隣に「長州芋」が仲良く並んでいたかも知れない。
DATE:May 23 2000
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No.48 牛肉2
 明治時代に入り、大久保利通と明治天皇が牛肉の食用を庶民に広めた話は先に書いた通りである。(お茶のみ話・牛肉参照)しかし江戸時代にも、進んで牛肉を食べていた人物がいた。安政の大獄・桜田門外の変と言えばこの人。井伊直弼である。何と井伊家では、彦根藩をあげて牛肉の味噌漬けをつくり、将軍や諸大名達もこれを喜んで口にしていたのだ。謹厳で有名な松平定信も、井伊家に牛肉二桶を注文した記録が残っており、スタミナ食として舌鼓をうっていたようだ。
 日本でも元来は、多種の家畜を飼育して食用としていたのだが、仏教が伝来するようになり、食肉は忌み嫌われるようになった。それを、十六世紀頃、南蛮料理の伝来とともに一部の人々の間で賞味するようになったのだ。
 肖像画でも有名な直弼の恰幅の良いあの体型は、牛肉食によるものなのかも知れない。
 牛ついでに、牛乳にも触れておこう。
 牛乳は、古くには飲用されていた記録が残っているが、一時的に廃れ、江戸時代になって復活したようだ。その乳は、飲用というよりも滋養薬として飲まれていたらしい。
 十一代将軍徳川家斉は、インドの白牛を飼育していたし、水戸の斉昭も弘道館中の医学館で、牛を飼育していた。さらに慶応二年には横浜に牧場ができ、翌三年には牛乳として登場するのだが、庶民の間には広まらなかった。「牛の乳などを飲むと、牛になってしまう」と、人々は本気で思いこんでいたのだ。
DATE:May 29 2000
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No.49 坊主頭
 松下村塾の双璧は、共に坊主頭経験者である。
 双璧の片方・久坂玄瑞は家業が藩医であり、当時の藩医は坊主頭と決まっていたため、かなり長い間彼は坊主頭であった。友人の高杉晋作に松下村塾を紹介した時も、安政の大獄で師が斬首され、大獄の張本人である井伊大老が暗殺された時も、彼は藩医という身分であったため、頭は坊主のままであったのだ。彼が髪を伸ばし始めたのは、名前を義助と改めた文久三年頃である。(「義助」は、ぎすけと読む説もあるが、本人から妻の文にあてた手紙により、よしすけが正しい)医師を捨て、武士として生きる決意がこの改名に表されており、それと同時に坊主頭である必要がなくなったのだ。
 逆に文久三年、突如坊主頭となって周囲を驚かせたのは、双璧のもう一方、高杉晋作である。彼は十年間の暇乞いをし、名前を東行と改めて頭を丸めた。久坂の坊主頭の時期と重なるので、双璧は一時期、仲良くつんつる頭だったわけだ。しかし高杉晋作の坊主頭は長くは無かった。十年どころか、たった三ヶ月で、藩命により馬関防衛の任につく羽目となるのだ。剃髪してから労咳で命を落とすまで、三年の月日がある。洋服姿の男と髪を後に結っている絵も残っており、死の間際には剃髪前の状態に戻っていたと推測される。
 もう一人、坊主頭で忘れてならないのが、西郷隆盛である。
 彼は他の三傑達のように、新政府を迎えてざんぎり頭になったのではない。わざわざ坊主頭にしたのである。
 戊辰戦争の折り、越後方面で河井継之助率いる長岡藩に山県有朋らが苦戦しており、西郷は兵力を徴集するために薩摩へと戻った。その際、島津久光の手前、私事で藩兵を集めるのだという意味を示すために、頭を丸めたのである。久光に迷惑を掛けぬよう、心を尽くした西郷だったが、彼を毛嫌いしている久光には、その誠意のかけらも伝わらなかったのが残念である。
DATE:June 4 2000
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No.50 資金
 江戸時代、経済的に裕福な藩というのは、当時それほど多くは無かった。江戸時代の基盤を創った家康は、徳川家に対して反旗を上げる余力を持たせぬように、各藩の財政を減らすべく政策を施した結果、三百年近くも徳川安泰の世が続くことになったのだ。
 その政策で特に大ダメージを受けたのは、外様大名だろう。
 徳川と縁が遠く、弓を引く可能性が高いと見て、軍事力が蓄えられ無いように無駄な出費を強いられたのだ。外様である薩摩や長州も然り。薩摩の場合は、調所笑左衛門の手腕により、幕府も羨むほどの軍艦を購入できるまでになった。(お茶飲み話「借金」参照:追記→調所笑左衛門は藩の財政が豊かになった暁に、強引な政策の責任を問われて切腹させられた。担当者不在と理由付けて、不満の矛先を回避するためである。もちろん、笑左衛門が踏み倒した金は支払われるはずもない)
 一方長州の場合は、まさにサラリーマンの積み立て貯蓄が如く。実に堅実な方法でこの財政難に立ち向かって行った。
 その方法とは、他の藩から進物などが届くと、それを売り払って金銭に換えて貯蓄する。(宝蔵金と呼ばれていたが、特に江戸のものは地下に貯蔵していたので穴蔵金と呼んだ)また、藩内で不要品が出ると、これも金銭に換えて穴蔵行きにした。これをコツコツ二百年以上も続けた結果、文久の初めには古金約六万両(約四百五十億円)、天保以後に新金約一万八千両(約十三億五千万円)にまで達した。まさに、塵も積もれば山…である。(この方法をセコイ!ととるか、エライ!ととるか?)
 この他長州藩では、他藩には無い独特の撫育金という特別会計があり、開墾地による石高の増加や、米を貸しつけて利子をとったり港で他藩の商船を相手に金融業を営んだりして得た利益を蓄えていた。その利潤は年間約一万五千両(約十一億二千五百万円)。この地道な努力が実を結び、幕府顛倒の立役者となる舞台創りのための軍資金が備わったのだ。
 頭脳と腕力で強引に財政を立て直した薩摩藩と、無駄を排除し、地道に蓄えた長州藩。どちらも藩の個性がよく滲み出ている。
DATE:June 15 2000
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