No.51 台風
 元寇の折りには「神風」と呼ばれ、日本の窮地を救った台風だが、後にも先にも台風が役に立ったのはこの時だけだろう。
 日本史上(記録に残っている)台風の中で、最も被害の大きかったのは、文政11年(1828年)8月9日に九州地方を襲撃した「シーボルト台風」だ。
 最大風速50m/秒、最大総降水量300ミリ、中心気圧は900ヘクトパスカルと推定され、犠牲者の数は約一万人(今世紀最大と言われる伊勢湾台風の死者は七千人)。全壊家屋四万九千戸。半壊家屋二万四千戸。現在と違って、家屋の造りや危機情報の伝達にも問題はあったと思われるが、それにしても死者一万人は壮絶である。
 この台風、当時長崎に居た『鳴滝塾』の創始者フランツ・フォン・シーボルトの家をも直撃した。彼はその時の状況を気象観測機械で観測し、本国に報告していたと記録に残っている。
 だが、台風が直撃したのはシーボルトの家だけに留まらなかった。
 その後、とんでもない運命が彼を待っていたのである。
 台風の猛威で、長崎に停泊中のシーボルトが乗船する予定であったオランダ船が浜に打ち上げられ、禁制品の日本地図などが発見されて大騒ぎとなり、彼は「日本御構(にほんおかまい/国外追放)」となってしまった。これがきっかけで蘭学弾圧の『シーボルト事件』が起こる。
 せっかく日本で素晴らしい功績をあげ、出発も間近に控えていたシーボルトにとって、何とも後味の悪い不名誉な帰国となってしまったのだ。
 話は遡るが、一般的には二度の元寇の際に、「神風」はいずれも奇跡的に吹き荒れたとされているが、実際に神風が吹いたのは二度目の「弘安の役」のみで、一度目の元寇「文永の役」には吹かなかったようだ。どうやら一度目は向こうの都合で勝手に撤退し、再びやって来た時に偶然「神風」が吹きあれて大打撃を受けたとされている。しかし『元史』によると、その一度だけでも約11万人以上の兵士を元軍は失ったのだから、「神の護る国」と畏れさせるに十分な威力だったのだろう。
DATE:July 6 2000
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No.52 先見1
 吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬などの大人物が師と仰いだ一人の男がいる。松代藩士の兵学士・佐久間象山である。(象山は「しょうざん」とも「ぞうざんと」も伝わっているが、名前の由来は地元の象山(ぞうざん)からである。しかし本人の署名に「シヤウザン」とあり、「しょうざん」と読むのが正しい)
 象山は法螺吹きとして有名だが、それだけでは人はついて来るはずは無い。確かに彼は、先見の明のある兵学家なのだ。
 象山は黒船来航(ビッドル来航)の四年前に、すでに大砲や軍艦の必要性を訴え、海岸の防備を整えて外敵の侵略に備えるべきであると、藩主を通じて幕府に意見書を提出した。だが当時、鎖国を続けて殻に閉じこもっている日本にそんな危機感などあるはずが無く、意見書はただの紙切れ同然に扱われてしまったのだ。
 外敵は象山の言葉通り、突如海の向こうからやってきた。
 慌てた幕府は防備に頭を悩ませた末、象山にも意見を求めた。
 だがそこで象山が提案した策略は、あまりにも奇抜奇天烈奇想天外。その意味を理解する以前に、一堂は呆れ果ててしまった。
DATE:July 19 2000
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No.53 先見2
 佐久間象山のあまりにも奇抜な黒船(アメリカ)対策に、同坐の幕閣達は失笑し、その場を立ち去る者さえ現れる始末となった。その策とは、何と「風船に爆弾をぶら下げ、空に放つと、風(偏西風)に乗って風船はアメリカに到着する。そこで爆弾を爆発させる」という内容だったのだ。
 これでは、いくらなんでも笑われて(呆れられて)当然だろう。
 と思いきや、驚くべき事に、それから約90年後の昭和18年。太平洋戦争の折りに、日本が飛ばした風船爆弾が偏西風に乗って、アメリカ本土を攻撃したのである。それによるアメリカの被害は、火災87件、爆発による混乱28件、それに準ずる事件85件、山火事3件、犠牲者6名。数字的に見ると、大国アメリカに対して、それほど大したダメージを与えたわけでは無いのだが、問題は、それを象山が90年前に提唱していたと言うことである。つまり、象山はその当時、偏西風を利用すれば、多少なりともアメリカ本土を攻撃できると分かっていたのだ。
 恐るべき先見の明である。
 法螺吹きというレッテルが貼られたのも、中にはこういった当時の一般常識から逸脱した先見性・開明性からくるものであり、常人には理解できない故の部分もあるだろう。(尤も、正真正銘の大法螺話も多分に残っている。)
 もしも象山の意見が全て通っていたなら、明治維新は数年遅れていたか、あるいは少々違う形のモノになっていたかもしれない。
DATE:July 31 2000
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No.54 写真
 今に残る志士達の写真の多くは、長崎の上野彦馬が撮影したものである。
 彦馬はもともと化学者で、長崎に舎密学(せいみつがく・化学のこと)を勉強しにきた折り、蘭学書の中の「ポトガラヒー」の文字と出会った。その後彼は蘭学書に従って写真機と薬品の製造を試みる。当初は何度も失敗を重ね、実験室から漏れるアンモニアの異臭で奉行所に出頭する騒ぎにもなったが、ついに文久二年、店名も「上野撮影局」という写真館を開業する。
 「命までとられる」と、初めは流行らなかったが、命知らずの志士たちにはウケたようである。いつ命を落とすかも知れない志士にとっては、自分の今の瞬間を残しておける写真は、「生きた証」なのである。志士達は「こんなところで命をとられるものか」とレンズを睨み付け、遺影のつもりで写した者も多かったという。
 その写真、初めは二分間微動だにせず、制止をしておかなければならなかった。そのための首を押える道具まで当時は用意されていたのだ。しかし、彦馬の手によって機械を改良し、5秒から10秒で撮影できる新機種が登場した。
 撮影料金は大判1枚が1両(約7万5千円)。とても庶民の手が出る金額ではない。尤も、一庶民は命を取られるかもしれないそんなわけの分からない紙切れなど、ほとんどと言って良い程、興味を示さなかったようだ。
DATE:August 9 2000
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No.55 僕
 吉田松陰が広めたとして有名な「僕」は、それ以前にも自己の謙譲語として存在していた。鎌倉時代までは、「僕」と表記し、「やつがれ」と呼ばれていたのだ。一説には「奴我(やっこあれ)」が短くなり、「やつがれ」と言われるようになったとされている。「しもべ」の意味の「僕」の字をあてることによって、「奴」の謙った意味を継承したのだろう。
 また、好んで漢語を使用する学者などが、手紙などで「僕(やつがれ)」を使用していた。「僕」を「ぼく」と呼んだのは、大分後世になってからで、幕末でもまだ一般化されていなかったようである。
 吉田松陰が初めに「僕」を用いたのは、江戸遊学中の嘉永四(1851)年。12月9日付けの師の山田宇右衛門に宛てた手紙の中で「僕、斯ノ二者ニ茫乎タリ」と記されている。これ以後松陰は、親しい人に対して「僕」を多用するようになった。(藩に提出するような公的な文章には「私」を用いている。)
 松陰に習い、松下村塾の門下生達も好んで「僕」を使用しはじめ、やがては彼等からさらに横へと次第に広がっていった。それは、薩摩の大山格之助が「僕」を使用し始めたのが、高杉晋作と書簡の交流を盛んにした慶応二年頃であることからも推測される。
 ちなみに、文久3年の時点で志士達の交わした手紙によると、「僕」を使用しているのは、高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一・松浦松洞・中谷正亮などの松陰門下生達で、桂小五郎・村田蔵六は「私」、武市半平太や五代才助などは「小生」である。
 その後、「僕」は静かに日本中に浸透していくわけだが、常に国を憂い、人を思い、大事(国のこと)の前では己は小事であるとして生きてきた松陰の自称に、「僕」は最も相応しい謙称ではないだろうか。
DATE:September 3 2000
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No.56 白旗
 日本古来では、白旗は源氏の旗の色である。(対する平家は赤旗)それを現代に使用される「降参」(若しくは戦うつもりは無いという意思表示であるため「平和を望む」)という意味であると教えたのはこの人、マシュウ・ガルブライス・ペリーである。
 彼は一度目の来航の折り、大統領の手紙の他に一通の手紙と二本の白旗を用意していた。
 「私に敵意はありません。平和的に話し合いましょう」とでも言いたかったのか?
 否。
 それでは前回のビッドルと同じ結果になる。
 ビッドルの失敗は、出来るだけフレンドリーに振舞おうとし、逆に司令官としての威厳を疑われて、日本に舐められてしまったことにも一因があったのだ。
 そこでペリーが用意した白旗二本。こういう風に使うのだと親切にも手紙を添えて日本政府に贈られた。
 その手紙とは
 「日本が鎖国をして通商を認めないのは天の道理に背き、その罪は大きい。通商をあくまで承知しないのなら、我々は武力によってその罪を正す。日本は防戦をすればいい。戦争になればこちらが勝つに決まっている。降伏をする時は、贈った白旗を押し立てよ。さすればアメリカは砲撃をやめて和睦に応じる」
 とまあ、いかにも己が正義の国、アメリカらしい内容である。
 「天」は天皇なのでは…?と戸惑う日本の国民性など全くお構いなしに、強引に陣地に踏み込み、自分達は正しいと主張する呆れた人種の対応に、幕府のみならず日本国中が大混乱したのは言うまでもない。
DATE:September 17 2000
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No.57 庭方
 某TV局の人気番組『暴れん坊将軍』にお庭番と呼ばれる男女が登場する。彼らは吉宗の命令で様々な諜報活動を行ったり、吉宗等を護るべく戦ったりする忍のような存在である。彼らは番組の演出上で創られた架空の存在ではない。実際に徳川幕府の職制の中に「お庭番」というものがあり、隠密活動を行っていた。城内に篭っているだけでは、生きた情報は耳に届かず、策謀の渦巻く周囲の意見の是非を判断するのは難しい。そこで、密かに真実を探りだし、報告してくれる人間が必要であったのだ。
 彼らの身分は結構低く、実際に普段は庭の手入れをしていたようだが、城の外(符丁で庭)の活動という意味も、「お庭番」の名前の中には含まれていたかもしれない。
 幕府だけではなく、薩摩藩の中にも「庭方」と呼ばれる部署があった。
 「お庭番」同様、普段は庭の手入れをしながら、陰で諜報活動を行う。そして庭の手入れをしているところへ何気なく城主が歩み寄ると、入手した情報をさりげなく報告するのである。
 西郷隆盛が初めに島津斉彬に仕えるようになったのも、この「庭方」からであった。
 当時身分の低い西郷は、斉彬の「身分の高低に関わらず、意見のある者は述べよ」という言葉を受け、毎日意見書を提出していた。それを読んだ斉彬は、西郷の正義感に感じ入り、関勇助(西郷の師)の薦めもあって、彼を「庭方」に任じたのである。そこで西郷は斉彬に教育され、見識を深めていったのだ。 西郷の軍事的策謀に対する基本は、この時に形成されたと言われている。
 その一方で、萩の元士族達は、あるモノに眼を付けた。
 当時から、萩各地で実を成していた夏みかんである。夏みかんは比較的栽培しやすく、不器用な武士たちでも、何とか生産をあげることができたのだ。しかし彼等の生活はそれほど楽にはならなかったようだ。それでも、何もしないで不平を言うだけよりは遙かに良いと、彼等はこぞって夏みかんを植え、懸命に育てた。
 それ以後、萩の夏みかん生産高は爆発的に増え、萩の特産にまでなっていった。もしも萩の土壌で育ち易かったのが、「夏みかん」ではなく「芋」だったなら、今頃市場では「薩摩芋」の隣に「長州芋」が仲良く並んでいたかも知れない。
DATE:SEPTEMBER 24 2000
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No.58 新聞
 紙面による情報伝達手段で現存する最初の報道は、1815年の「大坂夏の陣」である。それ以後、江戸時代に紙面情報は盛んになり、「絵双紙」「読売」「瓦版」などと呼ばれた。世界的に見ても、このメディアの発達はかなり早い方である。
 明治時代になると、東京・大坂・京都を中心に新聞や雑誌などが発行されるようになり、新しい時代に対する不安や好奇心など、人々の情報への枯渇なまでの需要性が伺えるだろう。
 しかし元来新聞は、新政府の政策を国民に徹底させるために最も有効な手段とされ、明治二年にそれまで禁止されていた新聞発行を解禁したのが、本格的な新聞発行への引き金となった。推進者には、「新聞雑誌」の桂小五郎、「開知新報」の前島密などがおり、明治四年には、今日のような日刊紙の形のものが登場する。
 中には女子供向けに、ためになる事柄を柔らかく談話のように載せた「読売新聞」(現在の読売新聞)や太政官御用であったため、御用新聞と呼ばれた「東京日日新聞」(「大坂毎日新聞」と併せて、現在の「毎日新聞」となる)など、発刊者によって実に様々な新聞が登場。その浸透の速度は非常に速く、明治初期には新聞を読む習慣が庶民の間に広がっていった。

◆新聞記事の一例◆
DATE:Octover 16 2000
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No.59 護衛
 要人達の背後には、常に暗殺・襲撃の影が忍び寄っている。その対策として、生命の危機を感じている者は護衛を雇っていた。その人数は人によって様々である。
 広沢真臣や木戸孝允などは約20名。前原一誠で約10名。護衛者は被護衛者の外出中の安全を護るだけではなく、夜間には邸内を巡回して非常事態に備えていたようだ。
 「人斬り以蔵」こと岡田以蔵が、唯一人を護ったのは幕臣勝海舟である。以蔵は武市半平太(瑞山)の命で様々な暗殺劇を繰り広げていたが、勝の弟子となっていた友人坂本龍馬の口添えで、彼の護衛をすることになったのだ。
 勝は文久三年三月、将軍家茂に従って上洛することになった。
 寺町通りを歩いている時である。いきなり三人の刺客が問答無用で斬りかかってきた。勝は驚いて後ろに逃げ、代わりに以蔵が歩みでると、一人を目にも留まらぬ速さで斬り倒した。後の二人は以蔵の気迫に恐れおののいて、逃げていったという。
 その後以蔵は人斬りに戻り、池内大学等を殺害。土佐勤王党弾圧で捕縛され、獄門打首の極刑となり、27年の波乱の生涯を終える。一方勝はその際の在京中、将軍家茂に海防の必要を説き、それが契機で神戸海軍操練の創設に至った。やがて彼は幕府の中核となり、様々な偉業を成した後、明治32年に77歳で人生の幕を降ろす。
 暗いイメージのつきまとう「人斬り以蔵」だが、彼によって生命を助けられた勝が、後に大きな役割を果たしたのは、以蔵にとっても大いなる意義といえるだろう。 勝はその時のことを、「なにぶん岡田の早業には感心した」と述べている。
 勝を生かすために以蔵の人生があった…というのはいささか大袈裟ではあるが、それは彼の人生で、最も着眼してやるべき功績ではないだろうか。。
DATE:Octover 30 2000
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No.60 毒薬
 文久2年8月6日。江戸に向かった桂小五郎は、懐にある薬を忍ばせていた。藩医の青木研蔵(高杉晋作の幼少時に疱瘡の治療をした青木周弼の弟)に調合してもらった毒薬である。
 神道無念流の免許皆伝の腕前を持ちながら、刀で一度も人を斬ったことのない桂小五郎だが、「毒殺ならOK!」…と思っていたわけでは無い。
 桂小五郎は安政の大獄で処刑された吉田松陰を抱えていた長州藩の幹部である。しかも坂下門の事件では、犯人一味の川邊佐次右衛門が桂を訪ね来て長州藩邸で切腹したため、伊藤俊輔(博文)と共に、北町奉行所に拘束されたこともある。その際は政治的事情などにより、辛うじて最悪の事態は避けられたが、過激尊皇攘夷志士たちが暗躍する水戸藩とのつながりは、すでに幕府に知られるところとなっている。
 カオス的状況の中、いつどんな不測の事態に陥るか判らないと思った彼は、万一幕吏に捕らえられ、刀も奪われて自刃出来ない状況になった際の自害手段として、すぐに死ねる様にと毒薬を携帯していたのだ。
 後に「逃げの小五郎」と言われるように、様々な窮地を潜り抜けていった桂だが、決して死を怖れての逃亡ではなかった。生きて意義を為すよりも忠義を唱えて死ぬ方が遙かに簡単な時代に、堂々と死と対面しながら、敢えて生き抜く苦悩を選んでいたのだ。
DATE:Nobember 14 2000
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