No.61 計画
 「外夷に抗するには外夷の技術をもってしなければならない」と考え、無謀にも敵船に乗り込もうとしたのは御存じ吉田松陰。彼はその時ただ一人金子重輔を伴い、勇猛果敢に嵐の海へと漕ぎ出していった。
 これは吉田松陰が金子重輔と密かに決行したものと思われがちだが、実はそうではない。
 この計画には実に多くの人物が諸手をあげて賛同し、静かに固唾を呑んで見守っていたのである。
 一度目のロシア艦乗船失敗の際には、佐久間象山をはじめ、桂小五郎・鳥山新三郎・永鳥三平(肥後)らが相談を受けた。さらに二度目には、先の者に加えて来原良蔵・秋良敦之助の長州勢約六名、 さらに十名以上の肥後藩士が計画実行前に合議をして、松陰らの成功を祈った。 また桂と来原は松陰に、艦隊に近づくための船を提供したいと申し出たが、両名に迷惑が及ぶことを懸念した松陰はそれを断った。桂と来原は、松陰の米艦乗船計画よりも前に外遊計画(海外視察計画)をたて、 失敗に終わっていたので、尚更松陰には成功して欲しいと願っていたのだろう。 (桂小五郎の外遊計画=嘉永7年2月末に、来原良蔵の提案で、密かに敵艦に乗船するというようなものではなく、堂々と藩に外遊許可申請を提出した。しかし藩に申請書は破棄された) 外遊計画失敗後、来原は松陰に密出国を薦めている。自分と桂の場合は、藩の大組士という立場にあるので、その行動には藩がつきまとってしまうが、松陰は現在士籍を削られており、比較的自由に行動できるのだ。
 藩という足枷を外して、己の信念のままに突き進んでいった松陰だが、密航が失敗に終わり、国犯となった彼を長州藩はかばい通した。(反対派も存在したが)国犯という立場にも関わらず、 面会や金銭の差し入れの黙認などである。そして松下村塾へとつながっていく。
 無垢で純粋な松陰の人柄も、長州藩の人を財とする土壌があってこそ、真骨頂を発揮できたのではないだろうか。
DATE:Nobember 26 2000
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No.62 赤報隊
 かれらは近江国に蜂起した滋野井公寿・綾小路俊実のもとに集まった浪士の隊である。
 相楽総三(本名小島四郎)を総督とし、西郷隆盛の江戸攪乱計画の実行に選ばれてその活躍を期待されたのだが、幕府の策に西郷の計画は挫折。 その後、赤報隊は「偽官軍」とされて、岩倉具視の息子具定の軍に誅抜され、相楽は梟首される。
 偽官軍の汚名を着せたのは勿論新政府である。
 赤報隊は東山道を江戸へと向かった道中で、進路にあたる町村で年貢の半減令を出しながら進み、民衆をしっかりと味方につけた。 また農商民の中には共鳴して入隊する者もでるようになり、赤報隊の勢いは次第に増してきた。一方、初めは年貢の半減を認めていた政府だったが、 厳しい財政不足から半減令の撤回を決定。赤報隊にもそれは伝えられ、京都への帰還を命じられた。滋野井・綾小路の両名とそれに従う者達は、 素直に進行を中止して引き返したのだが、相楽総三はなおも前進を続けた。その結果政府は、赤報隊を「偽官軍」とし、年貢半減は「偽官軍」によるデマであるとふれ、 公約を無かったものとしたのである。
 だが、赤報隊を「偽官軍」としなければならなかった理由が、年貢半減令の他にもあった。
 彼らの進軍は、実に横暴で強行なものだったのだ。
 とりあえず決起はしたものの、後ろ盾のない浪士(ヤクザも多数在する)連中なので、金や武器など十分に持ち合わせておらず、まずは彦根藩を脅して武器・ 弾薬を提出させた。また、付近の豪家を襲って金品をゆすって進軍。食糧などは現地調達。「半減令」に共感して喜んで出す者もあれば、無理に脅しとられた者も多かったのだ。 中には彼らをまねて、偽赤報隊が出没し、略奪・放火などの事件も相次ぎ、これから民衆の理解を得て政策を進めて行かねばならない新政府にとっては、赤報隊の存在は、 官軍とは無縁のものとして切り離す他に手段がなかったのである。
 罪状は「御一新の時節に乗じ、勅命と偽って官軍先鋒と称し、良民を襲い、金品を貪り、種種の悪行をした」
 進軍中に半減令の告示を出すのは、事前に新政府最高実力者である岩倉具視の許しを得ている。すなわち赤報隊は、強奪を全面に押し出され、偽官軍の汚名を着せられて、半減令のもみ消しにまんまと利用されたのだろう。半減令発布に悩む新政府に、実に取りやすいように足をあげたという訳だ。尤も、足などあげなくとも、「偽官軍」にされたかもしれないが。
DATE:December 12 2000
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No.63 歳の瀬
 何時の時代でも年の瀬はあわただしいものである。
 江戸時代、日常の買い物は帳面に記載して、盆と年末の年二回に清算をしていた。 特に1年の総決算である大晦日は、積もり積もった借金の返済に、 師も走らずにはおれなかったようだ。
 大晦日 定め無き世の定めかな と詠んだのは井原西鶴。大晦日の様子を描いた 「世間胸算用」の作者である。定め無き世…つまりこの世は定まることのない無常なものであるが、 大晦日の総決算だけは、きっちりと決まり(支払い)をつけなければならないという意味である。
 そんな年の瀬を明治政府の要人となった木戸孝允はどう過ごしていたかというと、 ほとんど年末年始など関係なく政務に忙しかったようだ。明治二年などは、東京−大坂を経て、 山口に帰りついたのは12月28日。翌日の29日に毛利敬親と会見し、 翌年の出仕は3日からであったので、正味4日しか年末年始休みが無かった。 しかも、休み中にも来客が絶える事がないのは想像できるので、正月を楽しむ余裕などほとんど無かっただろう。
 年の瀬や 漕がず楫せず 行くほどに と来山が詠んでいる。 俗世から離れてのんびりと暮らしているうちに、いつの間にか今年も年の瀬が来たという意味だが、 年末年始どころでは無かった政府要人達の場合は、
 年の瀬や 漕いで楫取り 行くほどに …と、必死に漕いで楫を取っているうちに、 一年の終わりが来てしまったという心境ではないだろうか。
DATE:December 27 2000
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No.64 血税
 明治5年11月9日。太陽暦の採用が決定され、12月3日に明治6年1月1日を以ってスタートされることとなった。だが、国民の関心は、暦なんぞの取り決めなどよりも、その日に発布された「徴兵令」で持ち切りとなっていた。「国民がすべて兵となる」というこの法令によって、それまで国を護る兵力として存在していた「士」の階級が、全く無意味のものとなってしまったのである。すなわちそれは「士」の消滅を意味するのだ。
 もちろん、ショックを受けたのは「士」だけではない。
 自らの手で国を護れることに対して喜びを感じた者もいれば、ただ生活していくだけでも精一杯なのに、この上、何を強いられるのかと不安になった者もいただろう。
 だが、国民が騒然となったのは、「国民がすべて兵になる」という内容ばかりではなく、「徴兵令」の文面に書かれた、ある単語であった。
 「是ニ於テ士ハ従前ノ士ニ非ズ、民ハ従前ノ民ニ非ズ…是略…人タルモノ固ヨリ心力ヲ尽シ国ニ報セサルヘカラス コレヲ西人之ヲ称シテ  血税トイフ。 其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ云々」
 「血税」とは、実に的を得た言葉であるが、初めてその言葉を耳にした人々は、血を税金として取られてしまうのか!…と、本気で驚愕したのだ。
 笑い話ではない。
 ただでさえ新政府に不安のあった一般庶民の間には、流言蜚語が飛び交い、果てには一揆という形で爆発してしまった。
 明治6年、島根で起きた百姓一揆は、隣県の会見郡に赴任していく小学校教員が、たまたまその道中にある一軒の家で休息しようとしたところ、見慣れない服装と聞き慣れない言葉に、土地の人間はすっかり生き血を絞りに来た政府役人と大勘違い。不安と不信が大爆発して、ついには一揆へと発展したのだ。またこの島根の例に限らず、こういった誤解による混乱は各地で相次ぐこととなる。
 新政府が始動するにあたって、ただでさえ内外に問題が堆積状態である上、各地で起こる百姓一揆に、新政府首脳陣は頭を抱えたという。
DATE:January 26 2001
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No.65 うわさ
 慶応3年11月15日。京都河原町の醤油商近江屋にて、坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲撃され、坂本龍馬は即死。中岡慎太郎も出血多量で後日絶命した。
 この事件に志士たち(とくに土佐系志士)は憤激。報復せんといきり立った。
 そんな彼らの耳にある噂が飛び込んできた。
 坂本・中岡暗殺の犯人は、紀州藩の三浦久太郎が、新選組に斬らせたという内容である。
 紀州藩と言えば、いろは丸事件(さぬき沖で海援隊の船と衝突し、龍馬の働きで多額の賠償金を支払う羽目となった事件)によって、龍馬に恨みを抱いている可能性は大いにある。しかも三浦はかなりの佐幕論者で、新選組とも親しい。
 土佐志士がその噂を信じてしまう要素は十分に整っていたのだ。
 かくして12月7日。近江屋襲撃の22日後である。
 油小路は天満屋で宴会中の三浦を、土佐志士16名が襲撃した。恐らく志士たちが掴んだ情報は、「三浦がそこで酒宴をしている」程度のものだったのだろう。酒宴の席に踏み込んだ彼らは驚いた。そこに居合わせていたのは、新選組三番隊長・斎藤一と他十余名の新選組隊士達だったのである。
 天満屋は大乱闘となり、死者は双方1名づつ。重軽傷者多数。肝心の三浦は乱闘の隙をみて、まんまと逃げおおせた。現在では近江屋襲撃犯の最有力候補は見廻組とされており、三浦久太郎犯人説の可能性は極めて薄い。
 しかし情報伝達がまだ未発達なこの頃には、こんな誤報・誤認による事件など、日常茶飯事だったのかもしれない。
DATE:September 3 2001
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No.66 ランドセル
 新学期も間近。デパートなどでは小学校への入学を控えた新一年生たちのために、新しい机やランドセルなどが賑やかに陳列棚を飾っている。
 このランドセル、語源はオランダ語のランセル(Ransel)からきている。意味は背嚢(はいのう:背中の袋という意味)である。言葉自体が日本に入ってきた時期は不明だが、それが小学生の鞄として使用されるようになったのは、明治から大正にかけての頃らしい。背中に背負うことで、両手が自由になるという機能性と安全性から、背嚢は当時の軍人の間で使用されていたが、児童の軍人に憧れる気持ちを利用して、兵隊気分を味わってもらおうと陸軍兵の背嚢を実用簡略化したデザインしたものが、後のランドセルとなったと言われている。だが実際は、軍人の持ち物を、まだ何の主義主張も育っていない幼少時代から背負わせることによって、軍国主義への抵抗を少なくしようという意図が、多分にあったのではないかと思われる。
 そのランドセルを最初に使用したのは大正天皇である。明治時代の中期に後の大正天皇が、学習院入学の折り、伊藤博文が特注して贈ったのが元祖と言われている。そして後にそれが学習院ではランドセル使用が学校規則となり、次第に全国にも広がって、現在では小学生の持つ鞄として定着することとなった。
 余談だが、「学ラン」の「ラン」は「ランダ」が略されたもので、「ランダ」とは江戸末期にオランタ人の来ていた服のことである。明治時代に入ってから、洋風の軍人服(詰め襟)を学生が着用するようになったのだが、まだ袴が主流であったその当時、袴に対してそれは「学生用のランダ」と呼ばれるようになった。やがてそれが短縮されて、今では「学ラン」という単語として生き残っている。
DATE:Merch 27 2001
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