Clover
- - - 第21章 絡まる糸6
[ 第21章 絡まる糸5 | CloverTop | 第21章 絡まる糸7 ]

本当はね……聞こえていたよ。
どんなに遠く離れても、聞こえないはずがない。
少しずつ、少しずつ病んでいくあなたの……声なき悲鳴を知っていた。

―――――だから。
目をそらして、耳を塞いで、気付かないフリをしたんだ。


* * * * *


ディシスに呼び出されたその場所は、リトワルトの傭兵街からそう遠くないところにある森の中の泉だった。
傭兵になるのを決めたのも、ネーヤを拾った後も、大事な話はいつもここでするという暗黙の了解が二人の間にはある。だからディシスが何か話があることはわかっていたし、その内容についても本当は見当がついていた。

「フィーナ」
「何?」
「オレは……ノイディエンスタークへ戻ろうと思う」

ずっとずっと考えて、彼なりに悩んで出したであろうその結論に、反論する気はなかった。
だからただ水面を見つめて、彼が話し出すのを待っていた。

「アゼル達が……生き残った13諸侯の子息達が、本格的にもう反乱を始めている。それに……」
「魔神官の話ね」
「……!」
「知らないとでも思ってたの?」
「お前……」
「生きててくれた……それは素直に私だって嬉しいもの」

静かに語るフィーナの瞳には、何の感情の波も感じられない。
それが逆にディシスを不安にさせた。

「フィーナ……お前、まさか戻らないつもりか?」
「戻ると思ってたの?」
「リュークが生きてるんだぞ!?ようやく行方がわかったんだ!」
「そうね」
「だったら!」

言いすがるディシスにフィーナは向き直り、淡々とした口調のまま告げる。

「ノイディエンスタークがどうなろうが、今の私には関係ない。前に言ったでしょう」
「フィーナ……」
「今更戻ってどうするの?私にあの場所に戻って、大地に祈りを捧げろとでも言うの?」

自分が戻る。
そしてその場所にリュークがいる。
その事実だけで、単純にもこの娘がついてきてくれると思って疑っていなかったディシスは困惑を隠せなかった。
そんな父親にクスリと小さく笑って、フィーナはまた泉へと視線を戻した。

「大嫌い」
「え?」
「私達の額にこんな印だけ刻んでおいて、ただ自分のために祈れという、あの大地が大嫌いよ」





―――――違う。





「あの大地は私達を縛るもの」





―――――嘘よ。





「大嫌い」





ディシスはそう繰り返す娘の顔を覗き込んだ。
そして一瞬驚いたように目を見開いて、何故だかとても切ない顔をした。

「フィーナ、もういい」
「……」
「悪かった、ごめん」
「……どうして謝るの」
「お前……泣きそうな顔をしてる」

泣く?
あの日から一度だって、泣いたことなんてない。
あれ以上に悲しくてつらいことなんて、この世の中には存在しない。

「愛してるものを、嫌いって言わなくていい」

嫌い。
大嫌い。

―――――でも、心のどこかが叫んでいる。
あの大地が、無条件で愛しいのだと。
血に刻まれた、それはまるで心地の良い鎖のようだ。

「嫌いにならなくて、いい」

そうしなければ、とても耐えられなかった。
心のどこかに響く、自分を小さく呼ぶ声に。
徐々に弱っていくか細いそれに、気付かないフリをしなければ。

「嫌いじゃなくちゃ、ダメなのよ」
「……フィーナ」
「心をそのまま口にしてしまったら、耐えられない。ディシスには聞こえない声が、私には聞こえているから。だから耳を塞ぐの、気付かないフリをするの。そうしなくちゃ、ダメなの」

愛しい半身の竜も。
ただ無条件に惹かれるあの大地も。
自分にはもはや関係などないのだと―――――冷たく言い放たなければ。

「人間は、慣れる生き物だから」
「……」
「ディシスだって慣れたでしょう?人を殺すことに」
「……それは」
「慣れてしまえば、何も感じなくなる。感じていたら傭兵にはなれない。私はこの10年でそれを学んだの」

生きていくために。
何度も切られ死にそうな怪我を負って、その結果、痛みを感じなくなる程度には痛覚が鈍くなったように。

「それに」
「?」
「今更私にどうしろっていうの?あの兄様に今の私が逢えると思う?こんなに両手を血で汚しているのに」
「それは!」
「わかるの……あの人はきっと今でも、あの頃と同じで綺麗なままだって。でも私は違う。私は自分でそれを望んで、それを選んだ」
「フィーナ……」
「逢いたくない。今の私を兄様に見せられない」

静かな湖面を見つめる瞳は、どこか痛々しくて、ディシスは口唇を噛んだ。
確かに生きていく術は他になかった。生まれてからずっと騎士になることだけが目標で、商売の知恵も何もなかった自分には。

シュバルツへ行って、ジークフリートと懇意の仲だった賢王クロードに頼ることもできなくはなかった。
けれどそれは危険な賭けでもある。下手をしたらシュバルツまでもノイディエンスタークの内乱に巻き込みかねない。
厳しい自然の中、細々と穏やかに生きているあの国の人々の暮らしを脅かすようなことはできなかったし、シュバルツではない別の場所へ落ち延びた方が、神官達に気取られる心配がないように思えた。

竜の角半島にずっと潜伏することも考えた。
かの土地は人の領域ではないから、フィーナに親愛を寄せる竜達に守られ、危険な目にあうことはない。
けれどそれを拒否したのは、他ならないフィーナ自身だった。
人である存在がずっとこの場所にいることは、どちらのためにもならないと言って。

そして辿り着いたのがこのリトワルトだ。
道はひとつしか、残されてはいなかったのだ。

それでも当初、ディシスはこの娘を傭兵にするつもりなどなかった。
置いていくことはできない。けれどこのか弱い少女を連れて、傭兵としてやっていけるのかを心配したことは何度もあった。
その心を知っていたのか、それとも何かが彼女に決意をさせたのか。フィーナがその手に剣を持ったのは、ディシスが傭兵になってすぐのことだった。

(「お前みたいなチビがそんな物騒なもの握ってんじゃねえよ!」)
(「ぶっそう?」)
(「そうだよ!こんなもんは子供が持つものじゃねぇの!」)
(「違うよ。これは生きていくための道具なの」)
(「は?」)
(「私は……生きなくちゃいけないの。何があっても、どんなことが起こっても、生きなくちゃいけないの」)

その瞳に逆らうことができずに、剣を持たせた自分が愚かだったのだろうか。
フィーナが何を言っても、それを取り上げてただ守られるだけの存在にしておくべきだったのだろうか。

けれど、ディシスがどんなにそう思っても、フィーナは自分で剣を選んだだろう。
ただ愚鈍に守られるだけの娘ではないことは、痛いほど分かっている。大人が教えたくないと思うことも、全て察して、その先を読むことのできる賢すぎる娘なのだから。

「お前は、リュークと変わりなんてねぇよ」
「?」
「お前はそのままでいい。他の誰が知らなくても、オレだけ知ってればいい」

初めてその剣で人を切った日の、小さなその手の震えを。
時折見せる、遠いかの地で眠る半身へ寄せる切ない想いを浮かべた瞳を。
この10年、ずっと側にいて見てきた。それこそが変わりない絶対の真実。

「フィーナ」
「……なに?」
「オレの……娘だよな、お前は」
「今更ね」
「お前を娘として育てると決めた時から、ずっと思ってた。オレはどうやったら、ジークフリート様のようになれるだろうってな」

優しく穏やかな無償の愛なんて、自分には与えることができない。
元々がガサツだし、あの人のように優しく抱きしめることも、柔らかく微笑んで頬にキスするなんてこともできない。
あの人の代わりになんて……一つもなれていない。

ふっと瞳を伏せたディシスの横顔をフィーナはじっと見つめていたが、やがて呆れたように肩をすくめると、自分よりも頭一つ以上大きいディシスの背中に、そっと額を寄せた。

「代わりになりたかったの?」
「……そうだな、なれたらよかった」
「私はディシスにそんなものにはなってほしくなかったよ?だって無理だもの。ディシスはディシスで、父様じゃない」
「……はっきり言うなよ、ちょっと傷つくぞ」
「だから、それでよかったの」
「?」

雲間から顔を覗かせた銀色の月が、一瞬湖面を照らした。
それを見て、今の自分達の不自然な体制に気付いたのか、ディシスは身体をひねって娘の顔を見ようとするが、フィーナはその体制を崩そうとしなかった。

「ディシスはいてくれたでしょう?側に」
「え?」
「父様ができなかったことをしてくれたから、それでいいの」
「フィーナ……?」
「いてくれてよかった。あの日に壊れた私の側にいたのがディシスでよかった」

ユーノスの最期があまりにもつらすぎて、壊れた。
周りの話している声が聞こえていたのに、心配そうに見つめる瞳にも、頭を撫でる大きな手にも気付いていたのに、身体が動かない。
……それがあの時の自分。

ふっと何かが浮いたような気がして現実に戻った時、側にあったのはやっぱりこのディシスの手だったのだ。
今ならわかる。どうしてあのジークフリートが、自分をディシス、兄をファングに託したのか。
それはあの時……絶対に必要な手だったから。

「ただ、そこにいただけなのにか?」
「そう、それでよかった」
「……そっか」

よくわかんねぇけど、とディシスはそのまま、また湖面へと視線を移した。
彼の背中に迷いがある。ノイディエンスタークとファングとリュークへの想いと、今ここにいる娘への想いで揺れている。
でも彼はいつか必ず還るのだ。どんなに自分がイヤだと言っても、きっと。

覚悟がいる。
あの場所へ戻ること……あの日、自分が全てを破壊して、初めて人を殺したあの場所へ戻る、その覚悟が。

「少し……時間が欲しいな」
「……フィーナ」
「ごめん」

ディシスはしばらくの沈黙の後ゆっくりと頷いて、身体の向きを変えるとそっと娘の髪に口唇を寄せる。
大地の呼ぶ声と自分の心が上げる悲鳴と、そして自分がいなくなることを知った時に、あの翼人の少年の示すであろう懇願は一体どれが一番大きいのだろうとぼんやり思いながら、フィーナは湖面に浮かぶ月をただ見つめていた。