狼は今日も悩める
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『楽しいか……?お嬢』
「はい!とってもとっても楽しいです」
『……そうか……』

その元気な返事に、彼は多少げんなりとしながらも、またうつ伏せた。


* * * * *


彼は一応、この森の王である。
いわゆる精霊、しかもかなり高位の精霊にあたり、通常は森の一番奥にある硝子の大木の祠に住んでいる。
その姿は森の王にふさわしく、長い銀色のたてがみを持つ大きな狼の姿であるが、その姿を見ることのできる人間は、純粋な心を持つごく幼い子供だけに限られる。

―――――はず、だったのだが。

「狼さんの毛皮はとっても気持ちいいです」

ほわほわとした、何の警戒心もない笑顔を浮かべながら、ぼふっと彼女は目の前の毛皮に顔を埋める。心底嬉しそうなその様子に、狼は何も言えない。例え彼女の顔が背骨にダイレクトに当たってしまい、痛みを覚えたとしても、彼はそのまま彼女のしたいようにさせていた。

「わたし、狼さんのたてがみは大好きです」
『……三つ編みするのはかまわんが、元に戻しておけよ、お嬢』

仮にも森の王のたてがみが、ファンシーに細かい三つ編みにされているのはいただけない。彼女がしたいというなら止めないが、そのままにすることは、決して低くはない彼のプライドが許さなかった。

「可愛いですのに、ほどいてしまうですか?」
『……ほどけ』
「……もったいないです」
『あのな、お嬢……』
「リボンをつけたらきっともっと可愛いです!」

さもいいことを思いついたというような彼女に、狼はついに諦めの境地に達したらしい。
ゆるく組んだ前足にその大きな顔をのせ、目を閉じた。


* * * * *


この森は、人間達には『精霊の森』と呼ばれているらしい。
まぁその通りなのだが、人間は何故かこの森を恐れた。確かに森の奥は精霊の領域なので、人間が入って来れないように目くらましをかけてある。そのせいでどんなに歩いても、同じ場所に戻ってきてしまう、という現象が起こっている、それが人間がこの森を敬遠する理由だった。

それがいつの頃からか、人間は10年に一度、この森へ生贄を差し出すようになった。

狼達、精霊にしてみれば、無礼な話である。
彼等は精霊であって、魔物ではない。生贄など差し出されても、それを食らうような趣味は持ち合わせていない。彼も狼の姿はとっているものの、実際は何も口にせず、四元素の存在さえあれば、充分に生きられるのだ。

生贄は子供、もしくは歳若い娘であることが多く、森の入り口付近にある石造りの祭壇に身動きがとれない状態で放置されているのが常だった。
精霊達が何もしなければ、そのまま森の獣の餌に成り果てる。実際にその末路を辿った者も長い歴史の中では確かに存在した。うまく呪縛から逃れた者でも、もう元の家には帰ることは許されず、遠く離れた土地へと去ってゆく途中で命を落とす者も多かった。

精霊は―――――血を嫌う。
彼等は自分達の森で悲劇が起こることを悲しんだ。特に森の奥、銀の湖の精霊達はその傾向が強かった。
そして彼女等は生贄を保護することを、王である彼に願った。
精霊の領域に人間を入れることを彼は最初渋ったが、彼女等のたっての願いに、それを許可した。
人間の子が一人で生きていける力を得るその時まで、精霊達は保護者として丁重に彼等を慈しみ、守護する。
それが精霊達の間では、長い時の中で当たり前になっていた。


* * * * *


「狼さん、眠ってしまったですか?」
『いや……起きている』

見なくても、彼女がふわふわと笑いながら自分をゆっくりと撫でているのはわかる。
それを心地良いと思いながら、狼はうっすらと瞳を開けた。

『お嬢、楽しいか?』
「狼さん、それ、さっきも聞きましたですよ?」
『いや……俺と一緒にいても面白いことはないだろう?湖の乙女達とでも話してくればいい』

あの乙女達はおしゃべり好きで、人の子を誰よりも慈しんでいる。
だからこそ通常の場合、人の子の面倒をみるのは、慣習のように湖の乙女達と決まっていた。

「狼さんは、わたしと一緒にいたくないですか?」
『そういうわけではないが……』
「なら、一緒にいてくださいです。わたし、狼さんと一緒にいたいです」


* * * * *


―――――それは、ほんの気まぐれだった。
また生贄が捧げられたと聞いて、森の入口へと様子を見に行っただけのこと。生贄は乙女達が保護し、森の奥へと連れて来ることになっていたから、本当に覗くだけのつもりだった。

そこで―――――見つけてしまったのだ……彼女を。

狼は精霊の中でも、かなり高位の存在であるので、生贄の人の子にはその姿を見ることのできない者の方が多かった。ごくまれに見えたとしても、ほんの一瞬のことが常だった。

―――――しかし彼女もまた、彼を見つけてしまったのだ。

(「……狼さん、わたしを迎えに来てくれたですか?」)

そう無邪気に笑った彼女を―――――彼は放っておけなかった。


* * * * *


「わたし、嬉しかったです」
『……何がだ?』
「狼さんが、わたしを見つけてくれたことです。とっても、とっても嬉しかったです」

たてがみを撫でる手を止めずに、彼女は優しくそう呟いた。さわさわと銀の毛を梳く感触が心地良い。

「狼さんが見つけてくれるまで、わたし、いらない子だったです。でも狼さんが見つけてくれたから、いらない子じゃなくなった気がしたです」

生贄に差し出される人間は、大抵の場合、心に大きな傷を負っている。
家族から疎まれたり、売られたり……大きな悲しみと不安、恐怖を背負っている。
その傷は……精霊達によって、少しずつ癒されていく。それが人の子を見守っている精霊には至福の喜びなのだ。

「狼さんはわたしといて、嬉しいですか?」
『……ああ』
「狼さんはわたしといて、幸せですか?」
『……ああ、そうだな』

顔を上げて、狼は長いその鼻先を彼女の頬へと近づけた。
彼女は笑って、そっと狼の鼻に軽いキスを送る。

「わたし、幸せってどういうことなのか、ずっと知らなかったです。誰も教えてくれなかったです」

狼の深い蒼の瞳を、じっと見つめて彼女は続けた。

「わたし狼さんとずっとずっと一緒にいたいです。心がほかほかするです、あったかいです」

疑うことなど知らない、その真っ直ぐな瞳は、精霊にとってこよなく愛すべきもの。
狼もそらすことなく、その視線を柔らかく受け止めた。





「これが、幸せ―――――ですか?」





彼女が問う。
狼はそんな彼女に、律儀に、けれど曖昧に、こう答えた。





『……お前がそう思うなら、そうかもしれないな』





それでも彼女は、ふわりと、とてもとても嬉しそうに―――――笑った。


* * * * *


彼の身体に身体を埋めるようにして、すやすやと眠るその顔はとても穏やかだった。
いつかこの森を出て、彼女が違う幸せを見つけたとしても、この心だけは失わないように、狼はそう願わずにはいられない。
この森の王である、自分に触れられるほどに、純粋すぎるその魂はそのままにと。

『しかし……これはな……』

全てを綺麗な三つ編みにされて、白いリボンを結ばれたたてがみを見て、狼は一つ、大きなため息をついた。





―――――それはとある世界の、とある森の、とある日の物語。





【 完 】