おぼろ -Oboro-

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その十 遭遇

半月  突然、男の目の前でカッターナイフをかまえていた少年が、はっと驚いたような顔をして、ゆっくり後ずさり始めた。その目線は明らかに男の背後の何かに向いているようだ。
 反射的に男はふり返り、自分の後方を確認した。しかし、予想に反して、男の背後に続いている山道には何もおらず、あたりには何の異常もなかった。
 すぐに男はおぼろの方に顔を向けなおした。
 そのとたん、男は自分の眉間に強い衝撃を感じた。
 何が起こったのか考えるひまもなく男は一時的に気を失い、おぼろが一瞬のすきをついて両手で投げつけていたソフトボールほどの大きさの石とともに、地面に倒れこんだ。
 山頂近くのそのあたりには、道ばたに同じような大きさの石が無数にころがっている。おぼろが車のトランクから出たときに手頃な大きさと形の石をすばやく見つけ、そのそばに陣取っていたことを、男は見抜けなかったのだった。

 男が数分後に意識を取り戻すと、そこにはもう自分を気絶させた小学生の姿はなかった。
 右手に持っていたはずの自分のナイフも見あたらない。
 男は「くそっ!」と短くつぶやくと、立ち上がり、ややふらふらしながらも自分の車の運転席に戻った。
 ここでもまた、自分の車のキーがなくなっていることに気づいた。
 今度は男は大声で叫んだ。
「あのくそがき!」

 おぼろの耳に、車の中から男の叫ぶ声が聞こえてきた。
 おぼろは、山道沿いに並ぶ高い木のうちの一本の、上の方にある枝に乗り、下にとまっている男の車を見つめていたのだった。
 車のキーをおぼろが持っている以上、あの男は遅かれ早かれ、自分の足でこの山を下り始めるはずだ。
 おぼろはそれを待っていた。
 そのとき、頭の中に完全な計画を持って落ち着いていたおぼろを、驚かせる事件が起こった。
「少年よ、ちょっと話を聞け」
 木の枝の上にいるはずのおぼろの、さらに頭上から、老いた男のしわがれた声がしたのだ。
 おぼろの体は恐怖で固まった。
 体を安定させるために木の幹と枝とにかけた手に、必要以上の力をこめて、そこにとどまろうとしている自分を感じた。
 頭上を確認したい衝動もあったが、まずは何が起こっているのか把握しようと頭の中がフル回転し始めていた。
 ふたたび、老いた男の声がした。
「まあ、そう驚くな。わしの友だちの墓を作ってくれた礼を言いにきただけだ」
 おぼろは、もはやさっきの声が幻聴である可能性を排除せざるをえなかった。そして、今この老いた声がしゃべった内容を理解しようとせいいっぱい努力すると同時に、顔を上げて自分の頭上を見た。
 おい茂る葉に隠れながらも、木の幹がおぼろから数メートル上のところで終わり、その先には青い空が広がっているのみだった。
 そこには誰もいない。
「人間に姿を見せたことはない。悪いが、お前にもわしの姿は見えん」
 老いた声が続いた。
「だが、礼はさせてもらう。お前になら安心して渡せるものでな」
 おぼろは、依然じっと動かぬまま声を聞き続けていたが、声はそれで終わりだった。
 おぼろが再び動き出すまでにさらに数分がかかった。
 しかし、その精神の回復中に、老いた声の言った「友だちの墓」が、野良犬のジャマ吉の墓であることはなんとなく感覚的に理解できたのだった。
 今声を発したものが何だったのかは、とうてい理解できそうになかった。
 ふと気がつくと、はるか下の車の中から、パラパラと冊子をめくるような音が聞こえてきた。
 おぼろはすぐにその異常さに気づいた。
 車の中の男が、おぼろのランドセルから出したノートをめくっているのがはっきりとわかる。
 しかし、こんなに離れた場所にいるのに、なぜそんな小さな音がおぼろの耳に聞こえるのか。

 理解を超えた出来事が連続しても、おぼろはうろたえることだけは避けようとした。
 幼いころからくり返し聞かされた父からの教えが、はっきりと頭の中で聞こえてきた。
 困難なときほど、初心に戻れ。
 目を開き、耳をすまし、わずかな風の流れを感じ、おぼろは自分の目の前の事実だけを客観的に受け止める心の状態へと移行していった。
 眼下の車の中から、男が出て来るのが見えた。


[つづく]

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