ああモンテンルパの夜は更けて
昭和27年6月のこと、このやるせない心を抉るような歌が大ヒットした。「何の歌だろう?」いぶかった人々も直ぐに知ることとなった。この歌はフィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚の作った歌だったのだ。作詞がB級戦犯死刑囚:代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚:伊藤正康元大尉、歌ったのが「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡邊はま子。この歌はモンテンルパ刑務所の教誨師加賀尾秀忍から送られてきたものだった。
戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいることを知った渡邊はま子は驚愕し、レコード化に奔走して、遂に大ヒットさせたのである。これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。
戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡邊はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフイリピンへ渡った。当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり一年も収容所に入っていた女性である。許可など出る筈もなかった。それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・
昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。熱帯の12月。40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった。この歌は、この刑務所の死刑囚達が作詞作曲したものである。この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあったようだ。そして、この「ああモンテンルパの夜は更けて」は、これらの人々を救い出す事になったのである。
昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から一つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。
そのころ、加賀尾はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取り付けることが出来た。初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。流れ出るメロディー。暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。尚もじっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。
大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。「私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ」
死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。
横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。
【お断りとお詫び】筆者の故郷はこの歌の作詞者代田銀太郎氏と同郷の信州の南都飯田市で、この話はよくされていました。ために記憶の部分も多いのですが、文中、教誨師加賀尾秀忍師とありますところを誤って記憶していたため一時<加賀屋秀文師>と表記していました。ご迷惑をお掛けしたかた、申し訳ありませんでした。あまり記憶に頼り過ぎてはいけませんね。