明治32年(1899年)     JASRAC No.036-6790-1
桜井の訣別(わかれ)
   
    櫻井之驛址にある父子別れの像        楠公父子訣別之所の碑


作詞:落合直文(PD)
作曲:奥山朝恭(PD)


歌唱:森繁久弥
MIDI制作:滝野細道

(一)
青葉しげれる 桜井の
里のわたりの 夕まぐれ
木の下かげに 駒とめて
世の行末を つくづくと
しのぶ鎧の 袖の上
(え)
散るは涙か はた露か

(四)
(いまし)をここより 帰さんは
わが私
(わたくし)の ためならず
おのれ討死 なさんには
世は尊氏
(たかうじ)の ままならん
早く生い立ち 大君に
仕えまつれよ 国のため

(二)
正成
(まさしげ)涙を うち払い
わが子正行
(まさつら) よび寄せて
父は兵庫に おもむかん
かなたの浦にて 討死せん
(いまし)はここまで 来つれども
とくとく帰れ ふるさとへ

(五)
この一刀(ひとたち)は 去(い)にし年
君の賜いし ものなるぞ
この世の別れの かたみにと
(いまし)にこれを 贈りてん
行けよ正行 ふるさとへ
老いたる母の 待ちまさん

(三)
父上いかに のたまうも
見捨てまつりて 我ひとり
いかで帰らん 帰られん
この正行は 年こそは
いまだ若けれ もろともに
御供
(おんとも)仕えん 死出の旅
 
(六)
共に見送り 見かえりて
別れを惜しむ 折からに
またも降り来る 五月雨(さみだれ)
空にきこゆる ほととぎす
誰か哀れと 聞かざらん
あわれ血に泣く その声を
 
八洲秀章&抒情歌 童謡・唱歌 懐メロ  *10/OCT/27 「細道のMIDI倶楽部」TOPへ

桜井の訣別の沿革
世は鎌倉時代から室町時代に変わる頃。鎌倉幕府は元幕府方であった新田義貞に滅ぼされ、六波羅探題も幕府方を離反した足利尊氏に攻略され北条家は滅びました。元々鎌倉幕府攻略を画策していた後醍醐天皇を擁する新田義貞と、後に光源天皇を擁立した足利尊氏とが対立し覇権を争いましたが、一旦は後醍醐天皇方が勝利し『建武の中興』が起こり、尊氏は九州に逃れました。しかし、尊氏は九州を攻略し、数十万の軍勢をもって山陽道を東進してきて、それを数万の朝廷方の軍勢をもって決戦しようとした、というのがこの「桜井の訣別」の背景です。楠木正成はそれまで皇軍として数々の戦功を挙げてきましたが、その時ばかりは討死を覚悟し、同行してきた息子正行(まさつら)に<櫻井の驛>(現:大阪府三島郡島本町桜井)で”国へ帰れ”と命じます。”いやです、ご一緒して討死します”という正行に”今お前が死んでどうする。尊氏のやりたい放題になるから、お前は早く大きくなって、天皇をお守りしろ”、と言って泣く泣く別れます。楠木正成は兵庫<湊川の戦い>で討死し、足利尊氏の天下となり室町幕府が興りますが、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を設立し、ここに南北朝時代がはじまります。
覇権争いで勝利したものが、敗者を悪人仕立て上げるのはごく普通のことですが、明治維新以後の皇国史観によって、鎌倉幕府からは<悪党>と呼ばれた楠木正成が大忠臣に祀り上げられた結果、足利尊氏がとばっちりを受けて、稀代の大悪人とされてしまいました。戦後皇国史観が見直され、楠木正成の智謀知略や忠君愛国は否定されてはいないものの、この歌の内容は疑問視されています。
写真
Licence:GNUFDL1.2. taken by Mariemon from Wikimedia