桜井の訣別の沿革 世は鎌倉時代から室町時代に変わる頃。鎌倉幕府は元幕府方であった新田義貞に滅ぼされ、六波羅探題も幕府方を離反した足利尊氏に攻略され北条家は滅びました。元々鎌倉幕府攻略を画策していた後醍醐天皇を擁する新田義貞と、後に光源天皇を擁立した足利尊氏とが対立し覇権を争いましたが、一旦は後醍醐天皇方が勝利し『建武の中興』が起こり、尊氏は九州に逃れました。しかし、尊氏は九州を攻略し、数十万の軍勢をもって山陽道を東進してきて、それを数万の朝廷方の軍勢をもって決戦しようとした、というのがこの「桜井の訣別」の背景です。楠木正成はそれまで皇軍として数々の戦功を挙げてきましたが、その時ばかりは討死を覚悟し、同行してきた息子正行(まさつら)に<櫻井の驛>(現:大阪府三島郡島本町桜井)で”国へ帰れ”と命じます。”いやです、ご一緒して討死します”という正行に”今お前が死んでどうする。尊氏のやりたい放題になるから、お前は早く大きくなって、天皇をお守りしろ”、と言って泣く泣く別れます。楠木正成は兵庫<湊川の戦い>で討死し、足利尊氏の天下となり室町幕府が興りますが、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を設立し、ここに南北朝時代がはじまります。 覇権争いで勝利したものが、敗者を悪人仕立て上げるのはごく普通のことですが、明治維新以後の皇国史観によって、鎌倉幕府からは<悪党>と呼ばれた楠木正成が大忠臣に祀り上げられた結果、足利尊氏がとばっちりを受けて、稀代の大悪人とされてしまいました。戦後皇国史観が見直され、楠木正成の智謀知略や忠君愛国は否定されてはいないものの、この歌の内容は疑問視されています。 写真:Licence:GNUFDL1.2. taken by Mariemon from Wikimedia |