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1.私たちの前に立ちはだかる障害。
滝好きであれ、山好きであれ、自然の中にいる事が好きな人々は、「(自分のためにも)このまま、ここが守られればいいな」、と思うのが普通の感情だと思われます。しかし、<ここが>というからには、ここに来る道や埋め込んだ鎖、渡河の丸太などで既に自然が破壊されていることも思い知らされます。この時点で<守られればいいな>と思った人々の考え方と行動は、二つに分かれます。つまり、「ここまで破壊されてしまったのだからもはや・・・」と「これ以上は何とかして・・・」、の二つです。<もはや>、と考えた人たちの行動は五つほどに分かれます。
(1)自分も自然を破壊しているのだから他人にはとても言えない。
(2)自分は滝が好きなだけで他のことは関係無い。
(3)<自然をまもる>というのは反体制的となり、政治的で嫌だ。
(4)どれが必要でどれが無用の自然破壊かとても線引きなど出来ない。
(5)自分など小さな存在で何を言っても無駄であるから言わない。
こうして最初の<滝を守りたい>という気持ちは無くならないまでも、風化して行きます。一方<これ以上は・>と思う人は、上記の(1)〜(5)をあまり深刻に考えることも無く克服して、次のように考えるのでしょう。ある意味では楽天的なのかもしれません。
(1)人間は呼吸すれば炭酸ガスを吐くし、自然の物を食し、排泄して自然を汚す。休日には反対していた高速道路を走って排気ガスを撒き散らす。その行き着く先は、これも散々反対していた土産物屋の並んだ有名滝で、おまけに土産まで買って帰ってくる。・・・だがしかし、と考える。これらはみな、社会的生物である人間が生活し、生きていくため、だれもが持っている自然に対する原罪である。高速道路にしても賛成したわけではないが、生活に必要な面もある。こうしたものを利用することと、これ以上の無益な破壊や開発に抗議することとは何の関係もない。
(2)滝が好きで他のことは関係したく無い、というのは個人レベルではどうでもよろしい。・・・だがしかし、と考える。滝が好きで、滝から心に恩恵を受けている以上、過剰な開発を阻止し、後世に出来るだけ自然の状態で残すのは滝好きの義務である。少なくとも、そのような行動をしようと思っている他人に水を注すようなことはして欲しくない。
(3)自然を守る、というのは確かに反体制的にならざるを得ない面がある。なぜなら、一番の自然の破壊者は、自治体などの行政である場合が多いから、お上に逆らうという構図となり勝ちである。・・・だがしかし、と考える。行政もほとんどは生活に必要な自然破壊を行うのであろうけれど、諫早の可動堰や沙流川のダムなど、何十年も前に決められて何度も建設目的自体も変えられた、ただ金を使うためのみの目的と変じた巨大プロジェクトもあり、勢い政治的となる。政治的に関わりたくない人は沢山いるので、関わらないでも良いが、理由を転化して足を引っ張らないでもらいたい。
(4)どの開発は良くて、どの開発が無用のものかは確かに難しい。・・・だがしかし、と考える。個々に見ると微妙なものがあるが、同じような開発でも、個々人の利益に適うのか、開発側のモウケが見えてくるか、が判断の基準であり、分岐点であろう。コマーシャリズムは大きな破壊に繋がるので怖い。
(5)一人の意見は小さい。・・・だがしかし、と考える。言い古されたことではあるが、発言しなければそれは承認したと見なされる。小さくとも、発言しなければ何も始まらない。全日本瀑布連盟という団体がある。彼ら自身は冗談から出来たような団体で、遊び半分と思っている節がある。しかし、唯一の滝愛好家の団体として、彼ら自身大きな力をもっていることに全く気付いていない。行政だって、滝であれ何であれ、有識者の意見を求めている。滝の専門家も、永瀬嘉平氏だの数名いるが纏まっていない。それでも行政は彼らに意見を求めるのである。団体の、滝に関する有識者の集まりといえば、目下前述の全日本瀑布連盟をおいてないのに。
こうして滝好きも二つの行き方に分かれます。
2.知床で起こったこと
1987年4月15日、知床国立公園内にある原生的国有林に、林野庁北見営林署の斧が入ってしまいました。原生的というのは、戦前に一回だけ一部に伐採が入ったからですが、ほぼ原生林でした。北見営林署の説明では、「下刈りして老木を間引かないと、森林全体が駄目になる」というものでした。私たち反対者は「縄文の昔から原生林だったものが、今になって衰える筈がない。林野庁の巨額の赤字(約1兆円)をまず知床をやって、次々とやっていこうとしているのに違いない」というものでした。
弁護士グループを始めとして、自然団体などが交渉に応じるよう迫りましたが、地域的背景を持たない、いわゆる烏合の衆と見られ、利害関係人ではないとして、話し合いに応じませんでした。国立公園の国有林なのですから、直接の利害関係人などは始めからいないのです。
何を言っても伐採を強行するという北見営林署に対し、ある人は木に自分の体を縛り付けたり(ヒグマの出没するところで)、林道を封鎖するピケット・ラインを張ったりしました。何の所属も政治的意図もない、ただ方々から集まった人たちです。私たちは東京にあって、林野庁や行政管理庁、新聞社に、メッタやたらと抗議文を送り付けました。
伐採の入った翌日の4月16日,新聞が特集を組んでくれ、私の投稿も掲載された日の翌17日、伐採は100本の木を伐り倒したところで中止となりました。営林署の最初の話と異なり、伐採された木はみな、今を盛りの壮齢樹であることが判明し林野庁の嘘がバレました。4000本の計画でしたから、100本は少ないとも言えますが、取り返しの付かない事でした。しかし、一人一人の関係がない人の集まりではありましたが、小さなものでも集まれば大きな力になるものだと言う事と、何よりの大きな成果は、白神山地を横切る青秋スーパー林道が中止となりそのブナ林が救われたことでした。もしスーパー林道が出来ていたら、白神山地が世界遺産に選ばれるようなことはなかったでしょう。
3.金儲け主義から自然と滝を守ろう
金を落とすこと、景気の調整のため、ただそのためだけになされている工事が公共投資に非常に多いようです。諫早湾可動堰、長良川河口堰、吉野川河口堰、日高スーパー林道、沙流川ダム、等等・・・・・建設省は国土破壊省?
しかし、最近、政府のやることは比較的監視の目が行き届いていて、あまり極端なことは行われなくなってきました。今、怖いのは民間大企業の行うリゾート開発、地方自治体の客寄せの中開発、地元企業の金儲けのための小開発となりました。これらが金儲けやコマーシャリズムと絡み合うと、金に目がくらんでとんでもないことをやってしまうにもかかわらず、割合目が行き届かないのです。しかも、滝に一番影響を与える小開発にはなかなか注目が集まりません。細かいところは滝好きの私たちががんばらなくて、誰が滝を徹底的な破壊から守ってくれるのでしょう。
一人一人の声は小さくても、インターネットを通じ声を上げていきましょう。そして、滝と自然を守りましょう。
1987年(昭和62年)4月19日付 朝日新聞掲載記事
この記事の出た翌日、伐採は中止されたが、既に100本以上の壮齢樹が切り倒されていた。
朝日ジャーナル 1987年5月8日号掲載