細道の 奥の細道1     

はじめに

 1998年5月16日に「滝の細道」を始めて以来、1年2ヶ月。それまでは、関東6県と東京、静岡、長野の範囲に限られていた。これは、このHPの「滝の備忘録」をご覧頂けば一目瞭然で、綺麗に分かれている。理由は簡単。この範囲でもとても手が回らないのに、東北、近畿と手を広げていったら親指と人差し指の○と、根気と、時間=暇が続かないと思っただけである。
 1999年7月24日に日帰りとしては最長の那須塩原への遠征を行った。日光までは行っていたのでそんなに変わりはないはずだが、「遠くまで来つるものかな」という思いが彷彿として広がった。この遠隔感と言うのが旅の醍醐味だが、それに滝見が合併症を起こしてしまうと、もう居ても立っても居られなくなって、新潟の苗名滝くらいなら日帰りでいけるかな?と、遂に禁は破られてしまった。次週7月31日には苗名滝の滝壷に立っており、後は夢は全国へと一気呵成。翌月の第1回奥の細道へと繋がった。
 考えて見れば、この滝見ツアーを「滝の細道」と名づけたのが、12本目の裏見の滝で松尾芭蕉の俳句♪暫くは滝に篭るや夏(げ)の始め♪に感動したのがその理由だったのだから、陸奥の国の方へ目が向くのもけだし当然とも言えようか。本当の滝好きは一部の地域に特化して行くようなので、多少気が引けたが、旅を楽しんで滝も楽しもうと言うのが私たちの根本理念ではある。
 こうして、第1回目の東北の旅が始まった。

(1)仙台まで 1999年8月26日

 栃木県烏山町の竜門の滝は、栃木県の滝としては少し離れている。平地にあり江川の本流瀑でもあるため周囲に他の滝がないのである。そこでこういう機会に、行きがけの駄賃といっては語弊があるが、ついでにといっても何だが、ともかく往路の立ち寄り先の一つとしておくには格好の滝である。
 自宅を4時に出て高速経由宇都宮には6時に着いた。この季節、もうすっかり空は明るくなっていて幸先良いと思ったが、一般道と言うのは思いの外時間が掛かるもので、烏山町に着いたのは、夏休みも終わったのだろうか、登校の児童がチラホラする時間となってしまった。
 ここ一週間ほど雨が降ったり止んだりで、江川も水嵩を増しており茶色の濁流が岩を噛んでいた。竜門の滝の竜門とは登竜門と同じ意味で、鯉が登って竜になるあの門のことであるから、滝もそれほど高くなく幅広のものを一般に竜門の滝と呼称している。その点ではここは将に竜門の滝だが、あまりにも水の流れが激しく通常とは趣を異にしていたようである。
 あまり飛沫が激しいのでほうほうの態でここを去り、R294を北上。須賀川市の乙字ヶ滝に向かう。伊王野で県道25号に入り、60号、76号をとおって白河の関にでた。この白河の関は、勿来の関や安宅関のように所在がハッキリしている関所と違い、万葉集や古事記などに出て来る白河の関跡を、時の領主松平定信がここであると定めたもの、と、説明書きがあった。
 松平定信といえば、寛政の改革で有名な老中である。松平定信は田沼意次の賂(まいない)政治を糾弾し、華美を排して質素倹約を重んじる政策をとった。定信は八代将軍徳川吉宗の孫にあたり、御三卿の一、田安家の出で、自身も一時は将軍に選ばれようかという渦中にあった人物だ。そのため施政も自信満々で苛烈であったことから、江戸の落首に、最初は<田や、沼や、汚れた御世を改めて、清く澄みたる白河の水>と詠まれたのが、段々と<ありがたや、物見遊山は御法度で、銭金持って死する日を待つ>などとなり、挙句の果ては<白河の余りに清きに住みかねて元の濁りの田・沼恋しき>と書かれるようになったと言う人である。
 田沼の政治は消費重視のインフレ政策、松平定信の方は緊縮財政の改革優先政治である。結果はデフレとなり超不景気となって定信は失脚するが、何やら現代の小泉政権の行く末を暗示しているようではないか。
 閑話休題。どうも脱線してしまう。
 和泉式部庵跡を県道に曲がり、ショートカットしてR289に出、逆川を直進してR118を北進。乙字ヶ滝はこのR118沿いにあるので、楽勝である。
 右方向に<福島空港>という看板が繰り返し繰り返し現れ、こんな広い空港も無かろうと思われる頃、やっと乙字ヶ滝に着いた。この広大な沖積谷は福島中通りと呼ばれる盆地を形成しており、見掛けはまごうかたなき平野である。その中央を、那須岳に源を発し、猪苗代湖からの安積疏水や安達太良山系の水を集めた阿武隈川がうねうねと蛇行しながら福島盆地を抜け仙台平野方面に流れ下っている。乙字ヶ滝はその阿武隈川本流にかかる幅60mほどの本流瀑である。
 通常は7〜8mの落差があり、上空から見ると<乙>の字の形をしているので、そう呼ばれているとのこと。へっ? 上空から見ると? この滝が命名されたときに上空ってもね。多分両岸や上流に懸かる橋から想像したのであろうが・・・
 この滝の駐車場に着いたとき、そそくさとカメラと三脚をセットしている気もそぞろな私を見ても、さっきまでキャッキャと騒いでいた連れ合いが助手席から動こうともしない。
「どしたの? 折角着いたのに見に行かないの?」心も上の空で問い掛けるのに、「あなた一人で行ってきて」とすげない回答。
 何て奴――いや、女だ! たいした落差のある滝じゃないと知って、ズルこいていく気が無くなったな。よーし、行ったろやないけ。そして、物凄ゲー滝だったと意地悪報告したろやないけ。決心して行って見ると・・・ん? 滝なんてどこじゃー。どこにもないじゃないか。阿武隈川の濁流が岩を噛んどるだけじゃないか〜。何が日本の滝百選じゃ〜。と散々悪態をついて車に戻って来た。もう一度くるかどうかは微妙なところである。
 戻って車を覗いて見ると、連れ合いが青い顔をして眠っていた。気分悪そうである。運転席に着くと気が付いて、「どうだった?」と。スンゲー滝だった、と意地悪してやろうと思ったが、ここは一番ぐっと飲み込んだ。
「それよりどうだ?大丈夫かい?」、「うん、凄く気分が悪かったけど、良くなって来たわ」、「出発していいか?」、「もうちょっと」ってわけで意地悪しなくて良かった。
 さっきまで健康だった女性が突然吐き気をもよおす原因となるべき行為については、このところトンとご無沙汰であります。身に覚えがありませぬ。後で分かったことだが、これが年相応の更年期障害ってやつの走りだったとは、その時は思い至らなかった。
 暫く休んだら連れ合いも気分が快復したと見え、常日頃の饒舌さを取り戻したようなので、ホッとするのも束の間、須賀川ICから東北自動車道に入って後は仙台まですっ飛ぶことに。なにしろ、仙台の二口渓谷の滝に寄り、秋保大滝を掠めて途中で行者滝もやっつけて鳴子温泉に午後8時までには入ろうという、例によって無謀とも思えるハードスケジュール。
 郡山、福島、阿武隈はつつがむし無く越えて、12時過ぎに仙台に付いた。時間が無いので、これも例によってコンビニを探しつつ二口渓谷を目指したが、山奥に入って行くばかりでコンビニのコの字も無いではないかいな。
 私らは滅多にファミレスやラーメン屋やとんかつ定食でも食堂には寄らない。先ず、吝嗇(けち)である、次に時間がもったいない、それからトイレが借りられる、なによりも滝前で食すおにぎりがある、などなどの理由でもうずっとコンビニ利用である。従って、というほど大袈裟ではないが、ICなどが山側にあって、あとは山奥を右往左往することになると、昼飯を食いっぱぐれることになる。せめて道の駅でもあればね。
このときも、とうとう渓谷入り口までお目に掛かれず、やな、予感ばかりしていた。案の定、渓谷入り口のゲートが無情にも閉まっているではないか。何てこったい!8月のこの時期に閉まってるってことは、どういうこってい? 果たして開門される時があるのだろうか、一年中じゃないのか? 仙台市天白区役所に尋ねる、というより抗議してやろうと思ってケータイを取り上げたら<圏外>だと。
 腹は減るし、滝は見れないし、圏外なんてへんてこりんなものまで加わるし、アドレナリンがドクドク流れ出て怒り心頭。しかしゲートに当たって見ても敵は冷たく見返すばかり。歩いて行ってもどのくらい時間が掛かるか研究もしてない、という次第ですきっ腹を抱えて引き返す羽目に。
 仙台市にはこの他に秋保大滝、作並温泉の鳳鳴四十八滝がある。鳳鳴はともかく秋保大滝は二口渓谷からの帰り道である。秋保大滝2は<日本の滝百選>の滝であるが、地元では日本三名瀑の一つであるという。その三名瀑とは、華厳の滝、那智の滝、そしてこの秋保大滝だと。あららら、袋田の滝はどこへ行っちゃったの?というのは関係ない第三者の言葉である。そういえば、富士宮市の白糸の滝も日本三名瀑の一つであるといっとったが、そのときも外されたのは袋田の滝。オラが郷の名瀑に華厳・那智を加えて日本三名瀑、決まって弾き飛ばされるのが袋田の滝、と筋書きは出来上がっている。
 日本人は<三○○>が好きだ。安芸の宮島・丹後の天橋立・陸奥の松島の日本三景、岡山の後楽園・金沢の兼六園・水戸の偕楽園の日本三庭園、伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社の日本三社、勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟の幕末の三舟、三々九度、三種の神器などなどなど。これは<三>が一番安定していることに由来する。写真を撮る我々が、三脚というのが一番安定していて、一番扱いやすいことを、一番良く知っている。
 このことは中国も同じで、堯・舜・禹の三聖、魏・呉・蜀の三国、唐三彩、三顧の礼などなどなど。中国で一番先に出来た土器が<鼎(かなえ・てい)>という三本足のもので、四本足や丸い糸尻よりどこに置いても一番安定感がある。これは試して見ればすぐにわかることで、三本足の鼎は、それぞれの足の長さが多少違っていても、地形が多少デコボコしていても即座に安定する。四足は、四本ともキッチリ足の長さが同じでないと不安定である。丸の糸底にいたっては、安定させるほうが至難の業である。
 何を言いたいのか自分でも分からなくなってきたが、そう、<日本三○○>なんぞといっても、一つはチャッカリ地元のものを入れてしまうし、三つ集まると必ず一つ味噌っかすが出るし、どう見ても三つより素晴らしいものがあるし、<日本三○○>などは所詮普遍的根拠などなく、敷衍して考えると<日本の滝百選>も一向に根拠が無い、ということを言いたかったのかな?
また脱線してしまった。
 こんなことじゃ、いつ鳴子温泉に着くか分からないので、このあと、仙台青葉城址によって、苦労してガソリンを入れて、コンビニでしこたまカップラーメンを仕入れて,苦労して鳴子温泉の宿舎を捜し当てて・・・

(2)雨ぞ哀しき 1999年8月27日

 27日の朝は、この時期には珍しい篠付く雨だった。季節的に午後の夕立、台風の影響、などはあり得るが、台風情報も大型低気圧も天気図上には無いのに、不連続線を刺激するような朝からの豪雨ってのも・・・きのう秋保大滝の山奥で小の方を我慢できなくなって、ちょっと失礼した祟りか悪魔のはからいか?
 それでもってんで、宿泊地の鳴子温泉を出てR108を鬼首から秋田県雄勝に向かってみたのだが、トンネルに入るとホッとし、出るとワイパーが効かなくなる、という繰り返しでホトホト閉口した。雨簾を掻き分けながら進むというのは、まさに斯様な状態を言うのであろう。
 R108から湯ノ又温泉に入る辺りでどうにもこうにも我慢が出来なくなって、宮城県に引き返すことに決めた。行ってもこんな豪雨じゃ写真も撮れない。雨足が弱まったところで、木から雫がボタボタ落ち、草花の葉はベットリと濡れていて、とてもカメラの耐えうる状態ではないからだ。かくして湯ノ又大滝も天正の滝も法体の滝も奈曽の白滝も回顧の滝も大湯滝も全〜〜ん部パアとなって、さて、これからどうしようか。
 山道を車で下りながら、かう考えた。地に働けば雨が降る、最上川に棹差せば流される?兎角にこの世は天気が悪い。天気が悪けりゃ何処へ行く。何処へ行くったって何処へ行きゃあいいんだ。そうだ!松島の芭蕉先生んとこへ行こう。♪松島や ああ松島や松島や♪芭蕉先生をも絶句せしめた松島へ行こう。滝の細道とHP名だけパクッておいて、全く避けて通る手は無かろうじゃないか。
 実は、ここだけの話であるが、私は松島には以前にも二度ほど訪れたことがある。その時は食事に招待されたり、夜の宴会だったりして、風景を愛でる余裕など全くなかった。場所の印象も好悪の感情も、その時の状況に影響される。食事に出されたホヤの酢の物のあまりの不味さに、ゲッと叫んだまま硬直してしまったのだ。あれは人間の食べるものなのだろうか? あんなものを食べて澄ましておっていいものか? あんなミョウガの化け物みたいなものを・・・?
「ホヤは三回我慢して食べると病みつきになるっていいますよ」
 病みつきだか狐つきだか知らないが、そんなものにはなりたくな〜〜い!もう、二度と食べたくな〜〜い!というわけで、松島が悪いわけではないけれど、哀れ松島の印象はホヤのお陰でまことに悪い。松島と聞くとパヴロフの犬じゃないけどどうしてもホヤを思い出してしまうのだ。それこそ、"とんだとばっちり"である。
 私は食べ物の好き嫌いはほとんど無い。蚕の蛹(別名「ひび」という)や蜂(主としてスガレ)の子、ザザ虫、クサヤ、塩辛、納豆、ステーキ、なんでも食べちゃう。しかし、あのホヤだけはどうかひとつご勘弁願いたい。トンネルズのやっているTV番組「食わず嫌い王決定戦」にホヤで出たら、5秒が限界であろう。
 なんでこう脱線してしまうのか?閑話休題。。。。。
 仙台を抜けないで、北の方から松島に入った頃には雨もすっかり上がって、陽射しも漏れてきた。しかし、朝の天気予報は、太平洋側は晴れるが日本海側は雨の続くことを告げていたので諦めはついたし、雨が止んでも撮影状況に変わりの無いことは前述の通りである。
 ホヤの幻影にもかかわらず靄の掛かった松島はよかった。しかし、島を二つ三つ、瑞厳寺を一巡り、昼食を取るともうすることが何も無くなってしまった。すでに十分滝にヤラレていたので、滝ヤラレの滝屋なんというものは滝に行けなくなったら、カマをもがれたカマキリ同然。何もやることが無くなってしまうのだ。
「おい、次は何処へ行く?」
「私は何処でもいいわ」
「何処でもいいわ、ってのは何て言い草だ。どっか無いのか?あまりにも無責任ちゅうもんずら。 な〜んか、どっかありそーなもんじゃあないか?」
「私があそこ行きたい、ここ行きたいって言っても、どうせ行きやしないでしょ。あなたの頭の中には滝しか無いんだから。もう、行きたいとこ、決まってんでしょ?」
「決まっとらんから、言ってるんじゃないか」
「じゃ、遠野に行きたい」
「なに?遠野だ? じゃあ、蔵王に行こう!」
「ほら、ヤッパリ。私の意見なんかちっとも聞かないんだから」
「お前、遠野がここからどのくらい掛かるか分かって言ってんのか?岩手県だぞ」
「言えって言うから言ったんじゃないの。何よ!」
と言うお決まりの虚しい会話が交わされた後、車はひとりでに蔵王に向かった。何しろ自動車って言うくらいなもんで・・・・・
実は、会話の途中で蔵王の天候はどうかな?と気になりだしたのである。霧の具合は?三階の滝は、不動の滝は、顔を見せているだろうか?ひょっとしたら写真も撮れるんじゃあなかろうか?
 この天候では、ただでさえ濃霧渦巻く蔵王スカイライン。見られるわきゃないやな、とは思ってみたものの、くどいほど申し上げるが、滝にヤラレてしまった者の哀しき性。淡〜〜い、一縷の期待を抱いて蔵王に向かったのであった。
 結果は、世の中そんなに甘くない、ということ。対向車のヘッドライトも霞む霧の中、三階の滝も不動の滝も、音のみが谷を渡る虚しさである。スゴスゴ引き返す羽目とはなりぬ。
 こうして実り少なき日も暮れて、鳴子温泉の遠き光がまたたく。
 雨ぞ哀しき・・・

(3)大車輪の滝巡り   (1999年8月28日)

 日が変わって、今度は太平洋側が天気が悪く、日本海側は比較的良いとの予報である。シメタ締めないは時の運だが、すでに丸一日を棒に振り、本日は横浜まで帰らなければならない。もう遮二無二滅多矢鱈と巡らなくっちゃあ、ソロバンが合わないのだ。秋田まで行って大湯滝や奈曽の白滝や法体の滝あたりをほっつき歩いていると、幾つも見ないうちに日が暮れて道遠し、横浜は午前様となりそうである。焦るなあ・・・
「今日は新庄から酒田に出て、月山の七ツ滝でも見て帰るか。山形県中心だな」
 酒田!と聞いて、連れ合いの目の色が、「あ〜あ、また滝か」、と魚の腐ったようなのから、一挙に琥珀に輝く?トパーズと変じた。
 シマッタ! 要らぬことを言ってしまった。概してオナゴは方向音痴で、今自分が何処にいるかなんぞ分かりやしないのだから、要らぬことを言わなければ、酒田何ぞに滝巡りの時間をボッタクられる道理はなかった。オナゴのオリエンテーションの悪さは、思うに太古の生活習慣に起因している。男衆は野の狩に遠出したりして、方向音痴の奴は野垂れ死にの運命である。オナゴ衆は家を守って動かず、朝晩が分かればそれでいいのだ。方向感覚が無いので、地図を逆さに見たり、点(目的地)から見ようとしたりする・・・あっ、サイトの外で非難ごうごうの気配が!ヤベ!
 実は我が連れ合い=付属物とも言う、内田康夫旅情ミステリーの大ファンで、二人の名探偵、浅見光彦と長野県警竹村岩雄警部が登場する「沃野の伝説」は、この酒田が舞台となっているので、そこを訪れてミステリーの状況に浸ろうという魂胆なのである。昨日の会話に登場した「遠野」も、何の事は無い、「遠野殺人事件」の舞台だからというのがその最大の理由だったのだ。あっさり交わされてぷっと膨れるのも無理は無いが、以後の忙しい滝巡りで「あっち行きたい、こっち行きたい」内田康夫には終始悩まされることとなる。ま、いいか。
 最上川沿いにR47を新庄まで出て、戸沢村の白糸の滝を目指した。道路はほとんど乾いていたが、木々や草叢は夜来の雨に雫を滴らせて前途多難を思わせる。♪五月雨(さみだれ)を集めて涼し最上川♪ という最初の句が、あまりの水量豊かな急流に→♪五月雨を集めて早し最上川♪と変えざるを得なかったと言う芭蕉の逸話どおり、最上川はとうとうと流れ、茶色の濁流は岸を噛むようであった。♪夜来雨流れて深き濁り川♪ この季節、乙字ヶ滝の写真にも見らるる如く、阿武隈川も2日前ではあったが、滝を埋没させるほどの急流濁流で、何処も同じなのだろうか。
 白糸の滝は、最上川沿いに走る国道から見て対岸にあり、滝に行く手段はなさそうである。国道沿いには賑々しくみやげ物店などが軒を連ねている。店を出た岸辺に遊覧船の船着場があり、一艘繋留されているが、この急流の中を出帆するかどうかは定かではなかった。時々霧が川面を流れて、上流から下って来たのだろうか、遊船が見え隠れしながら澪を早めて下流に消えて行く。滝は水量豊かに落ちているようだが、時に霧に隠れたり、木々の緑が覆い被さって、撮影には誠に辛い条件である。滝壷辺りの赤い鳥居が雨に濡れて妙に目立っているのも、何か霧の彼方の寂寥感を誘っていた。
 白糸の滝を発って、最上川沿いに下って行くと、随所に直進酒田の看板があり、連れ合いの期待も膨れ上がって来たようである。しかし酒田を目前にして、この滝ヤラレの男、突然右折してしまったのである。当然、前方には遊佐などと聞いたことも無いような地名が出て来る。酒田は離れるばかり、期待はシャボン玉のように萎んで哀れ彼女は・・・。
 出羽の国八幡町にある玉簾の滝は、時々テレビにも登場する、極めて繊細で優美な滝・・・・・のはずであったのに、眼前にある滝は、華厳の滝も裸足で逃げ出すような豪瀑であった。黄濁した落流が恐ろしいほどの飛沫をあげて、カメラを構える写真屋さんを威嚇し、襲い掛かってくる。傘を差して、カメラには覆いを掛けて行ったが撮れるものじゃあない。滝壷から上がる飛沫が横から吹き付けてくるので、普通の雨より始末が悪い。50mほど離れている堂宇もジッポリと濡れている。堂宇の影まで傘を盾のように構えて、タタタと前進し、サッと覗いてシャッターを切って撮ったのが[この写真]。何ともまあ、摩訶不思議な写真となってしまったけれど、却って幾ばくかの幽玄な味が出たかもしれない。しかし、他のサイトや本などにある姿とのあまりの違いに、「参ったなあ。もう一度リベンジに来にゃあいけんかなあ。メンドイなあ」などと滝ヤラレ男にあるまじきことを、ぶつくさ考えていて、「あっ、実にこの滝にしては珍しい光景が撮れたのだ!ラッキー!」と思いつき、悩みは雲散霧消したのだった。
 カメラの電気系統に危険を感じ、撮影もアップの2枚のみで豪瀑と化した玉簾の滝を後にして、今度こそ本当に酒田に向かった。道路標示版に「酒田」の文字が出るたびに、「今度こそ本当に酒田にいくのかしら? この宿六のことだからまたプイと回ってしまわないかしら?」と、隣席から不安と期待の両方が膨らむ様子が伝わってくる。
 酒田に着くと、突然生き生きとして、「こっちが酒田港よ、あっちが鳥海山よ、ここ行くと酒田駅にでるわよ!」なんぞと、日頃の方向音痴にあるまじき言動である。内田康夫恐るべし。平凡な主婦をナビゲーターに仕立て上げてしまった。私も「沃野の伝説」は読んだが、著者は当地を訪れて書いたのに相違なく、正確な風景描写であった。酒田市は山形県第二の都市とは言っても、鶴岡市、米沢市と同規模の人口10万人程度で、5,6分も車で走れば中心部は突き抜けてしまう。港や中心街や郊外などを1時間ほど走り回ると、もうあらかた小説の舞台は見てしまった。酒田自慢の有名記念館や観光地に寄ったわけでもないのに、我が連れ合いはこれにて満足したようだ。安上がりな女である・・・・・痛ッ、電撃を投げないでください。
 酒田から鶴岡を抜けて日本海に別れを告げ、月山の麓に入ったところに野麦俣がある。現在はR112も月山の山裾に新道が出来て、旧道沿いの集落は、平家の落人の伝説に相応しい様相の家並みが、山肌や懸崖の下にへばり付くようにして並んでいる。この集落にに抜けてくる○○トンネルの直前、行きがけの駄賃にやっつけた「米の粉の滝」のある駐車場までは浅い山だったが、ここはもう深山幽谷の趣きに満ちている。
 軒を掠めるようにして旧道を暫く行くと、日本の滝100選の1、七ツ滝がある。滝壷に至る遊歩道はなく、木々伝いにロープで降りて行かなければならないようだ。しかし、上から覗き込むだけでもなかなか雄大な滝である。月山の麓を鈎爪で守っているような按配だ。
 これで本日は4本目の滝をやっつけたわけだが、日はすでに西に傾きかけている。2泊3日の行程で3日目にやっと7本というのは如何にもソロバンに合わない。横浜まで辿り着くという行程があるだけにあまり無理も出来ないが、内心の焦りは顔に表れ、滝ヤラレの血は沸々とたぎって、「まだ行ける、まだ行ける」と囁き掛けてくる。えーい、もう一遍蔵王へ行ってみよう!
 こうした場合連れ合いは一挙に警戒の色を強める。うまくいった場合と、失敗に終わった場合の宿六の感情の落差があまりにも激しいからである。本人もそのことは十分自覚していて、気をつけようとは思うのだが、いざその場になると制御が効かない。赤目四十八滝で、自然保護を唱えつつガチガチと環境を改変しておきながら、自然保護基金とやらの金をぼったくられた時には、怒り心頭に発して車中一言も口を利かなかった。やっと怒りが和らいだのが、途中で食べた素うどんが安くて旨かったからであった。単純ではあるが、同乗者はたまったもんではない。
 山形道を通って、いつか来た道(きのうだ)を辿り、東側から蔵王エコーラインに乗った。蔵王山腹は上の方へ行くにしたがって濃い霧に包まれていて、我が心にも霧ぞ降る、といった按配である。どうせ駄目なんだから怒ったってしょうがないよ、と言い聞かせつつ我慢しながら上って行くと、濃霧の彼方に何がなし薄い陽光のようなものが見えるではないか。気持ちが、「もしかして・・」に変わって来た。心の平穏のためには、霧なんぞは濃ければ濃いほどよい。なまじ希望が湧いてくると実現しなかった場合の落胆の度合いが大きく、怒りもまた、増幅してしまうのだ。
 滅多にプレー出来ない超名門ゴルフコースにエントリーできたことがあった。例の田中角栄氏が「マーこのう、総理の田中じゃが、これからプレーを・・・」といったら「どちらのソーリの田中さんですか?」と、追い返されたという伝説のコースである。二ヶ月も前から楽しみにしていたのに、当日、愛媛方面からむらくもが湧いてきて、朝から篠突く雨となってしまった。何と運の悪いこった、と腹が立ったが、雨風が強くなるのに反比例して、諦めで心が安らかになって行くのを覚えたものだ。
 過度の期待を戒めつつ昨日の展望台に立つと、途端に霧が晴れて来たではないか。三階の滝は霧の向こうだったが、既に少し上流の不動ノ滝はクッキリと見え初めている。不動ノ滝をカメラに収めつつ、三階の滝があるべき方向をチラと見ると、滝壷の辺りの霧が晴れ初めているではないか。霧は下流方向に流れつつ、友の霧を引き剥がして道連れにするように、徐々に、徐々に、滝の全姿を表してきた。一瞬、大きく二段に落ちている姿がはっきりと見えた。
 「私たちってついてるのねー」傍らで呟く声がした。
 昨日の大雨で何がついてるのか、ノーテンキな女だな、と再び思ったが、何事も良い方に良い方にと考えるのはオプティミスティックで良いことなのだろう・・・・・具体化して申し述べると、私の機嫌が良くなるのを見越しての、ホッとして思わず出た呟き、というのが真相であろうか。
 ただ、一日を雨で棒に振ったと思うのは、滝ヤラレの論理であって、彼女にしてみれば、青葉城址公園にも行けたし、松島にも、瑞厳寺にも行けたし、滝も一瞬とはいえ見えたのだから、ここで亭主の機嫌が良くなれば万々才で、文句を言えた筋合いではないというわけである。
 三階の滝はまもなく再び濃い霧に包まれ始め、見えなくなった。
 二年後に阿寒湖・摩周湖で全く同じことが起こり、そのときは霧の晴れることはなかった。柳の下にそうそう泥鰌が何匹もいるわけはないのである。
 時計の針は五時を回っていたが、この滝ヤラレ男、突然七ヶ宿の滑津大滝に行って見るなどと言い出した。しかし、8月末とはいえ、蔵王から七ヶ宿の半ばまで行かないうちに、夕闇が迫ってきたので、さすがに向きを変え東北道白石ICに向かわざるを得なかった。
 栗橋を過ぎる辺りで夜空には稲妻が縦横に走り、土砂降りの雨となった。高速の夕立は視界がゼロとなる。そのゼロ視界の中を100km/hくらいで走って行く奴がいるから凄いといおうか何といおうか。
 東京方面は空も黒く、稲妻が何本もの光柱を作っていたが、群馬県の空の一部だけが血のように赤かった。                            [了]