第5回ディベート・アゴラ
論題:地方自治体は中学生以上による住民投票制度を制定すべきである。
*地方自治体とは、日本の市町村を指すこととする。(
*住民投票制度とは、中学生以上の住民の直接請求によって行われるもので、過半数をもって可決とし、結果は法的拘束力を持つものとする。
●住民投票の現状 |
ところで、現在、特定の政策について住民の意向を聞こう、賛否を問うという形の住民投票は、制度としては憲法、地方自治法ともに根拠はない。 そこで、そのような住民の意向を聞く必要がある場合には、通常、それぞれの自治体でまず住民投票条例が制定され、それに基づいて行われるのが一般である。ただ、その場合にも、住民投票の結果は何ら法的拘束力は持つことはない。 このような特定の賛否を問う形の住民投票条例案は、朝日新聞の調査によると、平成一二年一月までに一一八件が本議会に提案されているという。特に一九九五年以降は、公共事業を中心に急増している。 このうち、ほぼ八割が住民の直接請求によるものだが、可決されたのは一○件だけである。直接請求では有権者の過半数を集めながら否決された例もある。神戸市では、九八年、市営空港計画をめぐり、三〇万八四人の署名を集めながら、市議会は実質三日間の審議で否決している。 坂田期雄(西九州大学教授)「住民投票と間接民主制、どう考えるか」『新地方自治の論点106』(自治通信社、2002年)、p. 224 |
●中学生が住民投票に参加(平谷) |
条例案は村が上程。可決された「 提案説明で村側は「村の将来を決める大事な投票であり、将来を担う子どもたちにも参画してもらう。これまでの(小中学生との)勉強会を通じて、中学生以上であれば十分に判断できる問題であり、考えなくてはならない問題であると判断した。来年6月までにさらに学習してもらう」と述べた。 『南信州新聞』2002年12月19日付 |
肯定側立論
プランを説明します。
日本は「住民投票に関する特別措置法」を制定します。プランの細目は以下のとおりです。
1.投票資格者は自治体在住の日本国籍を持つ中学生以上の住民とします。
2.投票資格者数の5%の連署をもって、地方公共団体の長に対し、住民投票の実施を請求することができます。
3.有効投票のうち、賛否いずれかの票が過半数に達したとき、投票結果は地方公共団体の議会を拘束します。
4.2005年4月1日より施行します。
プランから生じるメリットを2つ説明します。
メリット1は「未成年者の学習効果です」
発生過程を説明します。
現代の日本は子供の社会参加を認めておらず、子供たちはコミュニケーション能力を十分に身につけていません。
Rights編『16歳選挙権の実現を!』2002年、p. 13より引用します。引用開始。
「現在の日本は、子ども・若者の自主性、社会性、創造性、自立性を育てる環境に乏しく、子どもを社会の一員として参加させようとする姿勢はほとんど見受けられません。自己の権利を保障され、他者とのコミュニケーション能カを十分に身につけられる環境にないため、「少年犯罪」、「いじめ」、「子どもの自殺」、「キレる17歳」、「荒れる成人式」などが連日のようにマスコミに取り上げられる状況を生み出しています。」引用終了。
現在の住民投票では成年しか投票権をもちません。しかし肯定側のプランを導入すると、中学生以上の未成年が住民投票に参加できるようになり、社会参加が出来るようになります。
重要性を説明します。
中学生以上の未成年が社会参加することによって、自己決定能力を身につけることが出来るようになります。
引き続き同資料p. 13より引用します。
「子ども・若者がその年齢・成長に応じ社会参加をすることは、子ども・若者の成長をうながします。たしかに、子ども・若者は、より長く生きているおとなと比べて知識や経験が乏しく未熟であるというとらえ方もできます。しかし、急速な少子高齢化のもとでは、世代を超えた市民参加が不可欠であり、子ども時代から自己決定能力を身につけ、実践できる機会を保障することが重要です。」引用終了。
メリット2は「民意の反映」です。
発生過程を説明します。
現状の政治では民意が十分反映されていません。議会が民意を無視して行政施策を決めることが多く、有権者は期待を裏切られています。
ジャーナリストの今井一氏は『住民投票』、2000年、pp. 185-186の中で以下のように述べています。引用開始。
「現在の日本では、中央であれ地方であれ、議会が民意を無視して事を運ぶということが日常的に行われている。多くの議員は選挙時の公約を反故にしたり、民意とは逆の行政施策を決めたりすることに何の抵抗も感じていない。」引用終了。
さらに、住民投票が行なわれても、投票結果に法的な拘束力が無いため、住民の意思は無視されています。しかし肯定側のプランを実行すると、住民投票の結果が法的な拘束力を持つため、住民の意思が十分に反映されます。
重要性を説明します。
法的拘束力をもつ住民投票が実行されることによって、民意が確実に反映されます。そして間接民主制の欠陥や弊害が是正されます。
今井一氏は雑誌『世界』1999年1月号、p. 132で以下のように述べています。引用を開始します。
「住民自治・主権在民を謳うなら、重大な案件の決定に関しては議会の意思より主権者の多数意思を尊重するのは当たり前のことで、住民投票によって間接民主制は「否定」されるのではなく、むしろその欠陥や弊害が「是正」されると考えるべきなのです。」引用終了。
以上二つのメリットを生む住民投票制度を導入すべきです。
否定側立論
プランから生じるデメリットを説明します。
デメリットは、「衆愚政治」です。
発生過程を3点説明します。
1.肯定側は中学生以上の未成年者を住民投票に参加させます。しかし、未成年者には政治的な判断力はありません。なぜなら、未成年者は社会性が未熟だからです。
吉田辰雄、東洋大学教授は、『児童期・青年期の心理と生活』、1990年、p. 33の中で以下のように述べています。引用開始。
「社会性の発達とは、円滑な対人関係や社会的活動に能動的・協調的に参加できる社会的適応行動のことをいうが、青年期においては、こうした社会的条件に調和できる思考力、感受性、行動力などの広い意味での社会性が未成熟である。」引用終了。
このように社会性が未熟な未成年者を住民投票に参加させると誤った投票をし、それが衆愚政治につながります。
2.国民には個別の政策を決定する能力はありません。
国民は政策の総合的批判者ではありえても、個別の政策を決定する能力はありません。
原田尚彦、東京大学名誉教授は、『地方自治の法と仕組み 全訂三版』2002年、p. 265の中で以下のように述べています。引用開始。
「〔前略〕複雑多面化した現代社会においては、国民(フツーの市民)は政策の総合的批判者ではありえても、一貫性・展望性をもって個別の政策を企画・立案・決定する余裕や能力をもっていない。住民参加によって官僚機構に新風を吹き込み、政策論議を実り多きものとすることは、もとより大切であるが、安心して住める地域社会を形成する権限と責任は、長と議会そしてそれを支える職員に託されているとみるほかはない。」引用終了。
3.法的拘束力により、衆愚政治が確実に起こります。
現在は住民投票の結果に法的拘束力が無いため、誤った住民投票の結果が出ても、議会がこれを否決することが出来ます。しかし法的拘束力を与えてしまうと、投票結果がそのまま制定されてしまいます。誤った投票結果が出てしまうと、確実に、衆愚政治となってしまいます。
深刻性を2点説明します。
1.国政の混乱です。
国政レベルの問題、例えばエネルギー問題や産廃問題などが住民投票にかけられ、その結果が法的拘束力を持ってしまうと、国政が混乱し、立ち行かなくなってしまいます。
坂田期雄(ときお)、東洋大学教授は、『地方自治の論点101』、1998年で、p. 188次のように述べています。引用開始。
「例えば基地を持つ全国の自治体がその可否を相次いで住民投票に問うたらどうなるのか。いたずらに混乱を増すだけで、何ら問題の解決にはならない。また、原発建設もその地域の人たちの住民投票だけによって決するとなると、国のエネルギー政策は立ちいかなくなろう。」引用終了。
2.少数者抑圧です。
住民投票には多数者が少数者を抑圧するための手段になってしまう可能性があります。投票結果が法的拘束力を持つと、少数者を抑圧する政策が簡単に実行されてしまいます。
ジャーナリストの今井一氏は『住民投票』、2000年、pp. 192-193の中で次のように述べます。引用開始。
「ときおり、各地の住民から私のところに「住民投票をやりたいので協力してほしい」という要請があるのだが、その中には「痴呆老人を含む要介護者の施設」や「知的障害者の施設」が近所に建設されるのを阻みたいというものがある。〔中略〕もし、多くの住民が自分のことだけではなく、他者への思いやりを持ちながら、社会全体の利益を考慮して一票を投ずるというのであれば、基本的にどんなテーマを住民投票にかけても問題はないのだが、その高みに達していなかった場合には、多数者が少数者を抑圧するための手段になってしまう可能性が多分にある。」引用終了。
このようなデメリットを生む住民投票制度は導入すべきではありません。
反駁用証拠資料
●Rights編『16歳選挙権の実現を!』(現代人文社、2002年)、p. 10
未成年者に対して選挙権・被選挙権を保障すべきでないとする大きな理由として、未成年者は政治的知識に乏しく社会経験が不十分なために政治的判断力が未熟で、公正かつ適切な投票行動および選挙活動ができないということが主張されています。こういった意見が多いことは1971年に行われた自治省の「政治意識に関する世論調査」(●資料1本書12頁)でも示されていますが、その理由に説得力はあるのでしょうか。
現代はテレビ・ラジ才・新聞・インターネットといったメディアから多くの情報が発信されており、未成年者が得る情報は成年者と比べても大差はなく、政治的知識を得ることは十分可能です。つまり未成年者というだけで、一概に政治的知識が乏しいとはいえません。
●柳川喜朗(やながわよしろう、
住民投票は衆愚政治につながるという批判がある。知識も判断力もない大衆に問うても、まともな結果がでないというのである。
たしかに、知らしむべからずよらしむべし、の状況のもとで住民投票をやれば、正当な結果にはならないだろう。しかし、積極的に情報を提示し判断材料を提供すれば、大方の住民はバランス感覚ある判断を下すものである。実感として、御嵩では住民投票は衆愚政治ではないことが実証された。
●ダグラス・ラミス(津田塾大学教授)「住民投票は民主主義の学校」『世界』1999年1月号、p. 119
住民運動はエゴイズムに陥る可能性はあると思いますが、それも考え方、見方によると思います。たとえば「この町に原発は置いてほしくない」という発想の中には、実はすでに普遍的な価値が入っている。つまり、「この町に置いてほしくない」ということは、「どこにも置くべきではない、つくるべきではない」という発想につながっていきうるのです。地域の人たちが世界中を代表することはできないので、とにかくここにはつくるなと言う。そしてほかのところで同じことをやればついには置くところがなくなって、原発という選択は諦めるしかなくなる。それがいちばん望ましい結果だと思います。沖縄だって米軍基地は、「ここならいい」ではなくて、「どこでもだめ」につながっていきうると思うのです。
●今井一(いまいはじめ、ジャーナリスト)『住民投票』(岩波新書、2000年)、p. 193-194
名護の市民投票はそういった問題をはらんでいた。米軍のヘリ基地が建設されて危険が増したり海が汚されるのは、
実際、名護の市民投票では「(振興策を受けるためには)東の人に泣いてもらうしかない」と考えて投票した西の人も大勢いたが、それ以上に「東の人たちを泣かせてまで、金を手に入れたくない」「金より命、金より平和」だと考えた人がいたということで、名護においては住民投票が少数者抑圧の道具にはならなかった。
しかし、社会的弱者や少数者に対する抑圧の恐れは常につきまとう。民主主義の本質は多数決ではなく、「ヒューマニズムの確保」である。したがって、住民投票を実施さえすれば民主主義を実現できるという考えは幻想でしかない。間接民主制において議員が時として民主主義を損なうように、直接民主制においても市民が過ちを犯す可能性は当然ある。
つまり「地域エゴ」にしろ「少数者抑圧」にしろ、それをもたらすかどうかは、結局、市民次第なのだ。
●八木秀次(やぎひでつぐ、高崎経済大学助教授)『論戦布告 日本をどうする』(徳間書店、1999年)、p. 188
しかしながらこれについては大衆社会論の研究成果を持ち出すまでもなく明らかである。人類の歴史の教えるところは、大衆は気まぐれで目先の利益や自己の利益のみを追求する傾向にあり、政策の総合的批判者にはなりえても、一貫性・展望性をもって個別の政策を企画・立案する余裕も能力も持ちえないということである。間接民主主義は直接民主主義に対する懐疑の上に成り立っているといわれる所以である。
●大山礼子(聖学院大学教授)『住民投票』(ぎょうせい、1999年)、p. 113
住民投票の実施状況をみると、住民投票が果たしてテクノクラシーの排除に効果をもつのかどうかは疑問だ。とりわけ行政主導の住民投票の場合は、議会の関与を排除することによって、むしろテクノクラシーの強化につながる可能性すらある。
●坂田期雄(さかたときお、東洋大学教授)「住民投票とその限界」『地方自治の論点101』(時事通信社、1998年)、p. 188-189
まず、第一は、住民投票には、これに適しているものと適さないものとがあるということである。それぞれの地域で完結する問題、その地域の住民投票で決着が図れるもの―例えば市町村の合併問題などならばよいが、その地域内で完結しない、他の地域にも影響が及ぶもの、国政レベルのものなどについては、自治体の住民投票で取り上げるべきではない。
例えば基地を持つ全国の自治体がその可否を相次いで住民投票に問うたらどうなるのか。いたずらに混乱を増すだけで、何ら問題の解決にはならない。また、原発建設もその地域の人たちの住民投票だけによって決するとなると、国のエネルギー政策は立ちいかなくなろう。
この点、廃棄物問題はどうであろうか。原発が国のエネルギー政策と直接結びついた問題であったのと異なり、これは制度上は地方自治体レベルの問題(産業廃棄物は都道府県、一般廃棄物は市町村の事務)といえる。しかし今日、多くの自治体ではもはや廃棄物の適当な処分場がなく、全国的に相当広域の範囲にわたって業者を介して移送、処分を行い、各地で問題が生じてきている。このような状況の中で、廃棄物処理はもはや個々の自治体では完結できない問題となってきている。
したがって、個々の自治体ごとに受け入れの賛否について住民投票が行われるとなると、全国的に大変な混乱を生ずるだけでなく、事態の根本的な解決には何ら役立たない。これはどうしても、ひろく国、県に責任のある問題として取り組まれることが求められてきているといえよう。
●舛添要一(ますぞえよういち、国際政治学者)「巻原発「住民投票」は駄々っ子の甘えである」『諸君!』1996年10月号、p. 68
町民によって正当に選挙された町議会が、そして町民が直接選挙によって選んだ町長が決定したことには、たとえそれに反対であっても従うのが民主主義のルールというものである。その手続きが住民投票によって無視されるとすれば、それこそ