死刑制度肯定側証拠資料

以下の参考資料をディベートで使用する場合は、必ず原本にあたって、確認して使用してください。

●死刑が冤罪を作る(偽証)

 

島田荘司(しまだそうじ)、作家、「秋好事件」徳間書店、1999年、pp. 1011-1012

 

これらの点から、誰という特定は控えるが、共犯者の存在を筆者は強く感じる。なかなか頭脳明晰な人物であったため、彼の手強さに対して法廷が自動的に防御し機械的に反対側の結論に傾いた心理的傾向を、感じずにはすまない。これらに先述したような昭和型日本人の厳罰主義を重ねて考える時、鍋とその蓋のようにこれと呼応し合う「死刑」という厳罰についても、終始考えることになった。秋好事件発生当時の日本に、もし「死刑」が存在しなかったなら、自殺に失敗したのちの英明が、死刑によって自殺を完成しようと発想することはなかった。そうなると彼が虚偽の証言をする必要性は後退するから、裁判の流れも大きく変わった可能性がある。もしいたとするならであるが、共犯者には死刑はどう影響したか。国家によって殺される恐怖が、この人物をして、あらゆる主義主張や自我、誇りや人格までをも放棄させ、救かりたいがため、どんな卑劣な演技をも法廷で行う「自動人形」にした可能性は高い。

こう考える時、死刑が冤罪者を殺すという危険の以前に、死刑そのものが冤罪者を作り出す危険があることに気づく。秋好裁判は、死刑がなければ、もう少し事実を論議する実のあるものとなったはずである。この法廷は、事件関係者が一人ずつやってきては、おのおのの昭和型道徳心を建前通りに表明して見せる場に近づいてしまった。事件の発生にも、そしてこれを裁く裁判の失速にも、当時の日本人の強烈な行儀主義と、これを徹底要求した国策が陰を落としている。この法廷自体、あのまま進行すれば「昭和日本」を裁きかねない性質がなかったであろうか。そして死刑制度そのものに対する警鐘が、この裁判の間中鳴り響いているのを、読者は聞かれないであろうか。

 

 

●死刑が冤罪を作る(取調べ)

 

島田荘司(しまだそうじ)、作家、錦織淳(にしこおりあつし)弁護士、「死刑の遺伝子」、南雲堂、1998年、pp. 150-151

島田氏の発言

 

なかなか落ちない被疑者に村しては、「近ごろは自由心証主義といって、裁判官が証拠を離れて罪状を決められる、だから裁判官の心証さえよくすれば刑が軽くなる。オレが裁判官に、お前が絶対に死刑にならないように言ってやるが、自白しないと死刑なんだぞ」とさんざん言うそうです。そこで自白すれば死刑、黙っていれば死刑にならない、といった現実が、被疑者の頭の中でだんだんに逆転していくんです。弁護士なら別ですが、一般の人間は普通こういうことは知りませんので、肉体的な疲労と一緒になって、こういうトリックに簡単にひっかかるんです。自由心証主義について、読者のために少し説明しておきたいと思うんですが、かつては法定証拠主義という考え方があって、自白がなければ裁判官は有罪を宣告できないという原則がありました。しかしそれでは拷問が横行するので、自白なしでも裁判にかけられるようになり、有罪が宣告できるようになったわけです。これを自由心証主義と称します。

つまり拷問を活用して自白を取らなければいけない時代は終わったのですが、警察官の方はそうした意識の転換が充分できていなくて、職人芸を発揮して、とにかく自白だけを取ってしまおうと考える習性が残っているわけです。

 

 

島田荘司(しまだそうじ)、作家、錦織淳(にしこおりあつし)弁護士、「死刑の遺伝子」、南雲堂、1998年、pp. 152-153

錦織氏の発言

 

確かに、かなり重い事件の場合は死刑というものの威嚇によって自白させることがしばしば行われているようです。虚偽の自白、つまり、自分はそうした犯罪をやっていないという確信を持っているにも関わらず、結果として自由調書をつくってしまったという場合に、なぜそうなるのかと言うと、自白したほうが得だと価値観が転倒する瞭問があるからです。その価値観の転倒が行われたときに、本来認めるはずのない罪を認めてしまうんですね。常識的に考えると、やってもいないことを何でやったと自白するのか、やったからやったと言うのであって、自分がやっていないものをやったなどと自分の不利になるようなことを人間が認めるはずがない。自分が不利になることを認めるということは、やっぱり本当にやったからなんだと考えがちです。しかし、私がいろいろな事件で経験してわかったことは、自分がやっていなくてもやったと認

める場合もあるということであって、そのほうが自分にとって、よりよい結果がもたらされると考えるからなんです。その場合はいくつかのパターンがあります。認めてしまったほうがよりいい結果が得られる場合としては、たとえば拷問による自白があります。拷問による自白はいけないということはだれでも常識として知っていますから、そこまではみんな理解できます。ところが、肉体的な拷問がなくても認めてしまう場合があるんです。つまり、先ほど述べたように、認めることと認めないこととどちらが得かよく考えてごらんと言われるわけですね。自分はやっていないのだからやっていないと言って、認めないほうが有利だと思っていても、そのうちに取調官のあの手この手の手練手管で、認めたほうが得ではないかとだんだん思わされてくるんです。そうなると、認めなければ死刑、認めれば裁判官の温情で悔悟の念をくんで刑が軽くなるという選択肢が与えられると、どちらかを取らざるを得ないところに追い込まれて、認めたほうが有利だということになっていく。

 

 

●再審無罪は事件の知名度が必要

 

島田荘司(しまだそうじ)、作家、「季刊 島田荘司 2000 Spring」原書房、2000年、p. 259

 

司法判断の逆転をめざす時、われわれは言い逃れのできない新証拠や論理を司法に突きつければ、これが実現できるように考えがちですが、これだけの仕事ではまだ半分にすぎません。むろん言い逃れのできる状態で判決破棄を請求しても言い逃れをされるだけですが、どれほどのものを突きつけても、必ず言い逃れはなされます。司法の誤りというのは、これはあってはならないことですから、誤りを認めないことは秩序維持上の正義と発想されます。ですから確定判決の維持は、これは最初から先行固定された結論なのです。過去「徳島ラジオ商殺し」の再審無罪とか、「三浦事件」の逆転がなかなかうまく行ったのは、むろん新証拠や新論理が功を奏した結果ではありますが、それ以上に実態は、この両事件が有名になってしまい、内実が世間に露呈して無罪を隠しきれなくなったから、という理由の方が大きいです。これに加え、以前の判事や検事が亡くなったり退職して、彼らの面子を最低限守れる目算がたったこと、無罪判決を出す判事の退職の決意と、再就職先のめどがたったという幸運などです。過去「秋好事件」の審理が不充分に終わっているのは、この事実の知名度が今ひとつであったゆえも大きいというべきでしょう。

 

 

●部分冤罪

 

村野薫編著(むらのかおる)、フリーランス、「日本の死刑」拓殖書房、1992年、p. 138

 

が、問題はそれだけではすまないのである。もし仮りに、処刑された死刑囚が”ただの殺人”でしかなかったら、あるいは”主犯”ではなかったら、彼らとて死刑にならなかった可能性は大きいのだ。また恩赦の機会でもあるなら、真っ先に減刑の対象になることさえ考えられる。となれば、明らかにこれは誤判・誤殺なのである。しかし、ひんぱんに再審を認めていたのでは三審制の原則が崩れてしまう、再審はあくまで厳しく、というのが法務省の変わらぬ姿勢であり、いわゆる”真っシロ”冤罪でさえ、再審開始は千載一遇の状況なのである。当然、こうした”細事”などに目が向けられる状況にはなっていない。ならば、真実をどこで救済するのか。

 

 

アムネスティ・インターナショナル編著、「死刑と人権」解放出版社、1999年、p. 35

 

再審や恩赦を求めて請求を続けている死刑囚は現在でも多くいます。そして意外に見落とされやすいのが、そのなかに部分的な冤罪を訴えている人が何人もいることです。これは「判決では計画性のある殺人と認定されているが、実際には激情に駆られ思わず犯してしまった事件である」など、判決の事実認定の一部に誤りがあると訴えているものです。日弁連の人権擁護委員会が支援をしているO死刑囚は、殺人については認めていますが、放火により証拠の隠滅をはかったという事実はないと再審で争っています。また強盗殺人で死刑判決を受けたY死刑囚は、最初から殺人を犯す目的で凶器のバットを用意したという裁判所の事実認定に対し、バットは被害者の一人がY死刑囚の息子の祝い品として持参したものであること、殺人も計画的ではなく喧嘩がエスカレートした結果であること、さらには被害者から小切手を奪ったという「強盗」の事実もないことなどを訴えています。これらの訴えが事実とすれば、死刑判決ではなく無期または有期の懲役刑を下された可能性が強いと考えられており、この「部分冤罪」の問題も見過ごすことのできない大きな問題です。

 

 

●冤罪の実例

 

「死刑と情報公開(年報・死刑廃止99)」、インパクト出版会、1999年、p. 100

安田好弘(フォーラム90)、「6月25日執行の経過 ●98年6月死刑執行抗議集会での発言から」

 

1998年)六月二五日、東京拘置所で島津新治さん(六六歳)、福岡拘置支所で村武正博さん(五四歳、午前八時五〇分)、武安幸久さん(六六歳、午前九時三〇分)に、死刑が執行されました。一九九三年三月二六日、死刑執行が再開されてから、これで二八名の人が処刑されたことになわります。島津新治さんは、無期懲役の仮釈放中に強盗殺人を犯したということで、一九八四年一月二三日、東京地裁で死刑判決を受け、控訴しましたが、一九八五年七月八日東京高裁で控訴を棄却され、一九九一年二月五日最高裁で上告を棄却されて死刑が確定していました。村武正博さんは、一九八三年三月三〇日、長崎地裁佐世保支部で強盗殺人及び殺人で無期懲役判決を受けたものの、検察官の控訴により一九八五年一〇月一八日、福岡高裁で逆転死刑判決を受け、上告するも、一九九〇年四月二七日、上告を棄却されて死刑が確定していました。村武さんの場合は、強盗の故意があったかどうか大いに疑問のあるケースであったうえ、一審で情状を酌んで無期懲役となったにもかかわらず、高裁で逆転死刑判決を受けたものであって、事実面においてもまた量刑面においても、誤判の疑いのあるケースでした。武安幸久さんについては、接触ができず、詳しいことは分かりませんが、無期懲役の仮釈放中に強盗殺人を犯したとして、一九八六年一二月二日、福岡高裁で一審の死刑判決の控訴を棄却され、一九九〇年一二月一四日、最高裁で上告を棄却されて死刑が確定していました。

 

 

「死刑と情報公開(年報・死刑廃止99)」、インパクト出版会、1999年、pp. 223-243の表より

現在の死刑確定囚数            49人
  その内再審請求している人数      21人
    その内無罪を訴えている人数    7人
    部分冤罪             14人
1993年3月26日以降死刑になった人    34人
    その内再審請求を出していた人   6人

 

 

●誤判は起こる

 

島田荘司(しまだそうじ)、作家、錦織淳(にしこおりあつし)弁護士、「死刑の遺伝子」、南雲堂、1998年、p. 112

錦織氏の発言

 

ですから死刑制度との関係でも、結局、死刑制度をどう見るかというときに、一つの最初の切り口はいわゆる誤判の可能性ですね。裁判というのが誤る可能性があるということです。つまりそもそも裁判制度そのものが、裁判が誤るということを前提にして組み立てられた制度なんだという、そこから出発しなければいけない。つまり間違いが起きるはずがないというふうに、割と日本人というのは考えがちですから。そういうのは論理的におかしいわけです。どういうふうにおかしいかと言うと、間違いを犯すからこそ裁判を三審判にしたり、検察官と弁護士を戦わせたり、証拠に基づいてのみ判断せょと言ってみたり、いろんなルールをつくって、いかに間違いを滅らすかということだけであって、それは本質的に間違いが起きるものなんだと。絶対ということはあり得ない。だから制度とシステム、それによってできるだけ間違いを減らそうという試みは、あえて言いますとはかない努力なんであって、しよせん神に変わって事実認定したり、裁いたりすることはできないんだという、そこのところをしっかりわかってないと、この制度はもう何百年の歴史があるから、絶対的に正しいものだとか、そういうふうに思ってはいけないわけで、人間の英知の、限界というものに恐れおののくならば、そう簡単に真実は何かというようなことは言えないはずだという、そういう感覚から考えますと、やはり誤判ということはこれから永遠にあり得るんです。

 

 

島田荘司(しまだそうじ)、作家、錦織淳(にしこおりあつし)弁護士、「死刑の遺伝子」、南雲堂、1998年、pp. 315-316

錦織氏の発言

 

確かに死刑の存廃と誤判防止はまるで違う概念であって、形式論的に言えばそのとおりです。しかし、今の議論を立てた方には、まず誤判はあってはならないという意識がそこにあると思います。素晴らしい司法制度、裁判制度を作っていく限り誤判はなくなるという気持ちがあるのではないでしょうか。人間の英知によって誤った裁判、誤判をなくせるはずであるという前提を、はっきりはおっしゃらないけれども、立てていらっしゃるのではないかと思います。しかし、実はそうした前提にわれわれは立てないのです。その実例があるわけで、現実に誤った裁判があったわけです。それも死刑判決が確定した事件で、誤判があったという実例を持っています。しかし今の論者は、そうした実例が、それはたま

たま歴史的な要因によったと言うかもしれません。当時の時代的な背景からいろいろな意味で十分な捜査が行われなかったとか、十分な弁護が行われなかった、十分の審理、裁判が行われなかったという不幸の結果、そうしたことが起きたのだと言われると思います。しかし、文明制度としての裁判制度が発達していけばそうしたことはなくなるはずであり、歴史的な制約のもとでこうした誤判がなされたのであると考えれば、その繰り返しの可能性は限りなく小さくなると考えるという反論が出てくるかもしれません。しかし、私はそうも思えないのです。実は、私自身が体験したごくごく最近の事件で、そうしたことをみずから体験しています。誤判の要因は普遍性のあるシステム、あるいは普遍性のある要因であって、誤判の起きやすい要因が現在の捜査、裁判、弁護のなかに付きまとっているという認識があります。したがって、決して歴史的に過渡的な時代だから起さた間違いではないと言えるのです。もっと突き詰めていけば、裁判は過ちを前提にしていると極論してもいいと思います。つまり、裁判は誤ることがあり得る、間違いを犯すことがあり得るという前提に立っている、あるいは真実とは本質的に発見しがたいものであるという前提に立っていると思います。

 

 

島田荘司(しまだそうじ)、作家、錦織淳(にしこおりあつし)弁護士、「死刑の遺伝子」、南雲堂、1998年、pp. 318-319

錦織氏の発言

 

もう一つさらに具体的な例を挙げるならば、刑事裁判でも民事裁判でも再審制度が認められています。本来なら再審などあってはならないものです。つまり、一審、二審、三審まで繰り返し、場合によっては差し戻しがあれば四回も五回も裁判所の判断を仰ぐ。そのようにまでして確定されたものに対して、再審請求の通が開かれているということは、何を意味するのでしょうか。例外中の例外ではあっても、それがあるということで刑事訴訟法ができているのです。そう考えると、誤判、過ちは当然の前提とされるべきであると考えるべきです。そしてどう裁判制度をよくしようと、健全な司法制度をつくろうと、文明的な司法制度を作ろうとしてみたところで、これはなくならない問題なのです。そこをはっきりさせておかないと、今のような一見もっともな議論が出てくるわけです。もしそうだとすれば、その例外中の例外のチャンスを奪ってしまって、例外中の例外である誤判が起きたということが、例外中の例外の極刑である死刑に対して問題になるという、このどちらにわれわれは重きを置くべきなのか。そう考えると、誤判の問穎は死刑制度を存続するかどう

かということにとって、決定的に重要な問題であると思います。

 

 

●量刑の基準はあいまい

 

島田荘司(しまだそうじ)、作家、錦織淳(にしこおりあつし)弁護士、「死刑の遺伝子」、南雲堂、1998年、p. 217

錦織氏の発言

 

過去に出された死刑判決と無期判決をすべて拾い上げて、それらの事件の特徴を吟味し比較検討していった場合、刑としては万里の長城ほど差の大きいものであっても、実際に量刑の基準として見ていくとたいへん凝問なのです。量刑の基準については起訴・不起訴の判断基準について示した刑事訴訟法二四八条しか手掛かりがないはずです。そこではいくつかの量刑因子についてのヒントが述べられてはいるものの、実際の事件に当てはめていった場合にはあまりにも常識的すぎて、現実の量刑を選択するものとしては抽象的すぎるものです。そう考えると、無期懲役刑と死刑との量刑基準は必ずしもきちんと線引きできないのです。そうなると当然、死刑そのものの妥当性が疑問になってきます。

 

 

●死刑に抑止力ない

 

宮本倫好(みやもとのりよし)、文教大学国際学部教授、「死刑の大国アメリカ」亜紀書房、1998年、pp. 16-17

 

死刑制度が現実に、凶悪犯罪に対しどれだけ抑止効果を発揮しているかの証明は、実は非常に困難だ。たとえばノースカロライナ大学のステファン・レイソン教授は「一人死刑にするごとに

平均十八件の殺人が抑止されている。死刑宣告を一%増やすと、一〇五件の殺人が予防される」と発表しているが、これとても大きな異論がある。たとえば、死刑実施州の方が廃止州より凶悪犯が少ないとはいえない。それどころか、高い殺人率を持つ二〇州のうち一八州が死刑を実施している。殺人の多い二〇市のうち一七市は死刑実施州にある。また、死刑復活後一〇年間で、死刑を実施している州では死刑廃止州より、警官殺しが二倍だった。だから、全米の死刑執行数の半分を占めるテキサス州ハリス郡のマイロン・ラブ判事は「死刑は抑止効果を持つどころか、殺人事件は逆に増えている」と嘆いている。

 カナダは死刑廃止前年の一九七五年をピークに、犯罪は減り続けている。また、死刑を廃止しその後復活した州の殺人率が、廃止中と復活後は直接関係がなかったというソーステン・セリンの有名な研究がある。第一、凶悪犯罪が最も多いアメリカのスラムの黒人男性にとっては、今日を生きるのが精一杯で、明日以降のことには恐怖も関心もなく、投獄や死刑制度が犯罪の抑止につながる可能性は低い、という指摘がある。以前の映画のタイトルではないが、『俺たちに明日はない』連中に、人間性の尊重も恐怖による抑止も無関係というのだ。

 イギリス、オランダとスウェーデンなどの研究でも、死刑の犯罪抑止力を肯定する結果が出ていないという。一方、抑止効果を肯定する研究も種々あるが、その反論もまた多い。国連が六二年に発表した死刑の犯罪抑止力に関する初のレポートでは、「死刑廃止が特定の犯罪の顕著な増加につながるという証拠はまったくない」と断定している。

 

 

●アメリカと日本の情況は違う(アメリカの例は日本には当てはまらない)

 

宮本倫好(みやもとのりよし)、文教大学国際学部教授、「死刑の大国アメリカ」亜紀書房、1998年、p. 224

 

しかし、両国が死刑制度を共通に維持しているといっても、その固有の条件は非常に違う。たとえば、犯罪の発生率。日本は世界で有数の安全な国であり、アメリカは近年、殺人が減ったとはいえ、年間二万件に近い。率にして日本の一〇倍近くで、およそ文明国にはふさわしくない高い犯罪率といえる。この犯罪を力で抑え込み、「腐ったリンゴは社会から永久に取り除く」という発想が死刑制度維持の最大の誘因であり、したがって犯罪者の矯正、立ち直りに力を注ぐ、あるいは貧困といった社会的要因除去にまず努力する、という発想は比較的少ない。

 

 

●世論調査はあてにならない

 

朝日新聞死刑制度取材班、「死刑執行」、朝日新聞社、1993年、p. 147

座談会「死刑廃止の流れ どう受け止める」中の、ロベール・バダンテール(フランスが81年に死刑を廃止した時の法務大臣)の発言

 

世論が死刑を廃止しにくい理由は単純です。市民は、自分が死刑になるとは考えないものです。ただ、殺人の犠牲者になる可能性はだれにでもある。強盗に遭ったり、道でギャングに殺されるようなことはあり得ます。だから、犠牲者側から考えて、死刑を維持する考えになるのです。また、例えば誘拐で幼女が殺されたような時に世論調査が行われると、死刑に賛成という結果が出ます。

 

 

●世論調査と民主主義とは違う

 

朝日新聞死刑制度取材班、「死刑執行」、朝日新聞社、1993年、p. 148

座談会「死刑廃止の流れ どう受け止める」中の、ロベール・バダンテール(フランスが81年に死刑を廃止した時の法務大臣)の発言

 

もうひとつ、民主主義と世論調査を混同してはいけない。民主主義は世論に追従することではありません。市民の意思を尊重することです。国会議員たちは、自分たちの政治的見解をはっきりと打ち出し、選出されたうえで突き進むことが必要です。逆に、自分の政治的見解を世論に追従させるのは、デモクラシーではなくて、デマゴジーです。

 

 

●再審は、最近難しくなっている

 

「死刑と情報公開(年報・死刑廃止99)」、インパクト出版会、1999年、p. 36

「死刑制度にとって情報公開とは」中の石塚伸一(弁護士)の発言

 

それと、袴田さんの問題との関係では、最近の再審の問題があって、八〇年の前半の頃と比べると、このところ再審について厳しくなってることは事実です。袴田さんの事件だけじゃなくて日産サニー事件もそうですけれど、そう簡単に再審が始まらないという裁判所の状況がある。それが再審請求している人たちの心理を追いつめている。あの頃はやはり免田さんの事件があって真実を言い続ければ、釈放されるかもしれない。無罪が証明できるかもしれない、という希望があったわけですけれども、それから一五、六年経つわけですから、その中でだんだんあの四つの死刑冤罪事件についての経験というのが私たちの中で風化してきてるんじゃないかという心配があります。

 

 

●再審は実質上不可能

 

「死刑と情報公開(年報・死刑廃止99)」、インパクト出版会、1999年、p. 98

「国連規約人権委員会へのNGOレポート」市民的及び政治的人権に関する国際規約に関する第4回政府報告書に対するNGOレポート −第6条について−

 

日本では刑確定後にあっても誤った判決に対して裁判所に再審請求を申し立てることができる。しかし、再審請求理由は、著しく制限され、無罪あるいは免訴、刑の免除あるいは軽い罪を認めるべき明らかな証拠が存在し、しかもそれが新たに発見された場合等に限定されており、再審請求を実質上不能ならしめている。また、再審請求手続においても、再審を開始するか否かの審査手続に関する規定がなく、裁判所の数量に基づく非公開の調査の下にその可否が判断され、請求人あるいはその弁護人には、裁判所に出頭して意見を述べたり、捜査機関に証拠の開示を求めたり、証人を召喚して尋問したり、鑑定を求めたりする手続や権利が保障されておらず、裁判所をして再審を開始させることが著しく困難となっている。さらに、再審請求について、既に指摘したとおり、国選弁護制度が存在せず、仮に弁護人を選任できたとしても著しく接見交通を制限されており、弁護人の十分な弁護を受けることができない状況にある。

 

 

●イギリス、カナダも死刑を廃止していない

 

「死刑と情報公開(年報・死刑廃止99)」、インパクト出版会、1999年、p. 204

「国会での議論」死刑の必要性、情報公開などに関する第3回質問主意書

 

イギリスにおいては、反逆罪、殺意をもった暴行等を伴う海賊の罪及び一定の軍法上の罪について死刑を定めていると承知している。また、カナダにおいては、一定の軍紀犯罪、スパイ罪及び反乱の罪について死刑を定めていると承知している。これらの罪に当たる行為の中には、我が国における外患援助、殺人等の罪に当たるものがあると考えている。

 

 

●再犯は少ない

 

辻本義男(つじもとよしお)、中央学院大学法学部教授・辻本衣佐(つじもといさ)、明治大学大学院法学研究科博士後期課程、「アジアの死刑」、成文堂、1993年、p. 5

 

能力剥奪(排外)の議論に関しては、殺人で有罪とされた囚人は累犯が少ないということが明らかにされた。イギリスで終身刑を宣告され、1960年代から1970年代にかけて仮出獄を認められて釈放された239人の男性についての研究によれば、殺人で有罪とされた192人の男性の中で、釈放後再び殺人を犯したのは2人にすぎなかった。この結果を詳細に調べてみると、該当者を釈放するという決定に関して、あるいはその後の監視のいずれかにおいて判断の誤りがあった可能性が明らかになった。対照的に、釈放された大部分の者は、「全くうまく社会に復帰し」ていたのである。

 

 

●再犯の恐れはない

 

辻本義男(つじもとよしお)、中央学院大学法学部教授・辻本衣佐(つじもといさ)、明治大学大学院法学研究科博士後期課程、「アジアの死刑」、成文堂、1993年、p. 29

 

(Eについては、)死刑存置論者はしばしば、死刑は有罪とされた殺人者のその後の犯罪から社会を守る唯一の確実な方法であるという。すなわち、死刑は究極的な「特別の抑止」であるという主張である。そして死刑廃止論者は、犯罪を繰り返すおそれのある者に「殺しのライセンス」を与えることであり、凶悪な犯罪で有罪を宣告された者が生き延びることを容認し、仮釈放の機会さえも与える受入れ難いリスクをあえて主張していると非難する。しかし、これらの懸念は根拠のないことであることを示す証拠が多くある。仮釈放された殺人者は他のどの犯罪者より社会に対するリスクは少ない。数多くの研究がこのリスクを検証したが、その結果は常に同一であった。このことは殺人犯は通常一片の憐れみも感じない職業的犯人ではなく、むしろ精神的緊張などの刺激が加わった場合に生体が示す異常な状況下で行為した者であるということを思い出させる。交通犯罪を犯した者や財産犯が仮釈放の後もしばしば何らかの犯罪を繰り返すことがあるが、そのような者を再犯防止のために処刑すべきであると主張する者はいない。矯正困難で、刑務官や他の収容者にもっとも脅威をあたえるのが死刑囚であると考えられ、また、柊身刑に服している者は、独居拘禁、遅い仮釈放、そして特権の喪失と否定的な動機が多くみられるにもかかわらず、他の刑に服している受刑者よりも矯正施設における行状もよく、刑務事故は滅多になく、刑務所内での殺人は皆無である。さらに、処刑は社会復帰の可能性を否定する。再犯のおそれ(殺人の場合には正当化されないものであるが)は、償いのできる可能性がある者の社会復帰の機会を否定する以外のなにものでもないのである。

 

 

●死刑は残虐な刑罰

 

アムネスティ・インターナショナル日本支部編、「死刑廃止(アムネスティ人権報告書8)」、明石書店、1999年、p. 23

 

「残虐な刑罰」の判断基準を国民意識に求めることは、理論的にも問題がある。残虐な刑罰が禁止されるのは、それが不当に人権を侵害し、人間の尊厳を害するからである。死刑の合憲性の問題は、人権の問題なのである。人権は、多数者から少数者を守ることに眼目がある。多数の意思によっても奪えないのが、人権である。死刑の合憲性という人権の問題を国民意識や世論という多数の意思によって判断するのは、妥当でない。死刑が「残虐な刑罰」にあたるか否かは、人権の法理によって決められるべき問題である。

 

 

●死刑囚は拘禁ノイローゼになる

 

加賀乙彦(かがおとひこ)、精神科医・作家、「死刑囚の記録」、中央公論社、1997年、pp. 210-211

 

まず言えることは、重罪被告には拘禁ノイローゼになっている人が多いことである。私が拘置所で勤めていた全期間に、診た患者の数から割り出してみると、拘禁ノイローゼをおこした率は、一般の被告では〇・八七%(約百人に一人)、一般の受刑者では〇・一六%(約六百人に一人)であ

るのに、重罪被告では五〇%(半数)であった。二人重罪被告がいればすくなくとも一人はノイローゼになっているというのは驚くべき事実であって、私が精神医として、つねにゼロ番区に呼びだされ治療にあたったのも当然であったということになる。死刑確定者では三六%、無期受刑者では四一%である。いずれにしても一般の被告や受刑者にくらべて、極端にノイローゼが多い事実が認められる。

 

 

●死刑は残虐(精神的苦痛)

 

加賀乙彦(かがおとひこ)、精神科医・作家、「死刑囚の記録」、中央公論社、1997年、pp. 230-231

 

死刑が残虐な刑罰ではないという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。

たとえば一九四八年三月十二日の最高裁判所大法廷の、例の「生命は貴重である。一人の生命は全地球より重い」と大上段に振りあげた判決ほ、「その執行の方法などがその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬ」として、絞首刑は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」などとちがうから、残虐ではないと結論している。すなわち、絞首の方法だけにしか注目していない。また、一九五九年十一月二十五日の古畑種基鑑定は、絞首刑は、頸をしめられたとき直ちに意識を失っていると思われるので苦痛を感じないと推定している。これは苦痛がない以上、残虐な刑罰ではないという論旨へと発展する結論であった。しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。

 

 

●再審請求している死刑囚いる

 

菊田幸一(きくたこういち)、明治大学法学部教授、「いま、なぜ死刑廃止か」、丸善ライブラリー、1994年、pp. 13-15

 

一九九四年一〇月現在、確定死刑囚は五九人いる。このうち確認されている者だけでも一一名は事実誤認等を理由に再審請求中である。それはどういうことかといえば、たとえば強盗殺人であると死刑になる可能性は高いが、単なる殺人では確率は低い。ところが強盗殺人と単な

る殺人との区別は困難なことがある。殺人の後で窃盗すれば殺人と窃盗であるが、脅かして物を取り、その後で殺人すれば強盗殺人である。ところが殺人でも強盗殺人でも法的には死刑が可能なので、大して違わないと判断し争わなかったところ死刑判決を受けても、すでに遅い。このようなことで事実誤認で再審請求している確定凶がいるのである。また無実を主張している者が四名いる。このうちには第一審で無罪であったのに最高裁で死刑の確定した者もいる。また二件のうちの一件について無実を主張している者も二名いる。もし一件の殺人だけであれば死刑になる可能性は少なかった。さらに第一審が無期でその後、死刑判決を受けた者二名などがいる。このように約半数が再審請求あるいは再審を希望しているとの報告もある。それでは、その他の確定者にはまったく問題がないかといえば、そうではない。再審請求のできる者は、たまたま協力してくれる弁護士や救援者にめぐり合ったため困難な再審手続きができたのであり、それ自体が偶然であることが多い。確定囚の一人ひとりをさらに詳細に検討すれば再審の該当者はもっと増えるだろう。また控訴や上告を自ら取り下げた者も、弁護士しだいでは最高裁まで争い、違った結末になっていた事件もあるはずである。日本では、再審請求において資力のない者が弁護士の弁護を受ける権利は保障されていない。また確定死刑囚と弁護人との秘密交通権も保障されておら

ず、この点でも一九八九年の国連決議に違反しているのである。

 

 

●死刑判決は運不運がある

 

菊田幸一(きくたこういち)、明治大学法学部教授、「いま、なぜ死刑廃止か」、丸善ライブラリー、1994年、pp. 15-16

 

たしかに、以前であれば単なる殺人でも死刑になる可能性があった。しかし現在では、死刑の適用は前述のように、きわめて限定されてきている。それだけに死刑の適用は微妙な運・不運で決定される刑罰となっている。むろん死刑のある以上は誤判がつきものではある。しかし、その問題とは別に有実であり法的には死刑該当犯罪の実行者であっても、実際に死刑判決を受け、さらに現実に処刑されることが運・不運で決着がつけられることを問題にしなければならない。さらにいえば、近年においては、毎年一人が執行されるとして、現在の確定死刑囚がたとえ、この先増加しないと仮定しても、五九名の確定囚を処刑するには五九年かかることになる。ほとんどの死刑囚はその年まで生きていない。つまり現在の死刑執行は象徴的に処刑している。当局も死刑囚のすべてを処刑できるとは判断していない。ただ死刑という刑罰があ

るため現実に処刑のある事実を国民に示している。その生け贅となって処刑される死刑囚が不運であるとして済ますわけにはいかないのである。

 

 

●死刑の存在が犯罪を誘発する

 

菊田幸一(きくたこういち)、明治大学法学部教授、「いま、なぜ死刑廃止か」、丸善ライブラリー、1994年、pp. 54-55

 

むしろ死刑の存在が犯罪を誘発する。犯罪学者はこれを「拡大自殺」とよんでいる。世間に反発し、自分だけでは解決できず、自殺もできない者が人を殺すことによって死刑を願望する。死刑の存在がつぎの殺人を誘発している。戦後の大量殺人者として知られている小平義雄、栗田源蔵、大久保清などは、むしろ死刑があるため、連続殺人を犯したことがはっきりしている。一人を殺すよりも複数を殺した方が裁判に時間がかかり、得をするのだ。

ピストル連続射殺事件の永山則夫もその著『無知の涙』のなかで「死刑というものがなかったら、後の二件は阻止できたはずである」(一〇六頁)と述べている。死刑があるため、そのおそろしさから逃れるため第二、第三の犯罪を犯す。永山もその一人であった。

 

 

●アーリックは死刑存置を主張したのではない

 

菊田幸一(きくたこういち)、明治大学法学部教授、「いま、なぜ死刑廃止か」、丸善ライブラリー、1994年、p. 57

 

エーリッヒは一九七七年にも同じような結果を発表したが、一九八○年までに二〇件余りにおよぶエーリッヒの研究に対する論文が出された。その大半は支持するより批判する者が多い。その中には、エーリッヒが銃の所持という重大な変数を見落としているとの指摘や、犯罪者の刑罰に対する考え方が現実の行動にどのように影響するかについて無視していると批判された。もっともエーリッヒは、この研究で死刑存置を主張したのではなく、明確な証拠を提供したとも考えていない。むしろ「雇用および所得の増加といった他の要素が死刑の執行より大きな犯罪抑止力を有する」と述べている。

 

 

●警察官による現場処刑はない

 

佐々淳行(さっさあつゆき)、元内閣安全保障室長、「日本の警察」、PHP研究所、1999年、pp. 41-43

 

事件の経緯はこうだ。京浜安保共闘(全共闘運動から生まれた過激派グループ。後に赤軍派と手を握って連合赤軍を結成)のメンバー三名が、上赤塚交番で立番中の巡査を襲撃した。目的は拳銃強奪。京浜安保共闘というのは、当時、銃器に異常な執着を持つことで知られるグループだった。巡査に重傷を負わせた彼らは、休懇室で仮眠をとっていた巡査長と格闘になる。その際、巡査長が拳銃を発砲し、横浜国立大学四年生の柴野春彦が死亡。他の二名も負傷して逮捕された。

土田邸爆破事件の教訓

 この事件では、私も当事者の一人として関わっている。当時、私は武器使用を所管する警務部人事第一課長の職に就いたばかりだったのだ。深夜に電話で叩き起こされた私は、ただちに現場へ向かった。実況検分を行い、発砲した巡査長から事情聴取した結果、武器使用に問題はないようだ。すでに同僚の巡査が目の前で重傷を負っており、相手が強奪した拳銃を撃ってくるかもしれない状況だったのだから、間違いなく正当防衛である。強盗の現行犯だから、「死刑、無期、もしくは長期三年以上の刑に該当する凶悪な罪」にも該当する。そこで私は警視庁で記者会見を開き、今回の発砲が適法行為だったという公式見解を発表した。後からこの会見に立ち会った土田国保警務部長(後の警視総監)も同意見を述べた。しかし仲間を失った京浜安保共闘は、当然、これをさらなるテロの口実にする。彼らは「復讐闘争」と称して、死んだ柴野春彦の命日のたびに、警察施設に爆弾を仕掛けるなどの事件をくり返した。そして事件からちょうど一年後の昭和四十六年十二月十八日、柴野の一周忌に悲劇が起こる。土田警務部長の自宅にお歳暮を装った小包爆弾が届けられ、土田夫人が爆死してしまったのだ。正直、信じられない気持ちだった。実は事件が発生するほんの数分前に、私はその夜に

予定されていたアメリカ大使館の夕食会の打ち合わせをするために、土田夫人と電話で会話を交わしていたのである。土田警務部長の自宅がターゲットになったのは、一年前の事件の際、記者会見の席上で私をかばって「拳銃使用は正当」との談話を発表し、それが報道されたためだ。しかしあの記者会見は、もともと私が一人で行うはずのものだった。責任感の強い土田警務部長は、公式見解の責任を部下の私が一人でかぶることがないよう、そこに同席してくれたのである。それが、夫人の命を奪う遠因となってしまった。場合によっては、私と私の家族が狙われたかもしれないのだ。事件後、土田警務部長はテレビの記者会見で悲しみを抑えながらこう語った。「爆弾犯人たち、君たちは卑怯だ。家族を狙うのは、私をもって最後にしてもらいたい」−私を含め、このとき涙を抑えられた警察官は日本に一人もいなかったに違いない。それと同時に、多くの警察官が「明日は我が身」を痛感していたはずである。この経験は、警察官の心理に深刻な影響を与えた。それはそうだろう。犯人を射殺すれば人権派弁護士に殺人罪で告発され、武器使用の正当性を主張すれば家族が狙われるのだ。武器使用に対して臆病になり、法律で規定されている以上の自己規制を加えるようになるのも当然である。

 

 

●仮出獄率

 

法務省法務総合研究所編、「平成11年版 犯罪白書」、1999年、p. 76

 

2)仮出獄人員と仮出獄率

U−15図は,昭和54年以降における仮出獄人員及び仮出獄率を示したものである。平成10年の仮出獄人員は,前年より119人増加し,1万2,948人となっている。また,仮出獄率は,元年以降,56%を超えて推移しており,10年は,前年を0.1ポイント下回り,58.2%となっている。

3)仮出獄申請の棄却率

V−23表は,最近3年間における仮出獄申請に対する棄却率を,刑の種類等の別に示したものである。平成10年の棄却率は,無期刑の者の51.5%を除けば、7%以内である。

 

 

●仮出獄審理は慎重に行われている

 

法務省法務総合研究所編、「平成11年版 犯罪白書」、1999年、p. 80

 

2)長期刑受刑者に対する仮出獄審理の充実強化

行刑施設に長期にわたり収容される者は,一般的に,凶悪・重大な犯罪を犯しているため厳しい社会的批判を受けており,また,資質,環境等の面で問題のある者が少なくない。このため,地方委員会では,長期刑受刑者の仮釈放審理に当たっては,本人の心身の状況,被害者感情をはじめ,関係事項について特に周到な調査と審理を尽くすとともに,本人に対する指導・助言,帰任予定地の環境調整等に格別の配慮をしている。無期刑受刑者を含む,執行すべき刑期が8年以上の長期刑受刑者に対しては,地方委員会事務局の保護観察官による仮釈放準備調査をできるだけ早期に開始し,これを定期的に実施するとともに,主査委員による複数回の面接や複数委員による面接を行うなど,特に慎重な審理を行っている

 

 

●再犯率

 

法務省法務総合研究所編、「平成11年版 犯罪白書」、1999年、pp. 90-91

 

2)再犯及び再入所の状況

V−23図は,平成元年以降に保護観察を終了した者について,保護観察期間中に,再度罪を犯し,かつ,新たな処分を受けた者の比率(以下「再犯率」という。)を示したものである。再犯率は,仮出獄者についてはおおむね1%前後で,また,保護観察付き執行猶予者についてはおおむね30%台で,それぞれ推移している。平成10年における再犯率は,仮出獄者が1.0%(131人),保護観察付き執行猶予者が35.5%(1,750人)となっている。さらに,受理時の罪名別(終了者数が100人未満のものを除く。)に再犯率を見ると,仮出獄者では,殺人(3.3%)が最も高く,次いで,強盗(2.9%),銃刀法違反(1.8%)の順,保護観察付き執行猶予者では,覚せい剤取締法違反(42.4%)が最も高く,次いで,窃盗(41.4%),傷害(36.4%)の順となっている。なお,仮出獄者のうち受理時罪名が殺人,強盗である者の再犯の内容は,通交違反や業過など

の交通事犯が4割以上を占め,同種事犯はなかった。U-24図は,昭和62年以降に行刑施設を出所した仮出獄者と満期釈放者について,出所後3年目までの間に行刑施設に再入所した者の比率(以下「累積再入所率」という。)を示したものである。累積再入所率は,仮出獄者が満期釈放者よりも低い傾向が一貫して続いており,平成8年に出所した者では,前者が26.0%,後者が44.3%となっている。

 

 

●仮出獄の対策

 

生島浩、法務総合研究所研究官、「凶悪犯罪と更生保護」

「罪と罰 34巻 1号」、平成8年11月、日本刑事政策研究会

 

(2) 凶悪事犯保護観察対象者の処遇上の問題点と対策

 凶悪事犯保護観察対象者の処遇上の問題点としては,次のような事項が挙げられる。

1 長期の施設生活により,社会の情勢に疎く,また就職に際しても,能力的なハンディキャップや社会的制約が多いなど,社会適応能力が低下している場合が少なくない。

2 事件が大きく報道されたり,長期の受刑の結果として,更生を支援してくれる配偶者,親族,縁故者がほとんどいないものも多いこと。

3 家族や同僚に前歴を秘匿していたり,単身生活の場合,本人の生活実態の把握が困難であり,家庭や職場における接触に工夫を要すること。

4 再犯をしたときは,これに対する社会的反響が大きいこと。

これらの対策としては,前述の中間処遇の積極的活用を始め,次のような処遇方針を基本として,慎重な処遇を実施している。

 

1 社会生活に対する不安の除去に努めるとともに,日常生活に必要な知識や常識的態度の習得を助けるため教育的助言を行う。

2 就労に関しては公共職業安定所,高齢者の生活や健康不安に対しては福祉・医療機関等の社会資源を活用する。

3 本人の心情の変化に十分配意し,特に職場や地域社会における対人関係のトラブル,結婚等の問題については懇切な助言に努める。

4 積極的な家庭訪問,定期的な保護観察官との面接の実施等により,常に生活実態のきめ細かい把握に努める。

5 不安定な行状が認められ,再犯・再非行のおそれがある者については,遵守事項違反の状況に応じて,仮出獄取消し等の措置を速やかに執る。