死刑制度否定側証拠資料

以下の参考資料をディベートで使用する場合は、必ず原本にあたって、確認して使用してください。

●死刑の犯罪抑止力

 

Ehrlich Isaac, "The Deterrent Effect of Capital Punishment: A Question of Life or Death" American Economic Review Vol. 65, 1975, pp. 397-417.

 

Ehrlich found that the coefficients for the murder rate and two different measures of the execution risk were - 0.66 and - 0.065 respectively. This means that a 0.06% decrease in the homicide rate was associated with a 1% increase in execution risk. Thus over the 35 year period 1933-67 when there was a yearly average, of 8,965 murders and 75 executions, the marginal trade-offs were approximately 8,965÷75xO.06=7.17 or 8,965÷75x0.065=7.77. In some years, for example 1959, and 1966, he found the coefficients produced a trade-off of one execution for 17 fewer murders. See Ehrlich, Deterrence: Evidence and Inference, Yale Law J. (1975), pp. 209-27. Isaac Ehrlich, "Capital Punishment and Deterrence: Some Further Thoughts and Additional Evidence" Journal of Political Economy, August 1977, pp. 741-788. "Participation in Illegitimate Activities: a Theoretical and Empirical Investigation. "Journal of Political Economy, May/June 1973, pp. 521-565.

 

 

●再犯がある

 

河上和雄(かわかみかずお)、弁護士、元最高検公判部長、『「犯罪捜査と裁判」基礎知識』、講談社、1998年、p. 298

 

しかし殺人犯を制裁するには、死刑を完全に廃止するわけにはいかない。死刑以外には罪を償わせる方法がない殺人犯も、確実にいるのだ。世の中には、これが同じ人間のすることかと思うような犯罪を平気で犯す者もいるのだ。それに、死刑を免れた殺人犯の中には、出所してから再び殺人を犯す者も少なくない。被害者の遺族の感情や世論を納得させるには、やはり死刑制度を残しておくべきではないだろうか。ただ、やたらに死刑判決を出すのは賛成できない。死刑制度そのものは必要だが、その適用はできるだけ少ないほうがいいというのが、筆者の基本的な考え方である。

 

 

朝日新聞死刑制度取材班、「死刑執行」、朝日新聞社、1993年、p. 140

座談会「死刑廃止の流れ どう受け止める」中の、植松正一(一橋大学名誉教授)の発言

 

もともと犯罪にはいろいろな原因条件が作用します。事情が似ていて死刑のあるなしで違いがあるからといって、その差が数字的にはっきり出てくるとは限らないと思います。しかし、日本の実例をひとつ挙げると、死刑に値する事件の被告が死刑にならなかったために、再び人を殺すというような犯罪を起こして、最後には死刑になる例は珍しくありません。こういう例がありました。初めに窃盗か何かで刑務所に入って、出所直後に売春婦を殺した。その罪でまた刑務所に入り、出てくるとすぐ、また売春婦を殺した。いずれも有期懲役だったんです。二度日の出所直後に、今度はわざと道連れになった人妻に断崖の上で情交を迫り、拒まれると人妻が連れていた三人の子のうちの二人を海に投げ込んだ(一人は助かる)ので、女性はやむを得ず身を任せました。すると犯人はその女性を犯した後で、女性ともう一人の子も殺したのです。これで死刑になりました。

 

 

●誤判の危険性はない

 

朝日新聞死刑制度取材班、「死刑執行」、朝日新聞社、1993年、p. 144

座談会「死刑廃止の流れ どう受け止める」中の、前田宏(前検事総長)の発言

 

しかし、今言ってみても始まらないんでしょうが、統計的にみても、誤判があったと言われる時代は、死刑の確定が二けた以上だったと思います。最近の死刑の確定は微々たる数です。警察や検察庁も気をつけているし、裁判所が非常に慎重なことは言うまでもありません。いろいろな条件からいって、誤判の具体的危険性はないといってよいと思います。

 

 

●誤判を少なくする努力をしている

 

朝日新聞死刑制度取材班、「死刑執行」、朝日新聞社、1993年、p. 144

座談会「死刑廃止の流れ どう受け止める」中の、植松正一(一橋大学名誉教授)の発言

 

有名な弁護士が「無期懲役は誤判の吹きだまりだ」と言ったことがあります。つまり、死刑にしようかどうしようかと考えた時に、(本当に有罪かどうか)心配になれば、無期懲役にする、というわけです。でも、それだけ死刑が慎重に行われている、ということも事実でしょう。誤判で無期懲役になっても大変なことです。無期でなくても、数年間刑務所に入れば、人生がまるで変わってしまいます。刑が重ければ、よけい誤判のないように努力しなければなりません。死刑には、それだけ誤判を少なくする努力を十分注いでいるということが言えるのではないでしょうか。

 

 

●国際機関が死刑廃止を決めるのは適切ではない

 

池田浩士(いけだひろし)、京都大学勤務、「死刑の〔昭和〕史」、インパクト出版会、1992年、p. 318

 

法律的観点からのこの疑義に加えて、日本政府は、国連での討議の過程で、ほぼつぎのような理由から、「死刑廃止条約」に反対してきたのである−

一、死刑廃止国はいまだ世界の国々の過半数にいたっておらず、国連での討議もまだ不充分であり、死刑廃止の国際条約を結ぶには国際的コンセンサスが欠如しているといわざるをえない。条約は時期尚早であり非現実的である。

二、死刑廃止という問題は、当該国の国民感情、犯罪情勢、刑事政策のありかたなどを踏まえて考えられるべきものであって、国際機関が一義的にその是非を決定しようとするのは適切でない。

 

 

●無期懲役でも出獄できる

 

刑法 第5章 仮出獄 第28条【仮出獄の要件】

 

懲役又は禁錮に処せられたる者改悛の状あるときは有期刑に付ては其刑期三分の一無期刑に付ては十年を経過したる後行政官庁の処分を以て仮出獄を許すことを得

 

 

河上和雄(かわかみかずお)、弁護士、元最高検公判部長、『「犯罪捜査と裁判」基礎知識』、講談社、1998年、p. 295

 

死刑の次に重い刑罰は、無期懲役だ。ただし、これはいわゆる「終身刑」ではない。有期刑と違って懲役の年数は決まっていないが、現実には死ぬまで刑務所に入れられるわけではなく、いずれ出所が認められるのだ。有期刑のほうも、とりあえず懲役の年数は決まっているものの、満期まで刑務所に入っていることは少ない。有期懲役刑なら刑法によれば刑期の三分の一以上を務めれば、刑務所での態度や反省の度合いに応じて仮出獄が認められるのだ。したがって、有期刑の上限である懲役二十年の受刑者なら、七年後には出られる可能性があるということになる。もっとも、現実の運用は三分の二以上を必要としている。一方の無期懲役は、法律上、十年以上の務めを果たせば、仮出獄を認められることになっている。現実には、無期懲役囚の平均出獄年数は、およそ十七年。結果的には、懲役二十年の受刑者と三年しか違わない。無期と二十年では大違いという印象があるだろうが、実はほとんど差がないのである。むしろ、もっとも重い死刑と、次に重い無期懲役のあいだの差が大きすぎるといえるのではないだろうか。

 

 

●死刑を廃止した国が侵略をおこなっている

 

池田浩士(いけだひろし)、京都大学勤務、「死刑の〔昭和〕史」、インパクト出版会、1992年、pp. 238-239

 

死刑廃止論者のだれもが直視せざるをえなかったように、制度として死刑を廃止した国家のいくつもが、北米合州国と結託して、アラブの地へ侵略の軍隊や軍資金を派遣し、殺戮と破壊のかぎりをつくした。一九八九年十二月の総会で死刑廃止条約を可決した当の国際連合は、その一年後には早くもあからさまにアメリカ合州国の私物へとみずからをおとしめ、アラブでの「多国籍軍」の軍事行動と殺戮に正当性を与えるというおぞましい役割を演じた。幾重にも錯綜するこの侵略戦争で殺される一人ひとりの人間にとって、死刑存置国イラクの兵器で死ぬことと、死刑廃止国フランスの兵士やドイツの援助によって殺されることとに、いったいどんな違いがあるというのか。まぎれもなく、ドイツ、とりわけ旧西独は、死刑廃止の「先進国」のひとつである。フランスが一九八一年に死刑を廃止し、長い歴史をもつギロチンがついに役割を終えたとき、その決定は全世界の死刑廃止論に大きなはげましを与えた。そのドイツやフランスが今次の「湾岸戦争」にさいしてとった態度は、国家の制度としての死刑が廃止されても、社会から死刑は根絶されるわけではない-という現実を、如実に示したのである。死刑廃止とは、刑法その他の法典から死刑が姿を消すことではない。社会が死刑を必要とせず、死刑をゆるさない社会が実現するとき、はじめて死刑は真の死を迎えるのだ。死刑廃止を求める声は、いまこそ、そのような社会の実現と不可分なものとして死刑廃止の根拠を手さぐりしなければならない段階にさしかかっているのではないか。この手さぐりをぬきにしたまま死刑廃止が政府によってなされるとしたら、いま各種の世論調査に登場する多数派の存置論は、あるいはそのまま将来の死刑復活論の要因として生きつづけるだろうし、さらに悪いことには、今度は死刑反対が世論の多数派となったまま、法律上の死刑とは別のかたちの権力殺人の下手人として、死刑廃止国の民衆が動員されることにもなりかねないだろう。

 

 

●国連の死刑廃止条約は、死刑存続を認めている

 

池田浩士(いけだひろし)、京都大学勤務、「死刑の〔昭和〕史」、インパクト出版会、1992年、p. 374

 

前述の国連の「死刑廃止条約」(死刑廃止を目的とする市民的および政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書)は、第二条第2項で「批准または加入の際になされた、戦時に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決に従い、戦時に死刑を適用する規定に関する留保を除き、本選択議定書に対しいかなる留保を付することも許されない」と定めている(辻本義男訳による)。つまり、この条約の加入国は、戦時の重大犯罪にたいしては死刑を適用する権利を留保することができるのである。これは、国内法で通常犯罪にたいする死刑は廃止しながら戦時の犯罪には死刑を適用できることを現に定めている国家が一七ヵ国ある、という実状とも関連しているのだが、いずれにせよ、この条約によれば、たとえば日本の刑法の「外患誘致罪」(死刑以外に選択の余地がない)は立派に生きのびることができ、また、悪名高い戦時特別法、「軍機保護法」による尾崎・ゾルゲの死刑は、国連によって容認されるしかないことになる。国際連合が平和機構という名の戦争同盟機構であることを考えれば、これは当然のこととはいえ、この事実は何よりも、死刑と戦争との関係をあからさまに物語っている。国家の権力の全面的発動たる戦争にさいしては、死刑制度の廃止はすべて廃棄されうるのだ。されうるばかりではない。国家が行なう戦争のなかではいわば死刑が日常化することは、一貫して平和という名の戦争の時代でもあった<昭和>の歴史が明らかにしている。そしてこれは、<昭和>の歴史をこえて、平和維持活動や平和的企業進出と現地の抵抗活動とのたたかいのなかで、今後ますます日常的な現実となっていくにちがいない。

 

 

●イギリス、カナダは死刑を完全に廃止していない

 

「死刑と情報公開(年報・死刑廃止99)」、インパクト出版会、1999年、p. 204

「国会での議論」死刑の必要性、情報公開などに関する第3回質問主意書

 

イギリスにおいては、反逆罪、殺意をもった暴行等を伴う海賊の罪及び一定の軍法上の罪について死刑を定めていると承知している。また、カナダにおいては、一定の軍紀犯罪、スパイ罪及び反乱の罪について死刑を定めていると承知している。これらの罪に当たる行為の中には、我が国における外患援助、殺人等の罪に当たるものがあると考えている。

 

 

●死刑制度は刑事司法制度に犠牲を強いている

 

辻本義男(つじもとよしお)、中央学院大学法学部教授・辻本衣佐(つじもといさ)、明治大学大学院法学研究科博士後期課程、「アジアの死刑」、成文堂、1993年、pp. 28-29

 

死刑は、無実の者を処刑したり、あるいは法の適正な手続きを否定したりして、刑事司法制度を弱らせるような圧力を加えている。目撃証人が犯人を誤認する場合がある限り、あるいは裁判所が被告人の権利の擁護に充分配慮しない場合がある限り、無実の者を死に追いやるリスクが残るのである。無実の者を処刑するリスクを完全に乗り越える保障はどこにも存在しないのである。他者の死に対して完全に責任があると仮定しようとする者はいないし、法的な抜け道は各所に開いている。死刑事件は、裁判所の資源を最大限に用いて、判決確定後にさまざまな種類の訴訟の種を発芽させる原因となる。弁護人はその依頼人を助けるために、あらゆる種類の手段を尽くそうと努力し、それに巻き込まれる裁判官はそれらに細心の注意を払うであろう。そして裁判の遅延が許容され、抑止という刑罰の1つの機能、すなわち迅速性と確実性が失われることになる。しかし、死刑制度が存在する限り、死刑の適用はこの方法ですすんでいくであろう。死刑は、このように刑事司法制度に法外

な犠牲をも強いているのである。

 

 

●死刑廃止にむけての市民的および政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書

 

辻本義男(つじもとよしお)、中央学院大学法学部教授・辻本衣佐(つじもといさ)、明治大学大学院法学研究科博士後期課程、「アジアの死刑」、成文堂、1993年、p. 216

 

『死刑廃止にむけての市民的および政治的権利に関する国際規約の第2選択議定書』

2条 1 批准または加入の際になされた、戦時に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決に従い、戦時に死刑を適用する規定に関する留保を除き、この選択議定書に対しいかなる留保を付することも許されない。

2 かかる留保を付そうとする当事国は、批准または加入の際に、戦時に適用される国内法の関連する規定を国際連合事務総長に通報するものとする。

3 かかる留保を付そうとする当事国は、その領域における戦争状態の開始または終了を国際連合事務総長に通告するものとする。

 

 

●冤罪はしかたない

 

山口宏(やまぐちひろし)、弁護士、副島隆彦(そえじまたかひこ)、常葉学園大学助教授・評論家、「裁判の秘密」、宝島社、1999年、pp. 248-249

 

「冤罪の犠牲になってかわいそうだ」と人びとは言うが、この社会には他にもいろいろな装置があって、その装置の犠牲になっている人間はいくらでもいるではないか。交通事故の被害者もそうだ。自動車がなくなれば、もちろん運送その他に深刻な支障が出てくる。同時に、自動車産業が潰れるということは、何百万人という失業者を生むから、そういう点でも自動車をつくりつづけるということは必要なことである。そしてつくりつづければ、不可避的に、人が年間一万人は死ぬわけである。それは、自動車産業という人間がつくった一種の装置の

犠牲者であろう。悲しい代償である。この種のことは昔から、どんな社会にもあることだ。ある人間を殺して、神様に生贅として捧げるという風習、つまり、神という幻想を維持する体系は人類の発生以来ずっとあったことで、現代社会がそこから免れることはできないと思う。極端なことを言えば、戦争だって紛争の解決手段である。国際的な紛争の最も合理的な解決方法は戦争であるとも言えるのである。戦争をすれば、人が不可避的にたくさん死ぬわけで、それも犠牲者だ。なにゆえに、「なんとなく犯人らしい」という理由で、ある人間が死刑になったからといって冤罪だ、国家犯罪だといって、とくに他の装置と比較して残虐性が大きいと言えるだろうか。

 

 

●刑務官はいやならやめればよい

 

山口意友(やまぐちおきとも)、純真女子短期大学講師・応用倫理学、「平等主義は正義にあらず」、葦書房、1998年、pp. 18-19

 

またもう一つ考えねばならないことは、刑務官に自立心はないのか、という点だ。著者自身も言っているとおり、「刑務官は辞めないが、死刑執行はお断りというのは通らない」のが実情で

ある。だから、死刑執行の命令を拒否したければ、当然職を辞さねばならないことになる。嫌なら辞めればよいではないかと誰もが思うだろうが、著者によると刑務官たちは、「転職先がおいそれとは見つからない」ため、「転職先の当てもないのにそう易々と辞めることはできない」のだそうだ。しかし、死刑執行は正しくないあるいは拒否したいと自らの信念で思うのであれば、とっとと辞めて退職金を元手に、例えばうどん屋でも自分で開けばよいではないか。「転職先が見つからないと辞められない」というのは、俺に言わせれば、自らの信念よりも銭を優先させるという自立心のない奴の台詞だ。会社が倒産したと思えばよいではないか。自らの信念と生活の安定いずれが重要か。後者を優位に置けば、例えばかつての豊田商事のような会社ぐるみの犯罪にも自ら手を染めねばならなくなる。真の自立とは、経済的なものよりも精神の自立すなわち自律を言うのではないのか。

 

 

●仮出獄で犯罪を起こす

 

山口意友(やまぐちおきとも)、純真女子短期大学講師・応用倫理学、「平等主義は正義にあらず」、葦書房、1998年、pp. 31

 

さらにもっと別の立場から死刑廃止論者に質問を投げかけるとすれば、次の二点をあげることができる。これは先にも少し触れたが、仮に死刑が廃止になると、その犯人は無期懲役になる。ところが日本の法律では服役後十年経つと坂出獄の対象となり裟婆に戻ることも可能となる。ここでもし、仮出獄になったこの者が再び殺人を犯した場合、ここで新たに殺された人はどうなるのだ。死刑が行なわれていれば殺されずにすんだその被害者に対し、死刑廃止論者はどう責任をとるのだ。廃止派のなかには、「我々は死刑廃止が唯一絶対のものであり、死刑を庵止した後どうなるかについて答える義務もなければ、その必要もない」と言う有名な教授もおられるが、その人の言を借りて言えば、こうなるだろう。「死刑が廃止されさえすればよいのだ。その後仮出獄者に罪もない人が殺されようとどうしようとそれについて答える義務もなければその必要もない」と。また、この教授は、「死刑は絶対である人の生命を国家権力により抹殺するものであるから、死刑は絶対悪である」というが、おそらくこの教授にとって殺人犯の生命は絶対的なものだが、その被害者の生命はそうではないのだろう。

 

 

●死刑囚には無罪妄想がある

 

加賀乙彦(かがおとひこ)、精神科医・作家、「死刑囚の記録」、中央公論社、1997年、p. 50

 

死刑囚においては、無罪を主張することが、死よりまぬがれる唯一の方法であり、この点彼らが、日頃の願望として、もし無罪であればと念じていることは確かである。その願望の上に、無罪妄想から完全な虚言まで、さまざまな主張がおこなわれると見られる。

 

 

●犯行現場の残虐さを見たら、廃止論者のほうが考えを変える

 

小浜逸郎(こはまいつお)、批評家、「なぜ人を殺してはいけないのか」、洋泉社、2000年、p. 196

 

たしかに処刑の実態を認識することは、死刑論議にとって良いことで、人の生命を奪う行為の是非を論ずるのに、現場感覚に対する想像力を失ってはならないだろう。しかし、どんな存置論者もこうした生々しい現場に接したらこれまでの考えを翻すだろうという意見は、それ自体としてはもっともに思えるものの、処刑現場における死刑囚に対する残酷さという側面ばかりをことさら強調して感覚に訴えようとする偏った見地に立っていて、公平を失していると思う。同じ生々しい感覚に訴えることを有力な武器にするなら、凶悪犯罪が現に行われているところに居合わせたり、犯行後の惨たらしい現場を見たり、その現場や無惨な遺体に接した時の遺族の、言葉ではあらわせないショックの反応に接したりすることも、議論のための条件に加える必要があろう。そうすれば、逆に、廃止論者のほうが考えを変えるかもしれないのだ。

 

 

●冤罪と死刑廃止は関係ない

 

小浜逸郎(こはまいつお)、批評家、「なぜ人を殺してはいけないのか」、洋泉社、2000年、pp. 198-199

 

冤罪の可能性をどう避けるかは、法的な手続きの厳正さの問題であって、「死刑廃止」を原理的に主張するための根拠にはなりえない。たとえ実際に冤罪事件があり、再審の結果逆

転無罪になるケースがいくつも見られたとしても、そういう弊害を避けるために唯一なすべきなのは、誤りをゼロにするという理念の実現のために、捜査から判決までの仝刑事過程を制度的、技術的、現実運用的にいかにきちんと整えてゆくかということであって、死刑を廃止することではない。もちろん、判決確定後も再審の余地を十分に残しておくことは必要であるし、また、刑の確定から執行まで、一定の猶予期間を正式に設けるというような制度も考えられてよい。しかしいずれにせよ、これらは重要案件であればあるほど慎重な配慮を要するという審理上の技術や構えの問題であって、死刑制度そのものを廃止すべきかいなかという問題とは直接関係しない。

 

 

●改悛の情を示しているからといって、死刑を廃止するのはおかしい

 

小浜逸郎(こはまいつお)、批評家、「なぜ人を殺してはいけないのか」、洋泉社、2000年、p. 199-201

 

また、廃止論を心情的に支える言説としてよく見かけるものに、心から改俊の情を示した死刑囚たちの美しい心境や、短歌、俳句、文章などに発揮された彼らの才能や知性を惜しんで、「なぜこの人たちが殺されなくてはならないのか」と訴えるものがある。「もうこの人たちは、十分罪を償っているのではないか・・・」「死刑囚といえども特別な人たちではない。中にはいろいろな不幸な巡り合わせで罪を犯してしまった人もたくさんいる・・・」等々。

たしかに、現実にそのような人たちに接すると、なお死の命令を受け入れなくてはならない事実に不条理を感ずることはありうるだろう。しかし、ここにも、いくつかの受け入れがたい論理的な飛躍がある。

 第一に、すべての殺人犯がそうなるわけではないこと。かなり残虐な犯罪を犯しながら無期懲役となり、仮出獄中に再び悪質な殺人を犯した例などはいくつもある。そうした凶悪な例が、この世には「更生不能」の人間が存在するとの印象を人々に与え、それが死刑存置論を支える心情的な根拠の一つとなっている。そういう例が一方にあるかぎり、部分的な例をもって普遍的な廃止論の根拠にすることはできない(ただし、たとえば犯した罪と改俊の情の探さとのバランスからみて極刑は重すぎるという理由で、個別的なケースとして死刑適用の不当性や再審の必要を訴えることには、十分な意味が認められよう)。

 第二に、優れた才能や知性を発揮しているからという理由を、死刑廃止論の心情的な根拠の一つに数えることは、逆に言えば、そのような才能や知性を持たない者、積極的な表現をしない者は、その分だけ死刑を免れる機会を逃しても当然だという論理を導きかねない。才能や知性や表現力などは、どんなに膨大だろうと、それ自体としては犯した罪の重さをいささかも減らしはしないのである。

 第三に、このことが最も重要だが、一部の死刑囚の洗われた美しい心境や文学的才能など

は、まさに死刑宣告を受けたという絶対的な実存の制約の内におかれたからこそ、初めて生まれてきたと考えられる面が大きい。人間の内面は、はじめから独立自存するのではなく、社会的な規定を契機として育まれるのである。「メッカ殺人事件の犯人の精神性を考えると、彼の内面性そのものが死刑の宣告を受けるという形で、自己の極限に直面したことから形成されてきているのであって、死刑制度が廃止されていたならば、この犯人は軽率な自己観察と演技の平面で生き続けていったかもしれないという疑問が残る」(加藤尚武前掲書)

 

 

●死刑は必要(社会システム)

 

小浜逸郎(こはまいつお)、批評家、「なぜ人を殺してはいけないのか」、洋泉社、2000年、pp. 204-207

 

私は、死刑が現実に頻繁に執行されようが、ほとんど執行されなくなろうが、基本的に、「極刑」の概念を保持している社会のほうが、これを捨て去った社会よりも、バランスのよい社会であると考える。そして、社会秩序のバランスがより保たれているということは、「人倫」や「人間の尊厳」といった内面的な秩序をよりしっかりと構成できるということをも意味する。というのも、人間はその本質において社会的動物であり、あるシステムを持った社会の中で生きているとは、そのシ

ステムの秩序を人格の構成要素にしていることだからである。その意味で私は、法体系の中に「死刑」を存置しておくことに賛成する。「極刑」の概念は、おのれの生命を供しても償うに足りない罪がこの世にはありうるという考えを基礎としている。そういう考え方を保持し、それを実際の法体系の中に一定の表現として定着させておくことは、人間世界に対する法(=正義)というものの守備範囲を豊かにしておくことである。どんな極端な事象に対しても、社会は正義の名において対応ができるように、あらかじめ「正義」の幅をできるだけ広く確保しておかなくてはならない。「この侵害に対しては、これだけの償いで相当と考えるが、これはどれほど情状を酌量しようと、命以外のどんな償いをもってしても償いえないひどいことである」といった区別の概念を人間はどこかにとっておくべきである。実際、人間の世界にはなんだってありうるのだから。「死刑を廃止する」ことは、単に「死刑を行わなくても済むようになる」こととはちがう。それは法体系の中から、「極刑」の概念を放逐することを意味するから、法が、ありうるかもしれないとんでもない事象に対する究極的な対応の手段を捨て去って、判断の幅をその分だけ狭めることを意味するのである。たとえば、オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)が仮に起訴状どおり、あのいくつもの殺傷事件の主犯であるとして、もし死刑制度がないとした場合、無期懲役で対応するのが適切だろうか。

こうした問題について、廃止論者の中には、死刑に代えるに、仮釈放のない絶対終身刑の導入を提案する人もいる。一つの見識であるが、それならば死刑を廃止せずに、死刑と無期懲役の間に絶対終身刑を設定するほうがもっとよいと思う。選択肢は多いほうがいい。仮に、事実上死刑判決を下す必要がほとんどなくなったとしても、刑罰の極限の概念までも捨て去る理由はない。死刑を法的に廃止することは、「何をやっても殺されることはないのだ」という考え方を、社会の側から公式に基礎づけてしまうことになる。もちろん、すでに述べたように、それによって凶悪な殺人が増加するということは証明できないのだが、たとえ増加しないとしても、そういう考え方を基礎づけてしまうことは、人間社会全体から究極責任の考えを抜き去り、最終的には人倫の内的な秩序を崩していくことにつながると思う。「万死に値する行為」の概念を人間は捨てないほうがいい。死刑判決は、それがふさわしい場合、宣告されたものの実存を、自分はそういう存在であるという自己確認の意識のうちに限定する。一部の人がそれによって、自分が何をやったのかを知り、初めて罪を悔いる心境に目覚めることも事実であって、人間は、自らの尊厳のためにこそ、そういう実存的な状況に導く契機というものも具備しておくことが必要である。人間の生は、自然的には有限の時間と個別の身体性とによって限界づけられている。限界

とは、同時に、生の意味づけである。しかし自然的な限界だけによってはそれは形を与えられないので、自らの行為が引き寄せる社会的な意味によって、初めて具体的な規定を帯びるのである。自由というのも、そうした具体的な規定との相関をとおして感じ取られるのであって、無規定の自由はかえって人間を行動不能にする。これこれのことをすれば社会の裁きによって逃れがたく死に値することがある、という認識による生の限界づけは、社会的人格としての私たちに、原理的なところで社会的行動の意味と力と方向性とを提供するはずだ。

 

 

●「世論調査に従わなくていい」はおかしい

 

小田晋(おだすすむ)、筑波大学社会医学系教授・社会精神病理学および犯罪学、「人はなぜ、人を殺すのか?」、はまの出版、1996年、pp. 222-223

 

菊田幸一明治大学教授は、世論とは「ばかげたことだ、偏見、まちがった感じ、が

んこなこと、新開記事等の膨大な集積である」というサー・ロパート・ピールの言葉を引いて、「死刑に関する世論に従うというより、むしろ世論を導くものではなかろうか」と言う。この点についてはフランスの法務大臣、R・パダンデール氏も、「世論調査というものは最終的にそんなに大事なものではない」と言う。死刑廃止論者に共通するのは、こうした一種のエリート意識であり、菊田氏らは、死刑以外の問題についても、為政者は無知な民衆の意見など無視してしまえというのでなければ、論理的に整合性がなくなる主張をしているのではなかろうか。しかし、いわゆる人権派であり、民主主義を唱えている彼らがこんなことを言うこと自体そもそもおかしいのである。彼らの主張に従えば、たとえば核実験の問題でも」国民の意見なんか無視してしまえ、専門家の意見さえ開けばいいということになってしまう。

 

 

●死刑の抑止力は否定されていない

 

小田晋(おだすすむ)、筑波大学社会医学系教授・社会精神病理学および犯罪学、「人はなぜ、人を殺すのか?」、はまの出版、1996年、pp. 226-227

 

しかし、この種の議論の特徴は、マクファーランド(一九八三)のように、統計の見直しで抑止力を否定しようとするタイプの議論が多いことで、せいぜい「統計上、一見死刑の威嚇力はあるようにみえても、統計の解読の仕方次第では、べつの解釈もある」と言っているにすぎないものが大部分なのである。森下氏が指摘しているように、死刑廃止反対論者は今日、守勢に立っているようにみえるけれども、抑止力問題に関して言えば、むしろ統計学上の解釈を用いて、防戦

につとめているのは廃止論者であるようにみえる。論文数が廃止論のほうが多いようにみえても、実はそれは抑止力仮説に立つ元論文に、批判論文を書くリベラルな研究者が多いということを示しているというだけである。当のニューヨーク州は連邦最高裁が死刑を合意する判決を出して以来、毎年州議会で死刑法案を可決しつづけてきた。一九九五年になって、それに拒否権を行使しつづけた民主党のマリオ・クオモ知事は、とりわけその権限で仮釈放した異常性愛犯罪者による再犯に対する州民の憤激を最大の理由として落選、同州は死刑を復活した。アメリカの死刑反対論の多くは、民主党リベラルの知事が拒否権を行使することの理由づけとして州知事周辺のリベラル派学者たちによってつくりあげられたもので、精神障害または異常性愛犯罪者に対する早すぎる保釈決定も同じグループによってなされたと思われ、州民はこれを拒否したのである。抑止力問題についての両説の諸論文を比較検討したB・フォーストの総説(一九八三)などをみても、死刑の抑止力は今日なお否定されているなどとはいえそうにもないようにみえる。

 

 

●犯罪者の大多数は「有識者」ではなく「一般人」

 

小田晋(おだすすむ)、筑波大学社会医学系教授・社会精神病理学および犯罪学、「人はなぜ、人を殺すのか?」、はまの出版、1996年、p. 234

 

死刑廃止論者も賛成論者も、人間であるからこそ、死刑のもたらす恐怖を熟知しているのであり、人間であるからこそ、死刑の恐怖を了解し、追体験できるのである。死刑廃止論者は、一般の世論より「有識者の声」が重要であるとするのであるが、一般人がどう考えているかのほうが重要であるというのは、犯罪者の大多数はまさに「有識者」ではなく「一般人」であるからである。たしかに、死刑がすべての犯罪を抑制することはできないが、それが絶対におこなわれないという見通しは、社会の犯罪に対する「歯止め」の一つを失わせるのではなかろうか。

 

 

●暴力団の犯罪が増える

 

小田晋(おだすすむ)、筑波大学社会医学系教授・社会精神病理学および犯罪学、「人はなぜ、人を殺すのか?」、はまの出版、1996年、pp. 235-236

 

さらに思考実験をしてみよう。死刑が廃止されれば、組織暴力団の幹部は組員に、「あのタマ(標的)をとってこい。さもなければ殺す」という「究極の選択」をつきつけ得ることになる。「暴力団員が堅気の人間を殺しても死刑にはならないが、親分は彼を殺せるし、殺しても死刑にはならない」という状況が出現することになる。つまり、映画『ミンボーの女』を制作して暴力団員二人に襲撃された伊丹十三監督はあの場合、あっさり殺されていた蓋然性が高くなるのである。一時期イタリアでは、マフィアに対抗した裁判官、検察官、政治家、さらに犯罪学者がマフィアによって次々と殺されたことがある。平成六(一九九四)年九月、マフィアの裁判にあたっていた判事たちに、警察は、刑務所に入ってもらうよりほかに、皆さん方の安全を保証する方法はないと通告、判事たちはやむを得ず刑務所の独房に入り、そこから法廷に出向くという事態になった。マフィアに対抗した者は昔から殺されていたのではないかと思われがちであるが、死刑が廃止されるまでは、これほどまでにあっさりと、しかも次から次へと殺される

などということはなかった。つまり、イタリアにおいては、死刑の廃止は失敗だったと言えるであろう。イギリスでも、死刑を廃止して以来テロリストによる警官殺しが増え、死刑廃止は失敗だったという声が各方面からあがっている。

 

 

●「情報が与えられれば、死刑廃止論が多数を占める」は間違い

 

小田晋(おだすすむ)、筑波大学社会医学系教授・社会精神病理学および犯罪学、「人はなぜ、人を殺すのか?」、はまの出版、1996年、pp. 239-240

 

H・ガイゼルおよびA・ギャラップが述べているように、アメリカの成人における死刑賛成の世論は一九六二年において平均して四十二パーセントであったが、その後着実に上昇をつづけ、八六年には七十一パーセントに達している。J・ライ(一九八二)の調査でも、死刑賛成者の比率は、ヨハネスブルグ(南アフリカ)で五十六パーセント、ロンドンで六十パーセント、グラスゴー(イギリス)で七十六パーセント、ロサンゼルスで六十六パーセント、シドニーで丘十五パーセント、マニラで五十六パーセントである。死刑廃止の成功例とされているカナダでも、シーグレープによると死刑復活論はなおかなり有力である。アジアでは一九九四年に、フィリピンが死刑を復活した。実のところ、アジアの大国で死刑を廃止している国は存在しない。死刑廃止論者は、むしろエリート意識から国民の世論を無視しで死刑廃止を強行することをすすめるのであり、殺される罪もない人たちの「痛み」はその視野に入っていない。それに、国民に知識が与えられれば死刑反対論者は増えるはずであるという前提もかなら

ずしもたしかではない。一九九三年十月三十一日、中央大学大学祭で、中央大学法学会主催による死刑廃止論をめぐってのパネル・ディスカッションがおこなわれた。そして、約四百七十〜四百八十人の学生と市民が会場を埋め、パネルの前後に学生の手によってアンケート調査がおこなわれた。死刑廃止論者として、奥平康弘・国際基督教大学教授、ルポライターの鎌田慧氏、長井圓・神奈川大学教授。廃止論に批判的な立場から、土本武司・洗波大学教授、渥美東洋・中央大学教授、それに筆者が約四時間にわたって討論した。顔ぶれを見ても死刑廃止論は十二分に代弁されていたと言っていいであろう。会場には多少の出入りがあったが、討論開始前の調査では、死刑存置論が約六十五パーセント、廃止論が十五パーセントで、他の調査での一般人のサンプルと法学部、政策科学部の学生の賛否の比率はほぼ同じであった。だが、討論後の調査では、存置論が一・五%強、廃止論が四%減少して「わかならい」と答えた者が増えている。つまり廃止論の減少のほうが多く、情報さえ与えられれば死刑廃止論が多数を占めるようになるという考えは成り立たないようにみえる。

 

 

●国際人権規約の第二選択議定書は政治犯・テロリストを除外している

 

小田晋(おだすすむ)、筑波大学社会医学系教授・社会精神病理学および犯罪学、「人はなぜ、人を殺すのか?」、はまの出版、1996年、p. 241

 

なお菊田氏は、国連の国際人権規約の第二選択議定書(一九八九年一月)、いわゆる死刑廃止条約が、発展途上国の賛成取りつけの手投として、政治犯・テロリストを対象から除外していることを支持している。人権上、本来ならもっとも許せないはずの政治犯の処刑はいいが、凶悪犯の処刑はいけないというような人をマキヤベリストと呼ぶことはできても、人権の擁護者と呼ぶことは躊躇せざるを得ない。

 

 

●誤判はまれな例外

 

重松一義(しげまつかずよし)、中央学院大学教授、「死刑制度必要論」、信山社出版、1995年、pp. 18-19

 

右の死刑廃止論は理のある限り謙虚に耳を傾けたいが、(イ)の国家の手による殺人という論拠は、近代国家が仇討など私人による自力回復行為・自力救済行為を認めない以上、国家の手による代行行為はやむを得ない。(ロ)生ま身の人間が同じ人間を裁くということは誤判のおそれがあるとする裁判官懐疑の論についてであるが、この懐疑の論を進めれば、軽微な犯罪はもとより一切の裁判は無罪で一貫しなければならないとの極論にも到達しよう。僅かな上訴者を除き、裁きを受ける殆んどの者が宣告刑に心服し、刑に服している実態をみれば、警察・検察・裁判への一般国民

の信頼・付託の念および姿勢は変っていない証左といえる。世上において片や永山事件という逆転死刑判決、片や免田事件という再審無罪判決という対照的な判示を前にして、国民に大きな戸惑いがあることは反響として否定できないが、それは巨視的にみて極めて稀な例外であって、例外でなければもはや裁判制度は存続し得ない。戸惑いながらも世論はむしろ沈黙し、より冷静であるのも、そうした受け止め方にある。

 

 

●死刑は必要(制度)

 

重松一義(しげまつかずよし)、中央学院大学教授、「死刑制度必要論」、信山社出版、1995年、p. 30

 

なぜならば、私は死刑制度は人類と獣類とを区別するレフリー、分岐点として存在すべきものとの認識にあり、たとえ千年、万年凶悪犯罪が起らぬとも、人類自身の戒めとして、錘しとして、法として掲げつづけて置くことが、人類の叡知であり、見識であり、人間の尊厳と考えるからに他ならない。法は存在すること、すなわち、たとえ適用されずとも厳然として存ることに意味があり、これほど重大な存在価値ある死刑制度を、時に試行、時に一時停止、時に暫定的廃止、そして復活すること自体に誤りがあると云わねばならない。死刑制度は恒星のごとく永久に存在してこそ人間の真価を問うものなのである。ひと口に言って、死刑の法条を法典から消去すれば社会の秩序が立ち、死刑廃止を看板として掲げれば文化国家の証しであるなどというほど、人間は、社会・国家は単純なものではないのである。現行法の運用状況を『犯罪白書』『司法統計』などでつぶさにみる場合、死刑適用率はきわめて厳格に絞られており、法定刑で死刑に該当する殺人百件に一件にも充たぬ一%以下の寛大な適用率にある。東洋の「罪を憎んで人を憎まず」という寛刑思想は、現代、一層具体的に生かされていることを再認識すべきであろう。それでも現行法上、凶悪の事実が死刑に該たると判断すれば、キッパリと死刑に該たると法的判断は示されねばならない。それが司法に託された公正な使命なのである。それが許されない、それが適用されない、それが執行されないというならば、そもそも執行できないものは法でも制度でもないと反論しなければならない。

 

 

●死刑廃止の押し付けは内政干渉

 

重松一義(しげまつかずよし)、中央学院大学教授、「死刑制度必要論」、信山社出版、1995年、p. 33

 

そもそも死刑廃止国が文化国家であり、死刑存置国が野蛮国で後進国などといったラベリング感覚は、文化国家を装う内政干渉のおせっかいな踏み絵であり、外面を取りつくろうメーキャップと云ってよいであろう。死刑に相当する犯罪が惹起するということは、その国にとりまことに不幸であり恥じ入ることであるが、国は異なっても人間の住む社会、それはあり得ること、起こりうることであり、自国の現実の社会悪に眼を向け、真っこうから立ち向かってゆくことこそが、内政としての、現実問題としての死刑採否の問題である。茫漠たる地球単位の国際条約で形だけの条文により死刑を廃止し、死刑に該たる犯罪を、例えば国連警察軍が海外派兵してまで監視し取り締まることは出来得ないのである。

 

 

●誤判は死刑廃止の理由のならない

 

重松一義(しげまつかずよし)、中央学院大学教授、「死刑制度必要論」、信山社出版、1995年、p. 78

 

しかし、誤判の問題は死刑に限らず、すべての裁判に係わる問題であり、これを理由とすれば全ての裁判を懐疑し否定しなければならない。そもそも誤判は公平適切な裁判として絶対にあってはならないことであり、最新の科学を採用し、誠実に事実の真相糾明に最善の努力を払うことにより誤犯防止につとめる以外になく、「疑わしきは罰せず」、所詮は、「適正な司法の問題」「デュー・プロセスの論点・追及点の領域問題」として解決されねばならぬ問題である。よって「誤判を防止するための対策は裁判制度全体として考えなければならないことであり、誤判の疑いが全くない事件についてもなお死刑を排すべきかどうか死刑廃止の問題ではなかったかという、問題のすりかえに対する批判もないわけではない」「廃止論の決め手とされる誤犯の問題についても、誤犯の可能性が僅かでもある以上死刑を行ってはならないという論理をもってして、誤犯の可能性の全くない凶悪事件の犯人をも死刑を免れさせることを正当づけることにはならないという論理に及ぶのである。

 

 

●イギリス、カナダも死刑を廃止していない

 

「死刑と情報公開(年報・死刑廃止99)」、インパクト出版会、1999年、p. 204

「国会での議論」死刑の必要性、情報公開などに関する第3回質問主意書

 

イギリスにおいては、反逆罪、殺意をもった暴行等を伴う海賊の罪及び一定の軍法上の罪について死刑を定めていると承知している。また、カナダにおいては、一定の軍紀犯罪、スパイ罪及び反乱の罪について死刑を定めていると承知している。これらの罪に当たる行為の中には、我が国における外患援助、殺人等の罪に当たるものがあると考えている。