住民投票 否定側証拠資料

以下の参考資料をディベートで使用する場合は、必ず原本にあたって、確認して使用してください。 

●子供達は、学んで身につけた「力」を生活の場で使おうとは思っていない

岡本夏木(京都女子大学教授)・浜田寿美男(花園大学教授)『発達心理学入門』(岩波新書、1995年)、p. 206

学校的能力を例にとって見ましょう。学校で身につけなければならないとされている力はさまざまですが、本来それらは皆、人が生きていく中で使い、そこで意味をもつものだと考えられています。しかし現実はどうでしょうか。

たとえば学校で日本国憲法を学びます。戦争放棄の理念を学び基本的人権を学びます。そのようにして学んだ知識や考え方がここでは「力」ということになります。しかし、子供達は学校で学んだこの力を自分の生活の中でどのように使っているでしょうか。もちろん学んだことが日々の生活の中に生かされていくように工夫している学校もあるでしょうし、また個々に努力している教師もおられるでしょう。しかし、現実的なところ、今の多くの子供達の意識の中では学んで身につけた「力」を自分の生活の場で使おうなどと思っていません。はっきり言って「力」を使うのは生活の場ではなく試験の場なのです。戦争放棄の条文が憲法第九条にあり、基本的人権の一つである思想及び良心の自由は第十九条にあるという知識が、試験の場で発揮できれば、それで事足れり、なのです。ここで力―活動―意味という連鎖には2つの種類があることに気づきます。

生活の場―実質的意味

憲法の知識→使う

試験の場―制度的意味

憲法を知り、その考え方に触れることで自分の身の回りの生活状況を見なおし、社会のあり方を問いなおす。そうであってはじめて力は実質的な意味を持ったことになります。

ところが今の多くの子供達にとって、そうした意味はどうでもいいのです。むしろ彼らにとって大切なのは、試験に出たときに正解を出して点数をもらうことなのです。それによって希望の上級学校に入れるかどうかが決ります。子供達にとって切実なのはこちらのほうの意味です。学校というところを渡って行くその節目節目で試験と言う制度があり、これをどうくぐりぬけて行くかで自分の一生の進路が決定される、そういうことを重々知っている子供たちにとって、学校で学ぶ力は生活上で実質的な意味につながらなくとも学校制度の網の目を渡っていくという制度的な意味をもてば十分なのです。

●青年期においては、社会的条件に調和できる思考力、感受性、行動力などの社会性が未成熟

吉田辰雄(東洋大学教授)『児童期・青年期の心理と生活』(日本文化科学社、1990年)、p. 33

(青年期を11、12歳から22、23歳までととらえた上で)

社会性の発達とは、円滑な対人関係や社会的活動に能動的・協調的に参加できる社会的適応行動のことをいうが、青年期においては、こうした社会的条件に調和できる思考力、感受性、行動力などの広い意味での社会性が未成熟である。

●日本の若者が年齢を下げても投票に行くかどうか疑問

『静岡新聞』2003年1月5日付

トークバトル=「大人って何歳から」インタビュー(河合代悟さん/静岡産業大教授)

 「われわれの学生時代は良い悪いは別にして学生運動が盛んでした。高校時代は弁論部に所属して、サンフランシスコ平和条約は全面講和がいいか、否かなど議論をぶっていました。当時はどの高校にも弁論部があって、弁論大会では一般の生徒も聴きに集まってきました。インドネシアや韓国では学生が政治に対して大きな力を持っています。昔の学生や外国の若者と比べると、果たして今の日本の若者が年齢を下げても投票に行くかどうか正直いって疑問です」

 ―中学生にも住民投票の資格を与える条例を可決した自治体もあります。投票権年齢を引き下げるとしたら何歳までとお考えですか。

 「諸外国の例のように十八歳以上とすべきでしょう。十八歳といえば高校を卒業して大学に進学するか、社会人として働き出す年齢。一つの区切りとしては適当な年齢といえます」

●住民投票のデメリット

原田尚彦(はらだなおひこ、東京大学名誉教授)『地方自治の法と仕組み 全訂三版』(学陽書房、2002年)、p. 263

しかし、直接民主主義への回帰、とりわけ住民投票の多用化が地方自治の永続的発展の視点からみたとき、地方自治の活性化・持続的発展の妙薬となりうるかは疑わしい。住民投票制度には、いくつかの点で憲法や地方自治法に抵触する疑いがあるが、その点はさておくとしても、住民投票は元来かなりプリミティヴな政治的意思統合の技法であり、純然たる政策論としてみても、複雑かつ専門技術化した現代の自治行政上の難題を決定するのに、ふさわしい手続とはいいがたいところがあるからである。

 ちなみに、諸外国のこれまでの経験に照らしても、住民投票の場合には、@十分な資料や情報にもとづく冷静かつ多面的な討議が浸透しにくく、いきおい煽動家やマス・コミによる大衆操作の影響を受けやすい。A住民投票の動向は、一時の情熱や偶然的要素に左右され、政策的に一貫性を欠いた予想外の結論を招くことがある。しかも、B国民の声だとはいえ、勝敗はたいてい僅差で決まり、かえって国民の間にしこりを残す結果になることが多い。にもかかわらず、C住民投票の結果に責任をもつ者は存在しない(集団が統合を維持していくには、非難の対象となる「ムチ打たれボーイ」がいわばガス抜きの手段として必要とされる)。D住民投票でいったん事が決まってしまうと、再び住民投票にかけなければこれを覆すことが困難で、事態が硬直化するなどの欠陥が露呈してきた。スイスなどでも住民投票への情熱が薄れ投票率がかなり低下してきているといわれている。

●専門家を代表者に選任する間接民主主義によらざるをえない

原田尚彦(はらだなおひこ、東京大学名誉教授)『地方自治の法と仕組み 全訂三版』(学陽書房、2002年)、p. 78

住民自治の理念を実現するには、地城住民が住民総会とか住民投票といった直接民主主義の手段に訴えて、直接行政に参加するのが、もっとも直裁的な方法である。理念的・観念的には、直接民主主義が、地方自治の理想とみられることであろう。

 しかし、現在のように自治体の規模が広域化してくると、技術的にみて直接民主主義の実現は困難である。それに加え、社会の複雑性が増し職能の分業化が進んで、日常生活においても専門化した技術や知見が要求される現代の高度技術社会においては、住民が直接民主主義の方式で地方行政に参与し、個々具体の行政案件について一貫性と展望性をもって賢明な選択をしていくことは、容易でない。地方行政においても、素朴な素人行政は、もはや過去のものとなった。地域の利益を守るには、好むと好まざるとにかかわらず、それにもっともふさわしい専門家を代表者に選定して、一定期問、これに行政を委ね、総合的視点から代表者の責任を問うという、代表(間接)民主主義の方式によらざるをえなくなっている。

●専門分野を専門家に委ねた方が良い

●住民投票に委ねて決定するのは長や議会の権限を侵害する

●健全な地方自治の発展が持続可能かどうか心許ない

原田尚彦(はらだなおひこ、東京大学名誉教授)『地方自治の法と仕組み 全訂三版』(学陽書房、2002年)、p. 80

現行の地方自治は、間接民主主義を基本とし、直接民主主義の諸制度は、間接民主主義体制を補完しその欠陥を矯正するために限定的に認められた例外的制度にとどめている。だが、最近の風潮のなかには、地方自治の主権者は住民であるとの理念を直線的に適用して、地方行政に関する重要案件はできるだけ住民意思の直接の発動によって決定すべきであるとし、地方自治行政の重要課題については、住民投票の導入を推奨する風潮がみられる。しかし、そうした見方が、政治的運動論としてはともかく、法律論として無条件に妥当といえるかは疑わしい。

 というのは、近代国家で間接民主主義が発達したのは、たしかに物理的ないし技術的に直接民主主義の実現

p. 81

が困難になったためである。だが、そのほかに、高度に専門分化し分業体制がとられる現代社会においては、それぞれの専門分野を専門家に委ね、総合的視野に立ってこれを一貫して実施させるのが妥当であるという基本認識があったこともまた忘れられてはならない。現行法のたてまえからみても、個別重要課題をアド・ホックに住民投票に委ねて決定するのは、長や議会の権限を侵害し制度の基本を揺るがせにするおそれがあり、その適法性に疑問がもたれる。さらに政策論としてみても、一貫性、展望性に富んだ総合行政が個別問題ごとの住民投票によって維持できるかどうか、健全な地方自治の発展が持続可能かどうか心許ない。

●国民は政策の総合的批判者ではありえても、個別の政策を決定する能力はない

原田尚彦(はらだなおひこ、東京大学名誉教授)『地方自治の法と仕組み 全訂三版』(学陽書房、2002年)、p. 265

こう考えると、現在、地方自治行政の停滞と機能不全を打破するために望まれるのは、直接民主主義への回帰というよりも“間接民主主義の活性化”である。

 住民投票もときにはそのためのショック療法として有用かもしれないが、複雑多面化した現代社会においては、国民(フツーの市民)は政策の総合的批判者ではありえても、一貫性・展望性をもって個別の政策を企画・立案・決定する余裕や能力をもっていない。住民参加によって官僚機構に新風を吹き込み、政策論議を実り多きものとすることは、もとより大切であるが、安心して住める地域社会を形成する権限と責任は、長と議会そしてそれを支える職員に託されているとみるほかはない。自治体関係者が、自信をとり戻し、その責任と決断とにもとづいて与えられた制度・機構を最大限に活用し、住民福祉の最大化をはかる実践的努力を地道に積み重ねるところに、持続的でたくましい地方自治の起動力が見出されることを忘れてはならない。住民には為政者の動きをジックリ監視し適正に批判して本物を見極める眼が求められる。

●住民が直接民主主義の方式で、行政案件について選択をすることは、ほとんど不可能

八木秀次(やぎひでつぐ、高崎経済大学助教授)『論戦布告 日本をどうする』(徳間書店、1999年)、p. 184

 近代国家では産業化・情報化・国際化・福祉国家化等によって政治の役割は膨脹の一途をたどっている。その上、人々の分業化が進み、日常生活においても専門化した技術や知見が要求される高度技術社会においては政治運営にもますます専門的能力が必要とされるようにもなっている。今日の政治はとても素人談義では埼(らち)があかないほどに複雑化しており、古代ギリシアほどには社会が単純ではない。つまり直接民主主義の前提である誰でも政治運営ができるという「代替可能性」はここには存しない。

p. 185

 この点は地方行政も同様で、住民が直接民主主義の方式で地方行政に参与し、個々具体的な行政案件について一貫性をもって賢明な選択をすることは、ほとんど不可能になっている。ここに好むと好まざるとにかかわらず、政治運営の専門家たる政治家を必要とする理由がある。

 今日では国家や地域の利益を守るためにはそれに相応しいテクノクラートを代表者に選定して、一定期間、これに行政を委ねるという間接民主主義・代表民主主義の方式によらざるを得ないのである。

●大衆は気まぐれで目先の利益や自己の利益のみを追求する傾向にある

八木秀次(やぎひでつぐ、高崎経済大学助教授)『論戦布告 日本をどうする』(徳間書店、1999年)、p. 188

 しかしながらこれについては大衆社会論の研究成果を持ち出すまでもなく明らかである。人類の歴史の教えるところは、大衆は気まぐれで目先の利益や自己の利益のみを追求する傾向にあり、政策の総合的批判者にはなりえても、一貫性・展望性をもって個別の政策を企画・立案する余裕も能力も持ちえないということである。間接民主主義は直接民主主義に対する懐疑の上に成り立っているといわれる所以である。

●民衆は、政策について分析・予測・評価する能力は持ち合わせていない

西部邁(にしべすすむ、評論家)「直接民主制の恐怖」『THIS IS 読売』1996年10月号、p. 40

 議会制民主主義が議員の無知、怠惰、卑劣、傲慢によって機能しなくなったので、住民や国民の直接投票によって政策決定を推進するしかなくなったといわれている。日本国憲法という下らぬ法律にすら規定されているパーラメンタル・デモクラシーつまり議会制民衆政を、護憲をひたすらに唱えてきた戦後民主主義者が公然と踏みにじるに当たって、持ち出される口実は「議会の腐敗」という一事である。

 これは黒を白といいくるめる三百代言の科白だ。議員を選んだのは、ほかでもない、民衆なのである。腐敗した候補者しかいなかったというのは言い逃れにすぎない。清潔この上ない民衆のうちの誰かが立候補すればよかっただけのことである。健全な代表者を選出する能力すらない自分たちに、なぜ、個別具体的な政策について健全な判

p. 41

断力が備わっていると考えることができるのか、莫迦も休みやすみいえとはこのことである。代表者の人格・経験・識見についてならば、民衆は、おのれらの普通の人生体験にもとづいて、その可能性をおおよそ判断できるであろう。少なくとも、そうみなしているという意味で、議会制民衆政は民衆に信を寄せている。しかし多くの場合、政策について分析・予測・評価する能力は民衆は持ち合わせていないとみなしているという点では、それは民衆に疑を差し向けている。この民衆にたいする信頼と懐疑との境界線上に議会が設立されるのである。

●住民とはいったい誰のことか

西部邁(にしべすすむ、評論家)「直接民主制の恐怖」『THIS IS 読売』1996年10月号、p. 42

新潟県巻町の住民投票が原発反対に大きく傾いたについては、いわゆる新住民が大きな役割を果たした。つまり、新潟市から移住してきた若い世代の票が原発反対に集中したということである。極論となるのを恐れずにいえば、旧住民の原発賛成が新住民の原発反対によって覆されたわけだ。ここで、住民とはいったい誰のことぞ、と問わずにはおれない。

●住民投票は衆愚政治

富野暉一郎(島根大学法学部教授/元逗子市長)「シンポジウム「市民自治・主権在民と住民<国民>投票」『住民投票』(日経大阪PR、1997年)、p. 60

 町の実態が見えてないところで「私はこうしたい」と主張しても、見えている行政は「あなた何言ってんの」と相手にしない可能性が非常に大です。したがって、行政から情報をどう引き出し、それをわれわれがどう共有できるかということこそ問わなければならない。「情報公開制度を作って行政が情報を私たちに渡してくれればいいじゃないか」なんて、言っても、それさえ利用しないケースがほとんどでしょう。つまり、みなさんは怠け者でもあることを自覚すべきで、行政に要求しているだけじゃ駄目なんです。住民投票を安易に考えてほしくない論拠の一つです。

 もう一つは「エゴイスティック」の中身です。例えばスポーツ団体は競技場を作ってくれ、文化なんかどうでもいいと要求する。福祉団体は弱者のことしか考えない。もう自分の要求しか頭にない。それで要求が満たされないと行政批判だけしてそれでおしまい。要求も無責任なら、批判も無責任。自分自身で問題を解決する気はあるのかと言いたくなります。こういう状態で住民投票やったらどうなります?エゴを実現するために住民投票をやることになりかねない。住民投票は駄目って言うんじゃないんですよ。こういう現実が一方であるから、こそ、衆愚政治だと言われる面も確かにある。このことを自覚しておきたいのです。

●地域住民はエゴイズムによって住民投票をする

『読売新聞』1996年8月6日付

〔住民投票で〕『原発ノー』とした巻町も電源のない電力消費地である。皮肉なことに東北電力巻営業所管内の一戸あたりの家庭用電気消費量は東北トップ。巻町には地域エゴの面が全くないとは、〔原発〕反対派も断言はできないはずだ。

●一般住民は、地域社会を超えた国家や世界の問題に関する判断力を持っていない

佐伯啓思(京都大学教授)、『THIS IS 読売』1997年10月号、p. 39

日々の暮らしに追われ、日常の生活の中で我が身に降りかかるささいな物事の処理にあくせくしている『普通の人々』がもつ政治的な自覚とは何か。当然のことながら、この『普通の人』の政治的自覚は、日本の行く末を案じ日本の世界史的役割について一家言をもつというような種類のものではないだろう。〔…中略…〕世界における日本の役割や日本の安全保障といった『大きな政治』ではなく、日常的で私的な不都合や利害やらを政治的自覚にまで高め政治化すること、ここに『下からの政治』がある。

●住民投票では与えられる情報も扇動的で誤ったものになる

『読売新聞』1996年8月5日付

〔巻町の住民投票の〕第二〔の問題〕は、巻町で展開された原発賛否をめぐる論争の在り方だ。原発の安全性については、感情的な否定論が目立ち、すれ違いに終始した。しかも、国の原子力円卓会議での原子力委員会代理の発言が、一部の間違った報道をもとに『過疎地は電力の大消費地である都会の犠牲になれ、と本音をはいた』というような、住民感情を逆なでするような過激な言葉にすり替えられ、宣伝された。

●住民投票は民意を反映する制度にはなりえない、かえって官僚による支配を強化する

大山礼子(聖学院大学教授)『住民投票』(ぎょうせい、1999年)、p. 113

住民投票の実施状況をみると、住民投票が果たしてテクノクラシーの排除に効果をもつのかどうかは疑問だ。とりわけ行政主導の住民投票の場合は、議会の関与を排除することによって、むしろテクノクラシーの強化につながる可能性すらある。

●国政レベルのものなどについては、自治体の住民投票で取り上げるべきではない

坂田期雄(さかたときお、東洋大学教授)「住民投票とその限界」『地方自治の論点101』(時事通信社、1998年)、p. 188

 まず、第一は、住民投票には、これに適しているものと適さないものとがあるということである。それぞれの地域で完結する問題、その地域の住民投票で決着が図れるもの―例えば市町村の合併問題などならばよいが、その地域内で完結しない、他の地域にも影響が及ぶもの、国政レベルのものなどについては、自治体の住民投票で取り上げるべきではない。

 例えば基地を持つ全国の自治体がその可否を相次いで住民投票に問うたらどうなるのか。いたずらに混乱を増すだけで、何ら問題の解決にはならない。また、原発建設もその地域の人たちの住民投票だけによって決するとなると、国のエネルギー政策は立ちいかなくなろう。

 この点、廃棄物問題はどうであろうか。原発が国

p. 189

のエネルギー政策と直接結びついた問題であったのと異なり、これは制度上は地方自治体レベルの問題(産業廃棄物は都道府県、一般廃棄物は市町村の事務)といえる。しかし今日、多くの自治体ではもはや廃棄物の適当な処分場がなく、全国的に相当広域の範囲にわたって業者を介して移送、処分を行い、各地で問題が生じてきている。このような状況の中で、廃棄物処理はもはや個々の自治体では完結できない問題となってきている。

 したがって、個々の自治体ごとに受け入れの賛否について住民投票が行われるとなると、全国的に大変な混乱を生ずるだけでなく、事態の根本的な解決には何ら役立たない。これはどうしても、ひろく国、県に責任のある問題として取り組まれることが求められてきているといえよう。

●住民投票には、十分な討議、討論が住民との間で必要

坂田期雄(さかたときお、東洋大学教授)「住民投票とその限界」『地方自治の論点101』(時事通信社、1998年)、p. 189

 第二は、仮に投票という形で住民の意向を問うにしても、このような大変重要な問題をはらんでいるものについては、当然、投票に先立ってそれを判断するのに必要な情報の公開が国民(住民)に十分に行われ、またそれをどう考え、どうとらえるかという論議が国民各層の間で幅広い視点から展開される必要があるということである。

p. 190

 巻町の原発などの問題をみても、この大事なことがほとんど行われず、いきなり「是か非か」を問うということは、大変短絡的な荒っぽいやり方であった。住民投票にあたっては、本来その前段階においてその問題についての十分な討議、討論が住民との間で尽くされることが絶対に必要であり、住民投票はいわば最後の“アンカー”として出番を迎えるべきものである。

 そうでないと、仮に賛否の住民投票が先走って行われても、いたずらにしこりが残るだけで、何ら問題の解決にはならないであろう。

●迷惑施設について、住民投票だけで決着をつけることは無理

坂田期雄(さかたときお、東洋大学教授)「住民投票とその限界」『地方自治の論点101』(時事通信社、1998年)、p. 190

 第三は、このようないわゆる迷惑施設(原発も基地も)については、そもそもその設置の存否を住民投票によって決めることがもともと難しいものだということである。

 これはごみ焼却場などの迷惑施設についても同じだが、それは国民全体あるいは地域全体では必要(有用)なものだが、その施設の近くの人たちにとっては迷惑(不要)なものとなる。つまり「全体(広い地域)の利益」と「部分(狭い地域)の利益」とが衝突するわけである。そしてこの場合、住民投票の範囲を「狭い地域(部分)」を単位にして行えば当然「反対」という答えとなる。逆に「広い地域」(全国とか一つの県など)を単位に行えば、おそらく「賛成」の票が多くなってこよう。

 したがって、このようなものについてはそもそも住民投票だけで決着をつけることは無理である。これを解決するには、原発や廃棄物問題にあっては、まずその地域で公害が発生することがないよう完全な防止策を講ずる必要がある。さらに「部分の人たち」だけが犠牲を背負うことのないよう、利益を受ける「全体の人たち」の負担(税金など)で部分の人たちにも何らかの見返りを与えることによって「全体」と「部分」との共生の道を考えていくことが基本的に重要だといえよう。

●住民投票は間接民主制の、あくまでも“補完”

坂田期雄(さかたときお、東洋大学教授)「住民投票とその限界」『地方自治の論点101』(時事通信社、1998年)、p. 190

 第四は、間接民主制と直接民主制との関係である。今日、わが国は間接民主制が基本となっているが、国民の意識や価値観が多様化してくると、この間接制だけでは国民(住民)の多様なニーズを十分に吸収することは困難となってくる。そこでこれを補完するものとして、ときに直接民主制を用いることが考えられる。

 しかしそれはあくまでも“補完”であり、間接民主制にとって代わるものではない。最近、住民投票のような直接民主制が最も進んだ地方自治の形態であるかのような持ち上げ方が一部でなされているが、これは大変危険な考え方である。

●巻町や沖縄で住民投票が持ち上がってきた背景には、国の側にも大きな責任がある

坂田期雄(さかたときお、東洋大学教授)「住民投票とその限界」『地方自治の論点101』(時事通信社、1998年)、p. 191

 第五には、今回、巻町や沖縄で住民投票が持ち上がってきた背景には、国の側にも大きな責任がある。国は、原発問題にしても基地問題にしても、あまりにも秘密主義で、国民に開かれたものとして訴える姿勢に著しく欠けていた。国に対する国民、住民の大きな不信感が根強くある。さらに動燃の事故などの発生で、そのずさんとさえみられる管理体制に国民は大変な不安感と不信感を募らせている。

 今後は、国の方から積極的に情報公開を行い、国策としてのエネルギー政策や安全性の問題、また安保基地の問題を、国民、住民とともに考えていく姿勢に転換することが求められる。「国政レベルの問題だから」「国策だから」という押しつけでなく、国と地方との間での問いかけと応答を通じて、どの地域も犠牲にならないような共生策を真剣に考えていくことがぜひとも必要であろう。

 このことは、産業廃棄物問題についても同様である。今日、これほど深刻な問題となっているのに、これに対する国、県の姿勢のあいまいさ、何ら手も打たないで、もっぱら自治体と業者にまかせきりにし、放置同様の状態としている国、県の無策ぶり、さらに手続きの不明朗さ、秘密主義、情報の非公開、そういうものに対する市町村や住民の不信感が根強くある。最近の住民投票は、こういった地方住民の不安、中央へのうっせきした不信感を、中央にぶつけるための一つの手段として使われたともいえよう。

●マイノリティ(少数派)の権利が侵害されてしまうのではないかという懸念

岡田信弘(北海道大学教授)「<座談会>「住民投票」の挑戦と課題」『ジュリスト』1103号、1996年、p. 24

アメリカの住民投票の例を見ても、あまりよい面だけではないわけです。今回のカリフォルニア州の住民投票に、アファマティブ・アクションの廃止がかけられるようですが、こうした問題で住民投票や国民投票が安易に行われると、マイノリティ(少数派)の権利が侵害されてしまうのではないかということが、一つの懸念としてあります。

●住民投票には多数者が少数者を抑圧するための手段になってしまう可能性が多分にある

今井一(いまいはじめ、ジャーナリスト)『住民投票』(岩波新書、2000年)、p. 192

 住民投票が少数者を抑圧するための手段になるのではと懸念する人は、住民投票肯定派の中にもたくさんいる。私もその一人だ。ときおり、各地の住民から私のところに「住民投票をやりたいので協力してほしい」という要請があるのだが、その中には「痴呆老人を含む要介護者の施設」や「知的障害者の施設」が近所に建設されるのを阻みたいというものがある。こうい

p. 193

った相談を受けたとき、私は対応に窮してしまう。

 次の節でも触れるが、社会的弱者や少数者を保護するために住民投票にかけてはいけないテーマ(案件)を設けるべきなのか、それとも一切制限せずに主権者である市民の叡知にすべてを委ねたほうがいいのか。議論が分かれるところだ。もし、多くの住民が自分のことだけではなく、他者への思いやりを持ちながら、社会全体の利益を考慮して一票を投ずるというのであれば、基本的にどんなテーマを住民投票にかけても問題はないのだが、その高みに達していなかった場合には、多数者が少数者を抑圧するための手段になってしまう可能性が多分にある。

●住民投票に拘束力を持たせるには、対象事項を相当程度絞り込まなければならない

木下英敏(国立国会図書館専門調査員)「住民投票をめぐる問題点とその可能性」『地方自治』624号、1999年、p. 8

 住民投票制度に拘束力を持たせる制度を想定すれば、対象事項は相当程度絞り込まなければならない。基本的には直接民主制が間接民主制よりもうまく機能するような場合に限定することが望ましいが、しかし、その選別、限定の仕方は容易ではない。いかなる事項を対象とするか(ポジティブリスト)、又は除外するか(ネガティブリスト)、そのどちらか一方から限定しようとしても実際の適用に際しては判断に苦しむことも多いと考えられることから、その双方から列挙した併用方式とする方が適当であると思われる。

 ポジティブリストとしては、さしあたって、地方公共団体の合併、境界変更、住居表示に関する事項、あるいは地域の活性化に資するイベントや住民すべてに平等に関わり合いのある公共施設などが考えられる。

 ネガティブリストも簡単ではないが、通常、地方公共団体の権限に属しない事項、一般的な公共事業、高度の技術的・専門的事項で住民の判断になじまないもの、予算・決算・税その他行政の内部組織に関する事項などが考えられる。また、多様な可能性・発展性をもつもので二者択一では割り切れないもの、その利害が専ら一部住民又は特定地域に関わるものなども、間接民主制の手法での解決こそがベターであって、対象から除外するのが適当と思われる。

 住民投票を制度的に整備するということは法的拘束力をもたせるためである、と通常考えられているが、逆にそのために、対象事項に以上のような窮屈な限定をおかざるを得ない。しかも、限定の仕方そのものが難しく、法規の上では抽象的表現にならざるを得ず、その性質上具体的場面では解釈、運用がまちまちとなる可能性を否定できない。

 決定型は法的整備を前提とするが、法的整備にあたっては、決定型でなければならない必然性は、必ずしもな

p. 9

い。諮問型もあり得ると考えられる。諮問型なら拘束力がないため対象事項の選定にあまり神経質にならなくて済む。そこで一案として、厳選された特定事項に関してのみ拘束力をもたせることとし、その他の案件については諮問型とする整理の仕方もあり得る。あるいは、決定型をすべてあきらめ、当面、諮問型だけで割り切るというのも一策かもしれない。ただ、その場合には、諮問型だけなら現行のような条例での運用が可能なのであるから、あえて法的整備をしなければならない必然性が問われることとなる。

●諮問型が望ましい

上田道明(うえだみちあき、近畿大学非常勤講師)『自治を問う住民投票』(自治体研究社、2003年)、p. 217

 投票実施までのハードルの高さとともに、住民側から不満の種となっているのが、投票結果に拘束力が伴っていないことである。実際、住民投票の結果は必ずしも「尊重」されていない。産廃については半分以上のケースで結果が活かされてなく(第二章注13)、他にも名護市ではヘリポート基地が建設の方向に向かっており、また刈羽村ではプルサーマル計画が実施に向けて事態は動きつつあった。

p. 218

 このような現状が拘束型の住民投票を求める声につながっているのであろうが、筆者は諮問型が望ましいと考えている。一つには、拘束型での制度化はポジティブリストという形であれネガティブリストという形であれ、対象事項の大幅な制約が予想されることがあるが、もう一つには、拘束型が「議会の無責任を促す」だけでなく、住民の関心を住民投票へとシフトさせ、その限りにおいて議会改革がなおざりにされてしまう危険性があるからである。

 しかし、議会改革をすすめること、あるいは代表民主政を機能させることは軽視されるべきでない。その点、諮問型であれば、十分な説明責任を果たすことなく、住民投票の結果を「尊重」しないような首長や議員を住民が選んでしまう可能性もあるわけであり、住民が選挙で代表者を選ぶ際に一つの緊張感を作ることが可能である。

●住民投票の投票資格者については、公選法に準じて取り扱うのが適当

木下英敏(国立国会図書館専門調査員)「住民投票をめぐる問題点とその可能性」『地方自治』624号、1999年、p. 9

 第一に、住民投票の投票資格者については、公選法に準じて取り扱うのが適当と思われるが、定住外国人や一八才以上の者にも投票資格を認めてよいとする議論もある。しかし、少なくとも決定型の住民投票にあっては、公職の代表を決める選挙人と団体意思を決定する選挙人が異なる結果となり、法制度として一貫性を欠くこととなる。また、財政負担、効率性等を考慮して公職選挙と併せて執行される場合を想定すれば、両者で選挙人が違ってはさまざまな不都合を生ずることが考えられ、諮問型を含め公選法に準じた取り扱いとした方が無難といえよう。

●スイスの例は日本に当てはまらない

山内健生(大阪市経済局参事)「ドイツにおける国民投票制度及び市民投票制度について(二)」『自治研究』第73巻第8号、1997年、p. 92

 第一に、スイスは、直接民主主義を国制の中核に据えている唯一の近代国家であり、あくまでも代表制民主主義を国是とし、それを補完するものとして直接民主主義的な更素の導入が検討されているドイツなど他の国々とは、制度の位置づけが根本的に異なっていることである。

●直接選挙によって選ばれた町長には、反対であっても従うのが民主主義のルール

舛添要一(ますぞえよういち、国際政治学者)「巻原発「住民投票」は駄々っ子の甘えである」『諸君!』1996年10月号、p. 68

 町民によって正当に選挙された町議会が、そして町民が直接選挙によって選んだ町長が決定したことには、たとえそれに反対であっても従うのが民主主義のルールというものである。その手続きが住民投票によって無視されるとすれば、それこそ巻町の民主主義は危機に瀕していると言ってよい。町民の直接選挙によって選ばれた町長の正統性はいわずもがな、町議会が多数決原理にもとづいて決めたことが軽んじられ、住民投票のほうが正統性において上であるかのような錯覚を持つとしたら、代議制民主主義は成り立たない。

●直接民主主義は独裁に正統性を与える危険性がある

舛添要一(ますぞえよういち、国際政治学者)「巻原発「住民投票」は駄々っ子の甘えである」『諸君!』1996年10月号、p. 68

二〇世紀のドイツにおいて、「選挙では味わえない充実感」を求めて、犬衆がたどり着いた先は、天才的デマゴーグ、ヒトラーである。ニュルンベルクのナチ党大会において、「ハイル、ヒトラー!」と叫ぶ何十万という大衆は、確かに「選

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挙では味わえない充実感を感じとった」であろう。しかし、この現代の独裁の帰結は、ユダヤ人の大量虐殺であり、戦争であった。直接民主主義は独裁に正統性を与える危険性がある。そのリスクを回避する知恵のひとつが、間接民主主義、代議制民主主義なのである。

●政党政治への不信こそが、「民主主義が自殺するとき」につながる

舛添要一(ますぞえよういち、国際政治学者)「巻原発「住民投票」は駄々っ子の甘えである」『諸君!』1996年10月号、p. 69

 「『政治危機』なる用語が徐々に広がり始めた。国民の意識の底流に、議会制度や民主主義は早晩、破産するだろう、政党によっては何も改善、改革できないだろう、という雰囲気が忍び込み始めていたのである」(ハインツ・へーネ『ヒトラー独裁への道』朝日選書、一九九二年)―これは今の日本のことを言っているのではない。一九二九年から三〇年にかけてのワイマール共和国の状況を描写したものなのである。ヘーネがいみじくも言ったように、政党政治への不信こそが、「民主主義が自殺するとき」につながるのである。

●国家的規模で行われる国民投票は危ない

屋山太郎(ややまたろう、政治評論家)「大田知事は民主主義を破壊する気か」『THIS IS 読売』1998年4月号、p. 80

 国家的規模で行われる住民投票が国民投票であるが、これほど危ない制度はないのである。

 一七九九年にナポレオンはクーデターによって権力を掌握し、第一統領になり、そして終身統領(一八〇二年)、さらに皇帝(一八〇四年)になるが、これらはすべて人民投票に訴えてなったのである。

 ヒトラーは、人民投票を一九三三年に国際連盟から脱退する際も、三四年に首相と大統領を兼ねる際も利用した。三八年には、ドイツとオーストリアの合併も人民投票によって

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合法化した。

 こういう歴史があるから、第二次大戦後の西ドイツ基本法(憲法)は、民意不信に基づき直接投票をまったく排し、代議制民主主義に立ち戻ったのである。

●社会主義勢力が住民投票を利用して勢力拡大を図っている

『産経新聞』2003年1月15日付

【住民投票】第3部 識者に問う(3)高崎経済大助教授 八木秀次

 「『人民』という能動的な市民が政治の権力を持つべきという考え方。『国民』ではなく『人民』だから、国籍も年齢も問わない。そこから、外国人や中学生に投票権を与えようという発想が出る。一見、幼稚なポピュリズム(大衆迎合主義)のようだが、実は、その陰には社会主義勢力がある。議会で多数を占められないこうした勢力が、住民投票を利用して勢力拡大を図っている。

 たとえば、米軍基地が問題になった沖縄県や名護市の住民投票では、社会主義勢力が反基地運動を展開した。住民投票というのは『住民の意思』を錦の御旗にした新たな政治運動というわけだ」

 「だからこそ、『住民の意思』という一見、正しそうなものを前面に立てて、社会主義とは関係ないような顔をしている。しかし、その本質は『マルクスを使わない社会主義』といってもいい」

 「住民投票を定着させ、次々とテーマを拡大する。住民を『政治に参加させている』という気分にさせて、巧みに扇動し、社会主義の目的を達成する。そうしていつのまにか権力を握る。これは独裁者の古典的なやり方だ」

●公選法の適用外である住民投票は、公選法の厳しい規制の下での選挙と同列に扱えない

舛添要一(ますぞえよういち、国際政治学者)「巻原発「住民投票」は駄々っ子の甘えである」『諸君!』1996年10月号、p. 70

 ところが、今回の住民投票は公選法の適用外である。そこで、戸別訪問はおろか、テレビやラジオのCM、ビラの配布など、何でもござれで、どの家庭も五回くらいは、賛成、反対両陣営から訪問を受けているのである。そのような「自由な」運動を展開した後の投票と、公選法の厳しい規制の下での選挙とを同列に扱うことはできまい。今日の日本の有権者の成熟度からして、前者の方が後者よりも正統性において上だなどと言うわけにはいくまい。もちろん巻町の住民投票条例も、「買収等町民の自由な意思が拘束されるもの」は排除しているが、罰則規定はないのである。もし住民投票の結果が原発賛成派勝利ということになっていたとしたら、必ずや「金権投票」、「東北電力のカネに支配された腐敗投票」といった批判の声があがり、投票の正統性が問題にされたことであろう。

●住民投票によって国の政策を拒否することは、駄々っ子の甘え以外のなにものでもない

舛添要一(ますぞえよういち、国際政治学者)「巻原発「住民投票」は駄々っ子の甘えである」『諸君!』1996年10月号、p. 72

 人口三万人の町が住民投票によって国の政策を拒否することができるとすれば、残りの一億二五〇〇万人の日本国民はどこでどのように自らの意思を表明すればよいのであろうか。国会や国会議員は何めために存在しているのであろうか。条例に基づく住民投票によって国会の決定を反古にすることが可能であるならば、国会は不要であり、日本国憲法は踏みにじられることになる。ある地域が国の政策に対して反乱を起こすときは、最終的にはその国から独立する覚悟がなくてはならない。国からの補助金は懐に入れる、しかし国の政策には反対するというのでは筋が通らないし、それは駄々っ子の甘え以外のなにものでもない。

●人権や自然権は自分以外の他の日本国民にもある

舛添要一(ますぞえよういち、国際政治学者)「巻原発「住民投票」は駄々っ子の甘えである」『諸君!』1996年10月号、p. 72

 ところが、このようなことを言うと、住民投票賛成派が持ち出してくるのが、人権、自然権という主張である。つまり、原発のない町で生活する、基地の重圧から解放されることこそが人権を守ることであり、それこそが憲法以前の自然権だというのである。この主張は俗耳に入りやすいが、人権や自然権は自分以外の他の日本国民にもあることを忘れている。電気のある快適な文明生活を送ることも、外敵の侵略から生命や財産を守ることも、人権であり、自然権である。これら相対立する人権や自然権を調整することこそ政治の仕事なのである。ところがその政治が、このところあまり機能していないために、国民の間に閉塞感が広がっている。そして、その閉塞感が、大田知事のような「地方の反乱」の旗手をヒーロー視する風潮を生んでいるのである。

●「原発立地反対」と叫ぶのは無責任の謗り

西部邁(にしべすすむ、評論家)「直接民主制の恐怖」『THIS IS 読売』1996年10月号、p. 44

 原発を例にとっていうと、自分らの地域が原子力発電所の立地点になることに嫌悪を感じぬものはめったにいないであろう。しかしその嫌悪感を直接的に表現して、「当地での原発立地反対」と叫ぶのは無責任の謗(そし)りを免れない。そんなことが罷り通るのなら、あらゆる地域が、新規の原発についてのみならず既存の原発についても、拒絶するという事態になるほかない。その結果、いうまでもなく、日本のエネルギー使用が三分の一減少する、もしくは石炭エネルギーの大量使用によって環境汚染が甚だしい水準に達する、といった惨状になる。

●米軍基地の縮小や撤廃のみをテーマとする住民投票には公共性が欠けている

西部邁(にしべすすむ、評論家)「直接民主制の恐怖」『THIS IS 読売』1996年10月号、p. 45

 沖縄の住民投票についても同じことがいえよう。当地における米軍基地の縮小や撤廃のみをテーマとする住民投票には公共性が欠けているといわざるをえない。米軍基地をなくすかわりに日本軍の基地を増やすべきかどうか、米軍基地を日本

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国内におきつづけるとすれば沖縄の代替地をどこにすべきか、また日本の軍事協力を今後どのように改変していくべきであるのか、といったようなことにかんする何らかの積極的な提案がなされないかぎり、その投票は、しょせん沖縄の私的利害のみにかかわるという意味で、地域エゴの一種といわれても致し方ない。

●国家的見地に立って判断しなければならない問題に、住民投票はなじまない

屋山太郎(ややまたろう、政治評論家)「大田知事は民主主義を破壊する気か」『THIS IS 読売』1998年4月号、p. 81

 九六年九月、沖縄の米軍基地縮小を求める県民投票が行われた。同年八月には新潟県・巻町で原子力発電所建設計画の是非を問う住民投票が行われている。しかし、基地やエネルギーなど国家的見地に立って判断しなければならない問題に、住民投票はなじまないと知るべきだ。

●体質の改善こそが、住民投票の導入に先立って必要

坂田期雄(さかたときお、西九州大学教授)「住民投票と間接民主制、どう考えるか」『新地方自治の論点106』(自治通信社、2002年)、p. 228

 このほか、わが国には欧米諸国と違い、まだ住民投票を実行できる社会的基盤が成熟していないのではないかという問題指摘がある。これまでの住民運動をみても、まだまだ「反対のための」運動とか、「次の選挙を念頭に置いた運動」といえなくないものもある。

 さらに行政の側にも大事な情報を公開したがらない、公開をしぶる体質がまだまだ強い。それが国民、住民に大変な不信感、不安感を与えている。

 徳島県吉野川可動堰建設計画の賛否を問う住民投票でも何故必要なのか、必要ないのかの議論の前提となる十分な情報が国土交通省(旧建設省)や行政側から示されていたとはいえない。このような体質の改善こそが、住民投票の導入に先立ってまずもって必要なのではなかろうか。

●住民発議は比較的高いハードルを設けるべきである

上田道明(うえだみちあき、近畿大学非常勤講師)『自治を問う住民投票』(自治体研究社、2003年)、p. 217

 住民発議の要件であるが、高浜市や中里村が有権者の三分の一以上の署名を要件としているように、比較的高いハードルを設けるべきであると考えられる。なぜならば、議論を成立させるために住民が払ってきたコストを考えれば、一度に多数の争点の選択を求めるような、また頻繁に選択を求めるような住民投票の多用は現実的でなく、「熟慮」なき住民投票を誘発しかねない。低いハードルは、このような事態を招くおそれがあるからである。

 住民投票を実現させるまでのハードルの高さが、住民投票の制度化を求める声につながっている。しかし、最大の壁となっている議会の議決を必要としない制度にすれば、あとは、ほんとうに住民が自己決定を望む争点だけが投票にかけられるように、いたずらに請求が乱発されない制度にする必要はある。これまでの住民投票も、ハードルが高く、また住民投票に批判的な論調に耐えながらであればこそ、住民が鍛えられ、責任ある議論に努めたことも、また一面の真理であろう。

●憲法に沿わぬ直接民主主義

『産経新聞』2003年1月15日付

【住民投票】第3部 識者に問う(3)高崎経済大助教授 八木秀次

 「一般の人たちは、安全保障や国のエネルギー政策などについて、細かなところまで考えて判断する材料がない。こうした問題を中長期的に見て、高い視点から判断する役割を背負っているのが住民の代表。だから、議会にしろ首長にしろ、住民の代表というのは、住民の意見を直接反映するためのものではない。

 たとえば、日米安全保障条約の改定のとき、岸信介政権は世論の大反発を受けたが、いまから考えると、あれは大英断だった。住民投票に迎合する議員というのは、(住民の)代表という役割を理解していない。いまの風潮というのはまさに議会の“自殺”なのではないか」

●間接民主主義は、民主主義の弊害を乗り越えるためにある

『産経新聞』2003年1月15日付

【住民投票】第3部 識者に問う(3)高崎経済大助教授 八木秀次

 「住民の側にも民主主義に対する誤解がある。直接民主主義だと、住民の多数派が十分な知識や議論もなしに、感情にまかせて政治を動かしかねない。間接民主主義というのは、そういう民主主義の弊害を乗り越えるためにあるが、理解されていない。

 小学校から『本当は直接民主主義が望ましいが、物理的に難しいから、代わりに間接民主主義がある』と教えられているからだ。こうした考えは『人民主権』というイデオロギーにとらわれている」

●間接民主制においては、代表者たちが市民の意見や利害を尊重し、権利の保障をおこなう

富野暉一郎(島根大学法学部教授/元逗子市長)「シンポジウム「市民自治・主権在民と住民<国民>投票」『住民投票』(日経大阪PR、1997年)、p. 93

もう一点、政治的判断は白か黒かの二元主義でいいのかも気になっています。民主主義は多様性を前提として成り立つわけだし、社会システムや社会的活動のほとんどは、完全な白でも完全な黒でもなく、グレーゾーンをひきずり、しかもその色合いが時とともに変化してしまうのです。

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間接民主主義ではたとえ議会で表決されたことであっても、全体の意思と必ず一致している保証はなく、そのあいまいさが善かれあしかれ政治のダイナミズムを生み出し、グレーゾーンを吸収している面があります。

●住民投票は白黒を明確にする制度なので、意見の異なる他者に対する非寛容が高まる

富野暉一郎(島根大学法学部教授/元逗子市長)「シンポジウム「市民自治・主権在民と住民<国民>投票」『住民投票』(日経大阪PR、1997年)、p. 94

私が住民(国民)投票で気になるのは何でも白黒をつけたい、悪を制裁し懲らしめるべきだという「単純化と不寛容」の世界的な時代潮流とどこかで重なり合うように思える点です。それを根拠に反対するとなれば、言いがかりでしかない理由になりますが、少なくとも住民(国民)投票の制度化を主張する側としてはそれなりの構え、注意を払うべきではないかと思います。

●住民投票アンケート

産経新聞社 産経Web2363人アンケート「住民投票」

政治ニュース更新日時 : 2003年01月10日(金)03:00

http://news.goo.ne.jp/cgi-bin/redir/go.cgi?no=2&from_url=/news/&to_url=http://www.sankei.co.jp/main.html

安易な手法に疑問

議会政治の“復活”を

国の政策揺るがす選択に「反対」

 地域の重要な政策課題について直接住民の賛否を問う住民投票。“地方分権”“住民主権”の一手法として評価する声がある一方で、その対象テーマや効力があいまいなまま乱用されることを懸念する意見もある。昨年暮れに産経Web上で行ったアンケート結果をもとに、現在の住民投票が抱える問題点を探った。(住民投票問題取材班)

≪直接民主主義≫

 代議制を中心とした間接民主主義を採るわが国だが、直接民主主義の手法である住民投票も一部で法制化されている。

 憲法九五条では特定の地方自治体に適用される特別法の制定について、住民投票による過半数の賛同を求めている。また、地方議会の解散(地方自治法七六条)や議員・首長の解職請求(同八〇、八一条)、法定合併協議会の設置(合併特例法四条)のための住民投票も明記されている。

 しかし、原発や産廃処理場の建設、合併相手先の選択といった政策課題について賛否を問う住民投票は法的に明確な根拠がなく、各自治体が定めた条例に基づくものだ。

 アンケートでは「国会、地方議会が市民の意見から遊離している」(千葉・公務員)、「一般の選挙では、個別の政策をめぐる争点がぼけやすい」(埼玉・その他の職業)と、民意を反映しない首長、議員に対する不満を理由に、住民投票制度自体には賛成する意見が大多数を占めた。

 ただ、「首長が住民投票の結果を結論としてしまうのは、まったくの責任放棄だ」(埼玉・会社員)、「住民投票も良いが、議会政治を機能させることが先決だろう」(神奈川・会社員)と、住民投票という安易な選択が間接民主主義の否定、崩壊につながりかねないとの指摘も根強い。

 また、市民団体やマスコミによる情報操作、政策課題に対する住民の理解度を懸念する意見もみられた。住民投票は間接民主主義の“補完手段”であることを踏まえつつ、首長、議員の資質向上による代議制の充実を図ることが優先されるべきだろう。

≪投票対象≫

 アンケートでは、安全保障やエネルギー問題といった国の基本政策を住民投票で問うことに対し、「反対」が「賛成」をわずかに上回った。

 反対論は「一地域が国の政策を左右してはいけない。市町村合併など地域に深くかかわるものに限定すべきだ」(静岡・自営業)といった意見がほとんど。賛成意見は「国の政策であっても、地域住民の意見を表明する機会が与えられるべきだ」(奈良・会社員)との原則的立場に立ったものが多い。

 また、新潟県巻町のように、原発建設の是非と同時に町有地の売却という地方の権限が絡むテーマもあるため、「どのようなものを対象とすべきかは、あらかじめ法律で明記しても良い」(京都・学生)という意見もあった。

 有権者の声に耳を傾けることは国にとって当然の責務だが、数字という“結果”が露骨に示され、一地域の民意が国の政策決定に影響を与える住民投票の実施には、やはり慎重な配慮が必要だ。ただ、国も住民との議論の場を充実させるなど、政策決定過程の透明化や説明責任を重視する姿勢が求められそうだ。

≪拘束力≫

 住民投票を実施した自治体の条例では、その効果について「首長は結果を尊重する」などと表現したケースが目立つ。これは首長の権限を定めた地方自治法一四八条などとの関連で、首長を直接拘束できないためだ。しかし、選挙に準じた形で行われる住民投票の結果は事実上、首長や議会の行動を拘束してきた。

 アンケートでは「福祉やインフラを決めるための世論調査程度」(愛知・会社員)、「パブリックコメントとして取り扱う」(熊本・会社員)など、「投票結果は参考」とする意見が、「可能な限り尊重すべきだ」との回答を上回った。

 代議制の原則を考えると、最終判断を首長が下すのは当然だ。ただ、「拘束力がない住民投票は有害無益」(東京・自営業)との指摘もあり、合併特例法のようにテーマを限定して法的な拘束力を持たせる選択肢もありそうだ。

≪投票資格≫

 長野県平谷村では、合併の是非を問う住民投票に中学生の参加を認める条例が成立した。しかし、アンケートでは「二十歳以上に限定すべきだ」(43.0%)との意見が、「中学生以上に範囲を広げても良い」(11.8%)を大きく上回った。

 「社会的な義務を負っていないのに投票の権利を持つことは、『権利と義務のバランス』という民主主義の基本を踏みにじる」(東京・公務員)、「中学生くらいでは教師や親の意見に左右されやすい」(千葉・自営業)といった疑問が相次いだ。一方、「政治や自治に関心を持たせるために大いに意義がある」(大阪・自営業)と賛成する意見は少ない。

 このほか、「(テーマに対する)理解度をテストし、合格した住民だけが投票できるような仕組み」(東京・会社員)、「地方議会・首長選挙に行った人だけ」(静岡・会社員)と、投票資格を厳密に絞り込む提案もあった。投票対象によるものの、安易な投票資格の拡大には歯止めが必要といえそうだ。

 一方、その地域で一定期間居住している「永住外国人」に投票を認めるかについては、「認めるべきではない」との回答が約四割を占め、「帰化という手段を用意した意味がなく、住民にとっても不平等になる」(大阪・自営業)といった意見が寄せられた。