はじめに
ここ数年でがぜん脚光を浴びてきたディベートは、いったいいつ頃から行われてきたのか。「ディベート」という言葉が目新しいため、ディベートを最近のものだと思っている人も少なくないが、ディベートはすでに古代ギリシャで始まり、少なくとも二千四百年以上の歴史を持つものである。
日本では一九五〇年から英語によるディベートが大学生によって今も行われており、また松本道弘氏はディベート教育をすでに二十年以上にわたって提唱している。
日本にディベートが入ってきたのは明治期というのが定説になっているが、ディベートはすでにキリスト教とともに十六世紀には、日本に一度入ってきているのである。
十六世紀〜明治時代〜大正時代とディベートの歴史を追いながら、今盛んになっているディベートをこのままブームに終わらせないように、ディベートが消えていった理由をその歴史から学び、温故知新としたい。
1 日本人とレトリック
アリストテレスの『弁論術』によって体系づけられたレトリックは、本来話すためのレトリックであり、これが時代とともに書くレトリックに変わっていった。書くためのレトリック、修辞学は洋の東西を問わず、日本には日本固有の修辞学が存在した。
日本の近代以前の修辞学は、漢詩文、和歌、俳諧、物語、記録文書といったものにそれぞれ見ることができる。その中でも唯一の見るべき修辞論といわれた空海の『文鏡秘府論』は、東洋修辞学の宝庫といわれている(1)。
話すためのレトリックは、これもやはり洋の東西を問わずどの国にも固有のものが存在する。日本にもこのようなレトリックは弁説、談義として十六世紀以前から日本にも存在した。古くは高天原に八百万(やおろず)の神がうち集い、天下の政治を議論したとのことであるが、その時代の議論のことはよくわかっていない。
平安朝延喜年代には、「大学寮図」中に講堂と記した別棟で当時の文章博士、律学博士などが、四百人の学生を前にして大音声の雄弁で講義をしたとある(2)。
また「吾妻鏡」建元三年十月二五日の項には、熊谷次郎直実と久下権守直光が領地の境界について将軍の前で討論したという記録があり、また文治三年から正慶二年までにわたる総計六四三通の幕府裁許状も、土地境界、所領、樹木、田畑、年貢、職権、名誉棄損をめぐる争い、論議が鎌倉時代では日常茶飯に行われていたことを示している(3)。
日本の仏教も絶えざる議論の中にあった。政治と複雑にからみあった宗教戦争、宗派間、宗派内部の抗争はまさに論争の歴史であり、なかでも法華宗と浄土宗の「安土宗論」は有名である。しかしこれは経典の解釈をめぐる水掛け論で、時には暴力ざたに及ぶといった非論理的な論争であった。
このように話言葉としてのレトリックは、日本固有のものとしては存在したが、これらの議論、討論をディベートとしてみてよいかどうかは異論のあるところであろう。ディベートを単に議論、討論とするならば日本にも古代から存在したといえるが、私はこの説をとらない。
ディベートはロジックに基づいて行うものであり、ルール、方法論があり、単なる言い合いや日本でいう討論とは明らかに違うものである。この意味で私は、古代日本にはディベートは存在しなかったと考える。
2 キリスト教伝来とディベート
では日本でディベートが初めて行われたのはいつなのかという疑問に答えるために、西洋のレトリックがいつ日本に入ってきたかについてふれてみたい。日本人と西洋のレトリックとの出合は、一五四九年八月十五日(天文十八年七月二二日)フランシスコ・ザビエルがコスメ・デ・トレス、ファン・フェルナンデスを伴って南日本に上陸し、福音を伝え始めたことに端を発する。
ザビエルは鹿児島に一年間滞在した後、平戸、山口をへて京都に行き、異境の神学者達と宗論を交えようとしたが内乱のためならず、彼は山口に引き返しここを活動の地に定めた。当時山口には大名大山義隆の館があり、ザビエルの献上した贈り物に歓喜した義隆は国内に布告を発し、異国の説教者たちに新宗教の自由な伝導を許した。
ここでザビエル達は仏教諸派の相互間の特徴や欠点について議論を闘わせ、宗論の手合わせをし、日々の討論において僧侶の博識を沈黙せしめ、これはまもなく起こった内乱のためその火が吹き消されるまで続いたのである(4)。
このように宣教師達がキリスト教を広めるために日本語を学び、仏教諸派と討論を行ったのがディベートが日本で行われた始まりである。彼らは日本語を学ぶ時にもその目的を討論による異教徒の論破にあると、一五七七年に来日したイエズス会の宣教師ロドリゲスは次のように述べている。
「すなわちここに述べる日本語学習法の対象は、才能を持ちしかるべき年齢に達している人で、しかも日本語に熟達しようとする意図が、異教徒にむかって自由に説教すること、討論や文書によって異教徒の誤謬と迷信を論破してわれわれに敵対する者から信仰を護ること...」(傍点筆者)(5)
ここで「討論」と訳されている言葉が原語ではどう言うのか私は確認していないが、これはラテン語の「ディスプト(disput)」(dispute英)ではないかと考える。当時日本に来る宣教師は神学、哲学などとともに討論も学んできており、このことからもラテン語によって行なったスコラ的討論(アカデミックな討論)を意識しての言葉であることは間違いないであろう。
スコラ的討論(アカデミックな討論)とは、教師が討論の論題を与え生徒の一人が肯定または否定を支持し、他の生徒の反論に応答するもので、三段論法の形式を常にとり、詭弁や誤った推論を見つけだすというもので(6)、まさにディベートの訓練そのものである。
この様なスコラ的討論の訓練は一五八〇年以降、哲学、神学の基礎教育として、安土、有馬、府内、臼杵、大村、山口などに作られたキリシタンの神学院(セミナリヨ)、学院(コレジオ)、修練院(ノビシアード)で行われていた(7)。
しかしキリスト教とともに日本に入ってきたスコラ的討論、ディベートは、キリシタン禁止令や鎖国とともに消えていったのである。この後ディベートが再び日本に入ってくるには、明治期まで待たなければならなかった。
3 福沢諭吉とディベート
明治期の教育者、慶応大学の創始者、まためざましい著述活動によって西欧文明を紹介し、多大な影響を与えた福沢諭吉は、アメリカからデモクラシーとともにスピーチとディベートを日本に紹介した功労者でもある。彼は単にスピーチ、ディベートを研究したのみならず、実践し、教育したことでもその評価は高い。
明治六年(一八七三年)、福沢諭吉四十才春夏の頃、社中の一人小泉信吉氏がスピーチの大概を述べた英版原書の小冊子を手に入れて諭吉に示し、この新法を国内に広めてはどうかと進言した。そこで数日中に抄訳しできたものが『會議辯(会議弁)』である。このとき諭吉はスピーチ、ディベートにあたる日本語がないので、この語を訳した経緯を福沢全集緒言の中で次のように述べている。
「...兎に角に演舌の文字は中津にて慥に記憶するが故に、夫れより社友と謀り、舌の字は餘り俗なり、同音の説の字に改めんとて、演説の二字を得てスピーチュの原語を譯したり。...其他デベートは討論と譯し、可決否決等の文字は甚だ容易なりしが、原書中にセカンドの字を見て、之を賛成と譯することを知らずして頗る窮したるは今に記憶する所なり。」(8)
「演説」「討論」という言葉が諭吉の造語のように思っている人がいるが、演説という言葉は幕府の『公裁秘録』や『故事談』などに出てきており、特に後者では演説の二字を口上書という意味ではなく、スピーチの意味に使っている(9)。スピーチを演説と初めて訳したのは福沢諭吉か否かははっきりしていない。
「討論」という言葉も福沢諭吉の造語ではない。「討論」という言葉は論語の憲問第十四の中にすでにある。
「子の曰く、命を為るに卑譌これを草創し、世淑これを討論し、行人子羽これを修飾し、東里の子産これを潤色す。」(10)。しかしながらディベートを討論の訳語としたのは福沢諭吉が始めてである。
4 三田演説館の開館
『會議辯』を上梓した後、社友と共に自宅の二階や社友の自宅に会し熱心にこの新法を研究し、塾外にも広めようとしたが、何分新しいものゆえ賛同者は少なかった。
その当時諭吉は明六社の諸氏とたびたび会合をすることがあり、そこでも演説の新法を説くが、その中の森有禮(もりありのり)は西洋流のスピーチは日本に馴染まない、日本語は談話に適するものだと異論を唱えた。これに対し諭吉は自ら明六社諸氏の面前でスピーチを行い日本語でも立派にスピーチができることを証明した。
これはまさに松本道弘氏が日本語ディベートを提唱し始めたとき、日本語でディベートはできない、日本語はディベートに向かないと反論されたのと同じであり、いつの時代も新しいものに異を唱えるものは必ずいるものである。
このようにしてスピーチとディベートを研究するかたわら、明治七年六月二七日に三田演説会を発会し実践につとめ、またこの新法を広めるためには演説のための会堂が必要であるとの結論に達し、明治八年五月一日、三田山上の慶応議塾構内に私財二千何百円を費やして、慶応議塾の演説館、三田演説館を開館したのである。
明治八年六月発行の『三田演説筆記』という雑誌の第一号には、三田演説館の会館を祝する文が集められており、その中の小川篤二郎の「三田演説会舎会館を祝するの文」には、次のようにディベーティング・ソサエティー(debating society)にならって弁論の研究を行ったとある。
「余輩昨明治七年六月二六日ノ夜ヨリ欧州ニ行ハルヽトコロノテベイチングソサイエテイニ傚ヒ十二三名ノ辯論講習ノ業ニ従事セリ...」(11)
5 會議辯
日本で始めてのディベートに関する著作『會議辯』は、英版原書の小冊子を抄訳したものであることは福沢諭吉自身が述べていることでわかるが、小泉信吉氏が持参したというスピーチの大概を述べた英版原書の小冊子とは、いったい何という著作であったのか。当時のスピーチ練習仲間であった須田辰次郎氏が語っているところによると、それは「アメリカン・デベーション」という著作であるらしい(12)。
しかしデベーションという言葉が英語にないことから、これは間違いであろうということはわかるが、未だに研究者間でもその原書は特定できていない。私はこの著作の題名は、「アメリカン・ディベート・アンド・アーギュメンテーション(American Debate and Argumentation)」ではないかと考える。ディベートの実践にはアーギュメンテーションの研究は不可欠であり、既にこの当時アメリカでは教育ディベート(アカデミック・ディベート)が盛んになってきており、ディベートとその理論の研究が進んでいたことからも、このような書名の著作であろう。
書名が特定できないことから原書の内容を知ることはできないが、『會議辯』がその抄訳であることからみて、ある程度の内容を推察することは可能である。では次にその『會議辯』の内容をみながら、福沢諭吉の提唱したディベートがどのようなものであったかを考えてみたい。
6 アカデミック・ディベートの始まり
『會議辯』は総論、集会を起こす手続、三田演説会序と三つの部分に分かれている。「総論」では、日本に談話の体裁がなく、学者の議論も、商売の相談も、政府の評議も体裁を整えることなく、決着をつけることがないということを述べ、その体裁を整えることの必要性を説き、西洋人も日本人も人なりと、日本人にできない理由がないと述べている。
「集会を起こす手続き」では、発起人の選出、案内の布告から始め、口上の述べ方、会場のセッティング、議論の進め方を実例を挙げながら詳しく説明している。この部分はかなり日本風に変えられており、これが翻訳によって成った書であるとは信じ難い。
「三田演説会序」の章は三田演説会の憲法式目を定め、ここでも弁論の方法を述べている。その中の式目の項第十五には、次のように書かれている。
「第一回を以て会員を等分して二組と為し、一を可議の組と為し一を否議の組と為し、一方の席の端より辯論を始め一可一否、順々に論じ終る可し。たヾし此議論は回を以て分くるものなれば必ずしも自己の持論を主張するに非ず。唯辯論の法を研究するのみ。」(傍点筆者)(13)
この弁論の方法を述べている所をみると、議論を可議、否議に分け、しかも弁論の方法を研究するためには自己の主張ではなく、その時に分けるものであるしている。これぞ正しくアカデミック・ディベート(教育ディベート)の方法である。自己の主張をより良く述べ、相手の主張を論破するためには、まず議論の方法を学ぶことが重要となるが、こういった方法はそれまでの日本には皆無であった。
『會議辯』の中には「ディベート」「討論」の言葉は無く、ただ「議論」「弁論」という言葉で説明されているのみである。しかし語られている内容は正しくディベートの方法である。
諭吉はこの方法を、スピーチの新法として紹介し、世人もまたスピーチの法を研究、実践、そして世に広めた功労者としてとらえているが、明治六年から諭吉が友人と共に研究し始めたのはディベートであり、『會議辯』の原書となった英判の小冊子はディベートの書であった。
ディベートをあえてスピーチの新法としたのは、ディベートという言葉がなじみの無いものであり、さりとて討論ではその意を充分に伝えることができず誤解をまねくと考えたからなのか、その真意はわからない。しかしどのような言葉であれ、こうしてディベートは再び日本の地を踏んだのである。
ディベートはこの後明治十年代になり、政治の世界、学校教育にも取り入れられるようになっていった。そしてますます普及していくにつれ、ディベートは日本風にその姿を変えていった。しかしそこには大きな落とし穴があったのである。
7 演説会の隆盛
明治六年から福沢諭吉によって研究され始めたスピーチと、その「新法」であるディベートは、明治十年代に入り急速に普及していった。それは太政官(だじょうかん)や大警視を狼狽せしめる程の勢いであり、そのまま放っては置けない程に普及の速度は早かった。
明治十一年には太政官布達第二九号をもって取締が出され、それにより集会の届出制、制服警官の臨監制が大警視川路利良によって布達され、演説中どの時点でも注意や中止の命令を出せるようになり、以後長い間にわたって演説者を苦しめることになる(14)。
しかしこの様な中にあっても民衆の演説に対する欲求は強く、ますます隆盛を極めていく。この頃初めての国会が開設され、板垣退助が自由党を、大隈重信が立憲改新党を創設し、各地で演説会が開催された。
尾崎行雄『公会演説法』の翻訳出版を期に次々と演説の理論書、実践書が刊行され、演説結社が各地に作られるようになるとともに、演説会も各地で行われ、為政者の危惧をよそに演説は普及していったのである。
8 演説会と討論会
こうした演説会の隆盛と共に、討論もまた盛んになっていった。明治十四年頃よりの政談演説会には討論がつきものであり、演説の終わった後には、数名の弁士が壇上に上がり討論するのを聴衆に聞かせた。田中正造は『太陽』に発表した「明治十四年条例改正の影響」の中で、当時の模様を次のように述べている。
「...到る処として演説会を開き討論会を設け其之に会同する人々は、小学校の訓導より戸長書記等を始めとし、其郷に在りて多少なり資産を有するもの、幾分学識あるものにして参会せざるはなく、僅に一村一字の討論会場に百名余の会員を列席せしめ、...」(15)
当時の討論会は規制の中にあっても、わりあい自由に行われていた様である。『名家演説集誌』第十一、十二号(明治十五年)の中には、嚶鳴社(おうめいしゃ)討論会筆記が載っており、その題は「君主ニ特赦権ヲ与フルノ可否」、論題からして規制をうけそうな代物である。しかも嚶鳴社とはその頃の民権運動結社の中では右傾的集団であり、いかに自由に討論を行っていたかがわかる。この討論会について吉野作造は次のように述べている。
「さて私が以上の討論を紹介したのは、特赦権の問題そのものに興味を感じたからではない、『君主ニ特赦権ヲ与フルノ可否』なんどいうことを平気で討論した当時の民権自由観をおもしろいと思ったからである。」(16)
9 当時の政治論題
この様に比較的自由な風潮の中で行われていた演説会・討論会は、数々の政治論題、社会問題を扱い、聴衆はそれを手に汗握り観戦、参加していた。この様な討論会は後の帝国議会の討論準備練習として、明治二十年頃まで盛んに行われていた。
当時の討論会は先にも述べたように、演説会の後行われ、その様式はまず発言者が論題について意見を述べ、その後甲論乙駁と意見を述べ合い、時間の許す限り議論を展開するといったものであった。
討論会の論題は世相を反映しているもので、どの様な論題で行われていたのかは、当時の文献から知ることができる。明治十五年に出版された生島肇編の『政談討論百題』は、討論に適切な題を列挙して略注を付けたもので、時代の思想潮流を察し得る好資料である。その中から当時の論題を参考までに何点か列挙してみたい。
「専売免許ノ可否」
「普通選挙ト制限選挙トノ可否」
「死刑ヲ廃スルノ可否」
「自由貿易ト保護貿易ノ可否」
「外国雇人ヲ廃スルノ可否」
「女子ニ選挙権ノミヲ與フルノ可否」(17)
死刑廃止の可否、自由貿易対保護貿易など、現在私達が行っているディベートの論題と同じものが既に出ているのに驚かされる。当時の国民がいかに政治、社会問題に関心を持っていたかが推察されるであろう。
10 学校教育とディベート
明治十年頃には旧制中学校で交友会、生徒会活動などの一貫として弁論、討論が行われ始めた。速水博司氏は討論会の最も早い時期の例として、明治十年創立の青森県弘前市の東奥義塾の「文学社会」を挙げており、明治十二年の府立一中(日比谷高校)の「以文会」、明治三八年からの札幌一中(札幌南高校)の討論会について言及している(18)。
当時の旧制中学校ではどの様に討論会が行われていたのかを、札幌一中の討論会の模様で概観してみたい。札幌一中の演説会は明治三一年に始まっているが、その頃の記録は残っていない。記録に残る例会は第三五回例会からで、これは新体操場に二百余名を集めて行われたとある。その時の会の模様は次のように書かれている。
「論題は、『人力車存廃論』出題者大本氏の説明終るや叫声四方に起り積極論者・消極論者交々起ちて雄弁を揮う。議論百出論者的中ヒヤーと叫べば、ノーと叫ぶ。実に二時間の長きに渉り、休息の後議長決をとる。」(19)
この討論会は指導者のもとに準備し、あまり時間制限を設けないで行っているが、特筆すべきは議論が終わった後、決をとり勝敗を決めていたことである。議論に勝敗を求めることは、特に学校教育の場ではまれであり、教育上好ましくないとの見方もあるが、議論と人格は別ということが良くわかっていると問題はない。
この頃の論題は、「英雄崇拝の可否」「函館と小樽の発展如何」「家康と秀吉の優劣」というようにあまり政治、社会問題そのものは扱っていない。その後この会は明治三八年より、討論会の名称のもとに実施され、これよりほぼ毎年行われていった。
ディベートは旧制中学校のみならず大学でも行われていた。明治三五年十二月三日には、現在に至るまで綿々とその活動を続けている早稲田大学雄弁会が創設された。明治三七年には、その第一回公開演説会が中央神田錦輝館で開かれ、そして明治四四年十二月十六日、「海軍拡張の可否」という論題で臨時大討論会が開かれた(20)。
11 明治期のディベート文献
明治期には『會議辯』出版の後に、ディベート関連の著作が数点出版されている。明治期のレトリック書百四十五点を収集、研究した岡部朗一氏の文献リストの内から、ディベート、討論関連の出版点数と、主なものをみてみよう。
明治十年代 五点
ロートン、フレデリック著、西村玄道訳『西洋討論軌範』明治十四年(The Debater: A New Theory of Art of Speakingの翻訳書)
原著者不明、秋葉節三郎訳『集会演説法』明治十五年(The Young Debaterの翻訳書)など
明治二十年代 二点
羽成恵造編『[文明実地]演説討論集』明治二一年
篠田正作編『[自由特達]演説討論新編』明治二四年
明治三十年代 十一点
姥岳樵夫『[独特雄弁]演説討論法』明治三四年
大畑裕編『[雄弁練習]青年討論大会』明治三七年 など
明治四十年代 二点
山田龍夫『[姿勢図解]公開演説雄弁討論法』明治四十年
中等教育学会[大畑裕]編『雄弁演説討論会』明治四五年(21)
岡部氏はこれらのレトリック理論、実践書などの変遷を、年代別に次のように分析している。
明治十年代は、西洋レトリック理論書の翻訳書の出版が集中、理論書、実践書の萌芽期であり、明治二十年代に入り西洋レトリックからの自立を達成、理論書、模範演説集の出版が急伸した。
明治三十年代には、理論書の出版が最盛期を迎えるが、演説集の出版は下降、実践書も減り始め、明治四十年代に至り、理論書、実践書の出版は大きく後退、翻訳書、批評書は皆無になり、美辞法を扱った理論書の出版のみとなった。
この理由として岡部氏は、明治三三年に制定された「治安警察法」や、明治四十年代の特高警察の設置などによる言論封じ込め、マスコミなどの検閲を挙げている(22)。
12 大正期のディベート
明治も終わり、大正時代に入ると、ディベートの影はますます薄くなっていった。政府による言論弾圧、検閲、戦争などによる時局の移り変わりにより、演説もまた明治の一時期ほど盛んではなくなった。この時期の演説は政治家が行う政談が主で、その内容も時代を反映してか、民衆運動などを中心にしたものが多くみられる。
しかし実社会での討論があまりみられなくなっても、学校教育の中では明治期に続いて行われていた。早稲田雄弁会では大正五年に「日英同盟討論会」を行い、同十三年「時局批判大討論会」、十四年には「平和議定書について」の討論会を行っている。
旧制中学校では、先に述べた札幌一中の討論会を例に取ると、大正元年から十五年まで毎年の様に行われていた(昭和二二年まで続いた)。この時期のテーマは大正四年「戦争の可否如何」、大正八年「英米の優劣」など戦争色の強いものが目立つ。
この様に一部の学校の中では討論会が行われていたが、実社会での討論会はほとんどみられなくなり、明治期に行われていた演説会の後の討論会もなくなっていった。
13 吉野作造対浪人会
この時代の討論会で最も有名なのは、大正七年十一月二三日、神田南明倶楽部で行われた吉野作造と浪人会のものである。
国体擁護を楯に民本主義者達を脅していた浪人会が、大阪朝日を襲撃した事件に対し、吉野作造は『中央公論』大正七年十一月号に「言論自由の社会的圧迫を排す」を書き、彼らの暴力を非難した。それに対し浪人会が吉野の所におしかけると、吉野は立会演説を提案し、浪人会はそれに同意、公開の演説・討論会となったのである。
会場は午後六時前から一杯となり、入りきれない群衆は外にあふれた。浪人会は弁士四人を立て圧倒しようとしたが、吉野は彼らの言動を鋭く批判し、けっして威圧に屈しなかった。吉野の弁舌に聴衆は熱狂し、逆に民衆が浪人会に威圧を与えることになってしまった。
お互いに一歩も譲らない討論が行われたが、最後になり浪人会の田中舎身は、「吉野博士並びに浪人会は、尊厳なる我が国体崇高の下にますます君民一致の美徳を発揮するため、各その所信に従いて努力すべきに一致せり」と決議文を朗読し、陛下万歳を三唱し、十時半無事閉会した(23)。
このときの模様を吉野は日記に、「十分論駁しつくして相手を完膚なからしめし程なり。十時すぎ凱旋す、屋外同情者千数百、歩行自由ならず。警吏の助けにより辛うじて電車にとびのる。外套と帽子をなくす」と書いている(24)。
吉野作造と浪人会の討論会は、大正期を代表するものであるが、これ以外には残念ながらあまりみられなかったようである。大正も終わりに近づくにつれ、討論はほとんど消散してしまったのである。
14 ディベートの衰退
明治時代に入り、福沢諭吉によって再度移入されたディベートは、明治中期には隆盛を極め、多数の理論書が出版され、討論会が至る所で行われたにもかかわらず、やはり消失してしまった。
ディベートが根付かなかった理由としては、儒教・仏教の影響、日本語の語法の問題、日本人の同質性、議論を楽しむ習慣の欠如などが挙げられるが、私はここでもう一つだけその理由を挙げてみたい。
それは日本人の柔軟性である。外国のものが日本に導入されたときに、日本人はそれを自分達の文化として、馴染みやすいように変えて、自国のものにしてしまう。これは成功例も多々あるが、ディベートにとっては、その命を奪われるという結果になってしまったのである。
明治十年代に翻訳書が出版され、ディベートの理論、技術、方法が研究され始めた。その後独自の理論書が出版されていくにつれ、ディベートは様変わりしていった。ディベートを、討論にルールを付け加えたものとして実践しだしたのである。その結果ディベートの命ともいうべき「ロジック」を無視するようになってしまった。
そして元々議論で決着をつけるという文化がないため、単純に二つの側に分け、時間内に議論を出し、勝敗を決めるという方法を嫌い、時間にこだわらず、勝敗にこだわらず、立場を変えて中間意見も述べられる討論という方法の方が良いと思うようになってきた。
そのためにはディベートのルールを変え、自分達の都合のよいように方法を変え、その結果としてディベートの外枠だけをとらえ、討論に取り入れてしまった。これではディベートを行う意味がなく、ましてロジックを無視したディベートは、もはやディベートではなく、単なる討論にすぎない。
明治二十年代に西洋のディベートから自立、独自の道を歩み始めた日本のディベートは、その時点で既に命を失っていたのである。西洋のディベートからの自立、日本的なディベートの確立こそ、私が第一回の終わりに述べた大きな落とし穴なのである。
ディベートを自国のものとして、形を変え導入しようとした努力は認められるべきかもしれないが、そのことによってディベートの命が消えてしまったのである。明治二十年、討論が隆盛を迎えたときには、既にディベートは瀕死の重傷を追っていたのである。
おわりに
明治、大正期におけるディベートを振り返ってみたが、この歴史から私達は何を学ぶべきなのであろうか。それはディベートを導入し実践する過程で、安易にその理論、方法を変えてはならないということである。
ディベートを単に討論と位置づけ、ロジックなきディベートを行うことは、明治期に行われていたことと変わりがない。そしてそれはディベートをまた衰退させてしまうことになる。
ディベートが脚光を浴び、導入され始めた、まさにこの「ディベートの時代」に、この様な先人の犯した過ちを二度と繰り返してはならないのである。
(1)速水博司『近代日本修辞学史』有朋堂、昭和六三年
(2)宮武外骨『明治演説史』河出書房新社、昭和六二年『宮武外骨著作集』第二巻
(3)澤田昭夫『論文のレトリック』講談社学術文庫、昭和五八年
(4)神尾庄治『山口の討論』新生社、昭和三九年
(5)パードレ・ジョアン・ロドリゲス『ロドリゲス日本語小文典』池上岑夫訳、岩波文庫、平成五年、三五ページ
(6)ジュール・サンジェ『弁論術とレトリック』及川馥・一之瀬正興共訳、白水社、昭和六一年
(7)澤田昭夫、前掲書
(8)福澤諭吉『福澤全集緒言』岩波書店、昭和三三年『福沢諭吉全集』第一巻、五五ページ
(9)宮武外骨、前掲書
(10)『論語』金谷治訳注、岩波文庫、昭和三八年、百九十ページ
(11)宮武外骨、前掲書
(12)富田正文『考証福澤諭吉』下巻、岩波書店、平成四年
(13)福澤諭吉『會議辯』岩波書店、昭和三四年『福澤諭吉全集』第三巻、二九〜三十ページ
(14)波多野完治『文章心理学入門』小学館、平成元年
(15)高橋安光『近代の雄弁』法政大学出版局、昭和六十年、二二五ページ
(16)吉野作造「自由民権時代の主権論」、三谷太一郎責任編集『吉野作造』中央公論社、昭和五九年、三九五ページ
(17)宮武外骨『明治演説史』河出書房新社、昭和六二年『宮武外骨著作集』第二巻
(18)速水博司「ディベート、今昔」、川本信幹・藤森裕治編集『教室ディベートハンドブック』東京法令出版、平成五年
(19)札幌南高等学校編集委員会編集『八十年史』、昭和五十年、二十ページ
(20)八十年史編集委員会編集『早稲田大学雄弁会八十年史』早稲田大学OB会、昭和五八年
(21)岡部朗一「明治期のレトリック理論・実践書の文献目録」『神田外語大学異文化コミュニケーション研究』一号、昭和六三年
(22)岡部朗一「日本のレトリック」、日本コミュニケーション学会編『日本人のコミュニケーション』桐原書店、平成五年
(23)「東京日日新聞、大正七年十一月二四日」、大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典』第三巻、昭和六二年、七一四ページ
(24)今井清一『大正デモクラシー』日本の歴史23、中公文庫、平成四年、百九十ページ
本稿は「授業づくりネットワーク」(学事出版)1994年7月号、8月号に掲載されたものです。
*掲載時と同様に数字は漢字表記のままにしました。