証拠資料――なぜ必要? いつ使う?

 

兼子 歩(北海道大学・大学院)

 

 私は、かつて大学のESS(英語研究会)でディベートを経験し、今は大学院で西洋史を専攻している。

 歴史学の論文において重要なことは、自分の論を史料によって立証することである。つまり証拠資料を引用することが大切なのである。これは、ディベートでも全く同じである。

 先日、私は、ディベート甲子園・北海道地区予選の審判をする機会を得たが、中・高校生ディベーターの議論レベルの高さに感銘を受ける一方、証拠資料の用い方については、改善の余地が大いにあるとも感じた。「着眼点は良いが、証拠の引用を行わないために十分に活かせない議論が多い」ということをしばしば感じたのである。

 ここでは、「死刑制度を廃止すべきである」という論題の中学生のディベートに絞って論じることにしよう。ある試合で、肯定側は、立論で「現状では冤罪によって死刑になる可能性が存在する」と主張し、免田事件・財田川事件などの例を示した。これに対し、否定側は第一反駁で、これらの冤罪事件がどれも戦後まもなくに起こった事件であることを指摘し、「現在ではそんな冤罪は起こらない」と主張した。これは、よい着眼点である。肯定側の議論は、過去に起きたことは今後も起こるであろうという論理を展開しているが、これはあくまでも仮定の議論である(非合理的な仮定ではないが)。故に、否定側がこの論証が仮定に立脚していることを指摘することで、少なくとも、現在で同じような冤罪が起こる確率があいまいだ、とまで審判も考えることができそうである。しかし、ここで証拠資料を用いなければ、否定側は肯定側の主張を完全に否定することまではできない。

 その理由を、なぜ証拠資料を用いるのか、という点から考えてみよう。

 証拠資料に関しては、次の三点が重要である。

(1) 双方が了解事項としなければ議論が出来ないような事項、あるいは社会通念上否定し得ない事柄については、証拠資料は要らない。たとえば、「日本に死刑制度がある」「裁判は弁護人、検察、裁判官によって行われる」「凶悪犯罪で殺されるのは恐ろしいことである」などは否定し得ない事であろうし、また前提としなければ死刑廃止をめぐる議論は不可能である。

(2) (1)以外の事柄については、証拠資料を用いるべきである。「自白偏重の捜査は冤罪を生む土壌である」などがこれにあたる。

(3) ディベーターが自分で推論を立てていくときには、必ず、その推論は(1)か(2)に立脚する必要がある。

 この(1)と(2)の間に厳格なラインを引くことは難しいが、一つの基準は、「反論ができそうな主張は証拠資料で立証すべし」ということになるだろうか。(2)に挙げた「自白偏重の捜査が冤罪を生む」という主張は、「自白偏重などしていない」「自白は冤罪を生まない」などの反論がありえそうだ。だから、証拠資料で立証しない限り、単なる水掛け論で終わる可能性が大きい。

 話を最初の試合の例に戻すと、否定側は第一反駁で、免田事件当時とは時代が違い、冤罪をもたらす理由が現在ではなくなった、と証拠資料で立証することが重要なのである。証拠資料がなければ、否定側の「警察・検察も変わった」という主張に、肯定側は当然ながら「いや変わっていない」「警察・検察は優秀ではない」と反対のことを言うだろう。どちらからも証拠資料が提示されなければ、どちらがより正しいかを審判は判断できない。

 この場合、水掛け論になっている議論を判定するために、審判は、確実に立証されている議論はどの部分かということを確認していく。すると、明白なのは「過去に死刑判決の出る事件で冤罪が起こっていた」ということ(否定側はこれ自体は否定していない)、「しかし、肯定側は現在・未来にも同様に冤罪が起こるかどうかまでは証明しきれていない」という二点である。どの程度この議論を取るのかは審判によって解釈が分かれうるが、「肯定側によって過去に冤罪が実際にあったことが立証された」ことと「否定側によって現在・未来に冤罪が<起きない>とは立証されていない」ことが確認されている以上、「冤罪による死刑」の可能性を全否定する審判はいないであろう。

 ここで否定側が「最近では警察の捜査方法が変わって科学的になった」といった証拠資料を提示して立証すれば、話は変わってくる。肯定側が昔の冤罪事件の存在を指摘しただけなのに対し、否定側は、冤罪の原因がなくなり現在は冤罪の心配がないことを、証拠資料で立証したからである。ディベートの議論は、双方のディベーターの立証内容の優劣を比較することで決せられる。だから、今度は、肯定側に「現状でも冤罪が起こり得る」ことを積極的に立証することが迫られることになる。

 つまり、議論が分かれうる事柄は証拠資料を引用して立証するべきである。それも、できる限り相手側の立証よりも適切な証拠資料で立証するべきである。このことをもっと意識すれば、さらに高度な議論の衝突を期待することが出来る。今後も、中・高校生の皆さんに大いに期待したいと思う。

 

本稿は『トライアングル』第23号に掲載されたものです。