「教室ディベート」のための<論題>開発

岡山 洋一 ・ 西澤 良文

第1章 論題の機能と基本条件

1 不適切な論題

(1)男と女はどちらが得か

(2)制服は必要でない

(3)米の輸入は自由化すべし

(4)原発は廃止すべきである

(5)高齢化社会が予想される中、日本の福祉を充実させるためにはもっと国民の税負担を増やすべきだ

 これらは、最近のディベート関連図書の中から数点選んだものである。そして実際にこれらの論題で、ディベートを行っていると書かれている。

 ここにあげた論題は、すべてディベートの論題としては不適切なものである。しかし、大なり小なりこれらに近い論題で、教育現場でのディベートが行われているのではないだろうか。

 それでは、これらの論題のどこに問題があるのかを簡単にみていこう。

 (1)の論題は漠然としすぎている。この論題でディベートを行うと、男が得、女が得とそれぞれのメリットを主張し合うだけの、かみ合わないディベートになるであろう。

 これは「得(とく)」という言葉があまりにも抽象的すぎるからである。もっと言葉を限定し、どのような場で、どのような時に、男または女が得であるのか。

 例えば、職場では男が得、家庭では女が得と、それぞれの立場を主張し合うだけでは、議論は全くかみ合わないものになることは明らかである。

 また、どちらの側が「男が得」を支持するのかはっきりしない。論題を肯定する側、否定する側に分かれるのがディベートであるのに、この論題からは分けることができない。もしこの論題から立場を分けるとしたら、男支持側、女支持側、どちらも得、どちらも得ではないと、四つの立場に分けることが可能である。もちろんこれではいたずらにディベートを混乱させるだけである。

 (2)も同様に、抽象的すぎる。制服とはどんな制服をいうのか。学校で行うディベートだからといっても、この論題自身からは学校の制服に限定できないのである。

 また「必要でない」というのも曖昧な言葉である。例えば、肯定側が「普段の生活(学校外)では制服は必要ない」というような論を立てたらどうなるのか。おそらくこの論題作成者の意図から大きく外れたディベートになることであろう。

 (3)は政策を行う主体が不明確である。誰が米の輸入を自由化するのか。おそらく日本政府が自由化するのであろうと思われるが、この論題では分からない。

 「日本以外の他の国が米の輸入を自由化する」というプランや、「地球上の全ての国が米の輸入を自由化する」というプランも可能である。

 このような政策を行う主体のない論題は、よく見受けられる。主体がはっきりしないと、以上説明したようにディベートが非常に複雑なものになってしまう。

 しかし問題はそれだけではない。主体のない政策論題ではディベートにならないのである。これは、肯定側が成り立たなくなってしまうほどの重大な欠陥なのである。この点については、政策論題の項で詳しく説明していきたい。

 (4)も同様に政策を行う主体が不明確である。

 また「廃止すべきである」などという、否定的な意味を含む論題も、ディベートを行う上で不都合が生じる。原発廃止の論題の時、肯定側は、まず原発を廃止し、その後代替エネルギーの開発をするというプランを出す。

 たしかに原発の廃止は論題から帰結される。しかし論題は、代替エネルギーを開発せよとは言っていない。論題が要求していない肯定側のプランは、論題性(topicality)がないのである。

 原発の廃止は当然肯定側のとるべきプランだが、代替エネルギーの開発は論題外、つまり基本的に肯定側の問題領域から外れてしまうのである。このように否定表現を含む論題は、よく考えないと問題が生じやすいのである。

 (5)の論題は複雑すぎる。「高齢化社会が予想される中」というフレーズは必要ない。これは肯定側が独自に採り上げるべき問題である。

 論題をあまりにも限定してしまうと、肯定側の採り上げる問題、メリットまでも固定してしまうことになり、議論の幅がなくなってしまう。

 以上ざっと見ただけでも、これらの問題があげられる。もちろん問題はこれだけではない。これらの論題で実際にディベートを行ってみると、議論がかみ合わなくなったり、論点が曖昧なものになったりするであろう。

 そこでこういった問題を解決するためには、どういった論題が良いのであろうか。論題の機能、基本条件などを、ディベート理論や実際の議論を通して見ていきたい。

 

2 論題とproposition

 ディベートにおいてその内容をあたえてくれるもの、ディベートのテーマともいうべきものを論題という。

 英語でいうproposition, resolution, topicの訳語として使われている言葉である。これら三つの言葉は、その使用頻度、場面に多少の違いこそあれ、ほぼ同じ様な意味に使われている。

 Propositionとは、真であると証明されるべき言明のことであり、肯定側はこの言明を真であると証明し、否定側は真ではないと証明するのである。つまり「〜は〜である」という結論が先にあり、それを肯定、否定するのがディベートであり、その議論のもとになる結論文をpropositionというのである。

 しかし論題という語からは「〜について論じる」といった印象を受け、ディスカッションにおけるテーマやタイトル、通常われわれがよく口にする「〜について話す」といったテーマにすぎないような感さえする。

 しかしディベートでは相反する二つの側、肯定、否定側に分かれ議論を闘わせるものであるから、その側を分けるものとしての機能が論題には存在するのである。つまり論題が肯定、否定にサイドを分けるのである。

 以上のことを考えるとディベートにおける論題は「〜は〜である」という結論文でなければならず、「〜は〜か?」といった疑問文や、「〜か〜か?」という選択を迫る文であってはならないのである。

 ディベートの論題は必ず「命題」の形をとらなければならいのであって、単なるテーマをあたえる文ではない。ゆえに論題よりもpropositionの訳語としては「命題」または「ディベート命題」の方が正しいと言えるであろう。

 論題という訳語が正しいか、またその内容、機能を的確に表現しているかどうかという問題は残るが、現在一般的には「論題」という言葉で通用しているので、ことさらここで言葉を変えるつもりはなく、以下「論題」で統一していきたい。

 ただ「論題」というディベート用語を、単に日本語の意味で勝手にとらえるのではなく、その意味するところを的確に把握しておくことは重要である。

 

3 論題の機能

 では、命題の形式をとっているディベートの論題は、どのような機能を持つのであろうか。

 従来、教育界ではあまり論題の機能については注意が払われてこなかった。単にテーマとしての役割しかあたえられておらず、それがためにある誤解すら生んでいる部分が見受けられる。そのためここでは論題とは何か、論題はどのような機能を持っているのかを確認しておきたい。

 前述したように、ディベートの論題は常に命題の形をとる。その論題を真であると肯定する方が肯定側になり、真ではないと否定する方が否定側になる。つまり論題の存在が肯定、否定を分けるのである。言い替えると肯定否定に側を分けるのは論題のみなのである。

 ゆえに論題の機能は、領域を決める、つまり「肯定側、否定側の境界線を引く」ことである。論題は肯定、否定の境界線を引くものであって、〜について論じるといった類の単なるテーマ、タイトルではないのである。

 ここで現在の教育界、ビジネス界におけるディベートに見受けられる誤解をあげておきたい。これは論題の機能を誤解しているために生じている現象である。

 

4 「テーマから外れる論点は無効」という誤解

 論題が〜について論じるようにいっているのだから、そのテーマから外れる論点は無効だという誤解である。

 たとえば、「日本は商業捕鯨を再開すべきである」という論題で考えてみよう。肯定側が、商業捕鯨再開のプランを提出する。それに対し否定側が、「商業捕鯨を再開すると、アメリカが貿易面で圧力をかけてくる」という不利益を出してきた。そのとき肯定側が、「今、商業捕鯨について話しているのだから、貿易問題は論題とは関係ないので論外だ」というふうに言うことがある。

 これは論題を、単なるディベートのテーマとしてとらえているから起こる誤解であり、明かな間違いである。

 肯定側は論題に示された問題領域、政策領域から外れてはならないが、否定側はその限りではない。むしろ肯定側が思いもよらないところから、不利益などを持ってきたりすることは当然のことである。社会の政策、問題は一つの範囲内でしか発生するのではなく、ある一つの行動を起こすとそれが他の分野にも影響をあたえることは当然だからである。

 もちろん論題によって示された領域は完全に明確なものとはいえない。ときには肯定側の問題領域から否定側の議論が出ることもある。肯定側の領域は定義によっても違ってくることがあり、この点は実際のディベートで決まってくるのである。

 

5 論題の基本条件

 論題の条件については、ディベータブルなもの、トピカルなもの、重大な変革の表明、身近なものなど、いろいろとあげられている。しかしこれらのものは整合性に欠ける。

 たしかに良い論題の条件をその問題領域の考え方、表現の仕方、扱う問題の的確さ、などと考えていくと無数にあることは事実である。そしてこれらを突き詰めて考えていくと、最終的にはディベート理論全般にまでわたってしまうことになる。またかえって混乱も生じる。

 そこでまずはじめに、論題の基本となる条件について考えてみたい。論題の基本条件は次の四つである。

(1)ディベータブルなもの

(2)中心課題が一つであること

(3)公平な表現

(4)肯定側の決議に的確な表現

 (1)のディベータブルなものとは、議論の余地のあるものという意味である。分かりきったことなどはディベートにはならないからである。

 (2)の中心課題が一つであることとは、無用な混乱を避けるために必要なものである。

 (3)の公平な表現とは、どちらかの側に利益をあたえるような感情的な表現を使ってはならないということである。

 (4)の肯定側の決議に的確な表現とは、あまりにも抽象的な表現を避け、的確にその方向性を示すことができる表現でなければならないということである。

 この論題の基本条件には、従来いわれてきた現状改革の表明は含まれていない。それは単に政策論題に限定されてしまうという理由だけではなく、肯定側ー現状改革、否定側ー現状支持という単純な図式には問題があるからである。

 

第2章 論題の基本条件の更なる理解のために

 

1 論題に関する三つの着眼点

 論題の四つの基本条件をおさらいしてみる。

(1)ディベータブルなもの

(2)中心課題が一つであること

(3)公平な表現

(4)肯定側の決議に的確な表現

 学校教育ディベートを実践されている方の中で、ディベート経験に個人差があることを考え三つの着眼点を説明しながら、論題の基本条件をふりかえる。着眼点は★印の部分

(1)ディベータブルなもの、つまり

★ ディベートするべき題材であること

★ ディベートできる題材であること

(2)中心課題が一つであること

(3)公平な表現

(4)肯定側の決議に的確な表現、つまり

★ ディベートしやすい論題(表現)であること

 

2 ディベートするべき題材かどうか

 1)題材が個人の主観、感情の問題であり客観的に結論を出す必要性がないものは避けたほうがよい。

 理由は簡単。判定をする必要性がないからだ。または、客観的な判定ができないからだと言ってもよい。

 例えば、「動物園のくまと野生のくまのどちらが幸せか」、がそのよい例である。幸せか否かの判断は事実の積み上げによる証明ができない。おそらくディベート経験の少ない講師が作った誤った論題だろう。

 2)身近すぎて実生活に影響のある題材も学校教育ディベートの範囲からはずれる。話題にされたくないものを授業だからという理由で議論されては生徒がかわいそうである。生徒の興味をひくというねらいも逆効果となる。

 また学校の運営にかかわる論題では教室ディベートの範囲をこえるのでさけるべきである。学校教育ディベートは議論の方法を学ぶためのものである。

 3)問題が小さすぎて重要ではない場合もディベートには 不向きである。わざわざディベートという形式をとって議論すべきものではない。

 つまり学校教育ディベートは、理性によって決定されるべき重大且つ普遍的な命題のみに限定される

 何のためのジャッジ(判定)か?という着眼点をもてば難しくないはずである。ジャッジを軽視したディベートをおこなっているから、生徒が盛り上がっただけのやりっぱなしディベートとなるのではないか。

 今後教室ディベート実践者は実践記録に感想のみならず判決理由を明示するべきである。

 それでは次のような例はどうか。現代教育科学1995年4月号から引く。

 「婚約中の男女がいる。女性が交通事故で半身不随になった。男性は、婚約を破棄すべきであるか。」

 この論題でディベートがおこなわれて普遍的な結論をはたして教師が出せようか。おそらく賛成側も反対側も自分達に都合のよいありとあらゆる個別的場面設定をするだろう。

 それでは自由討論となんらかわりはない。時間が限定されているだけにディベートではかえって不自由である。

 論題作成者にはディベートの勝ち負けの判定基準を考慮にいれた論題研究をお願いしたい。次の例はどうだろう。

 「男と女、どっちが偉いか」−客観的ではない。

 「友達をあだ名で呼んでよいか」−個別的である。

 「マンガを学校にもってきてよいか」−学校運営に関わる

 教育科学社会科教育1994年7月号には次のようなものもあった。

 「日付の新しい商品を買うべきか否か」−これが重大な問題であろうか?

 「過疎地での生活は不幸か?」−幸不幸などというものをディベートで決着つけるべきなのだろうか?

 「なまえを付ける権利は?」

 これは論題の設定主旨が書いてあったので論題作成者の意図はわかったが論題自身から論題の範囲がわからなければいけないという観点が欠けている。日本語にありがちな行動の主体と目的語の省略はディベートでは禁物である。論題ではなおさらである。

 論題の焦点となるべき課題の抽出も慎重でなければな らない。誤った抽象と批判される論題では甘いのである。論題は、問題領域の核心であり且つこれ以上分割すべきではないような核となる課題を抽出できたときに、はじめて論題となり得るのである。

 ランダムな任意の二値の抽出では何通りものディベートをおこなわなければならないし、核心に触れていない漠然とした表現では、一回のディベートのなかで何通りもの個別条件(場合分け)が必要となりディベートの判定が困難になる。

 論題作成者はジャッジの立場で論題をつくるべきである。

 

3 ディベートできる題材かどうか

 論題作成者は事前にディベートで出される議論内容をすべて見通していなければならない。議論内容だけでは不十分であり議論(授業)のながれも予想すべきである。

 まず教師の方々が自分でディベートをやってみなければ判定もだせないし論題作成も無理ではないか。自分でシミュレーションをしてみてこそディベートができる論題か否かがわかってくる。

 肯定側否定側ともに平等に文献があることも欠かせないチェックポイントである。授業の事前準備などやっているに決まっていると教師の方々に叱られそうだが、具体的なディベートの事前準備の仕方は後で詳しく述べる。

 以上二つが「ディベータブルなもの」の着眼点である。

 またこのディベートができる題材かという点は次のワーディング(論題中の言葉の選定)と相互に影響しあう。

 

4 ディベートしやすい論題(表現)であること

 論題に使用される言葉の選び方(ワーディング)がその後のディベートの成功の鍵をにぎっている。

 何といっても論題を構成する十数文字のみがディベーターとジャッジにとって拠り所となるのだ。細心の注意を払って論題の言葉選びをおこなう。

 論題の四つの基本条件の(2)(3)(4)は良いワーディングの条件である。

 (1)中心課題が一つであること

 つまり、AとBとCとDのいずれかがxxxであるといったものは避けるべきである。中心課題がシンプルである程肯定側の立論も明確になる。論題で扱うべき課題は一つとすべきである。

 (2)公平な表現(感情的な表現はさける等)

 論題中ですでに善悪等の価値観をもつような表現をつかってはならない。たとえば憲法9条改正。改正となるのであればディベートをする必要はなく、変更の結果が改正となるか改悪となるかをディベートするのである。

 (3)肯定側の決議に的確な表現

 肯定側が何をすべきかという行動が明確な形で表現されていなければならない。

 しかしある程度幅の広い表現も必要な場合もある。というのも、肯定側のプランの種類が極端に狭められると否定側に有利なリサーチとなり、肯定否定側の力のバランスを崩すことになるからである。

 抽象的すぎて言葉の意味がわからないのはいけないが、範囲の広い論題はディベート当事者のリサーチ能力と合えば問題はない。どちらにしても論題作成者の事前準備によって解決する。

 

5 誤解されている論題の条件

 誤解されている論題の条件があるので四つ例をあげる。

 (1)タイムリーなもの、トピカルなもの

 これはタイムリーであることから、ちまたに情報があふれている、最新情報を収集するディベーターの力をためすことができる、興味をもちやすいといったことを期待した条件である。しかし最近の話題であるが故に資料があまりないだとか政策論題の場合、行政で対応がついてしまい問題が消えてしまう場合もある。

 またトピカルという言葉を誤って使っているひとが多い。トピカリティー(論題性)とは論題に対して肯定側の立論がトピカルか否か、つまり肯定側が論題の範囲を越えていないかどうかを検証する議論の事である。時事性、話題性があるといった一般用語のトピカルとは峻別すべきものである。論題性と話題性は全く異なったものであり、両者を混同して使用してはならない。

 トピカリティーについては別の章で詳しく説明したい。

 (2)本音で意見を二分するもの

 ディベートにかかわるひとに切実な論題は危ないので出来る限り避けた方がよい。ディベート学習の導入段階では特にそうである。 

 なぜか? それは学校教育ディベートは実ディベートとは違い学習訓練用のディベートだからである。訓練用のディベートと本番をまちがえることが往々にしてありがちなのである。生徒の学習意欲と、発言者の人格と議論を分けることが両立するならば問題ない。

 (3)現状に重大な変革をもとめるもの

 これは肯定側=現状改革側という誤った論理の展開からでてきたものである。論題の内容が肯定側をきめるのであって、はじめから肯定側があってそれに論題をあわせるものではない。もっとも肯定側が現状改革をおこなった方とした方がディベートがやりやすいのであればそれでもよい。

 (4)身近なもの

 当り障りがなくてリサーチの負担なしに意見活発に討論できる論題。一見都合がよさそうにおもえるが残念ながらそのような論題では意見がかみ合わなくなる。かみ合ったとしても、判定ができない言いっぱなしのディベートとなる。なぜか? それは、より確からしい事実の積み上げによる証明と理性的な理由付けがそのような論題では期待できないからである。現在の学校教育ディベートで最も欠けている点である。

 「私はこう思います、なぜならばxxxだからです」

 このxxxにあたるところが合理的な理由であるか、事実に立脚した理由であるかを検証するプロセスがディベートなのである。多分にディベート=二手に分かれた活発な討論という大ざっぱなとらえかたをしている方々が多いようである。

 次回は、いよいよ論題の作り方と手順について具体的に説明していきたい。

 

本稿は「現代教育科学」(明治図書)1995年5月号、6月号に掲載されたものです。