ディベートするべき題材かどうかの判断基準は
(1)理性的に決定されるべき重大かつ普遍的な命題か否か、
(2)これ以上分割すべきではない問題の核心が抽出されているか否か、であった。
ディベートができる題材かどうかは
(3)事前準備をすることによってわかる、と述べた。
(1)の「理性的」とは、感情による判断を極力避けるという意味であり、「個別的」の反意語として使った「普遍的」に対応する。「重大」とは、小さな取るに足らない題材は極力避けるという意味である。
(2)の「これ以上分割すべきではない問題の核心」の「抽出」は、二値的な思考に陥っていては出来ない。つまり、様々な問題が複雑に絡み合っている問題構造を分析せずに二つの観念的に合い反する価値観について論じるとか、複数の手段の中から無作為に二つの手段をとりあげてそれらの効果について論じるようなことをいうのである。
二値的な思考に陥らないための議論の技術を教師の方々は持っているのだろうか。巷にあふれる学校教育ディベートの論題から推測するに、疑問である。前章に批判した論題を疑問を持たずに使っているならば、生徒に二値的な思考を強要していることになる。
また入念にディベート論題を作っても、その論題を使って生徒に何を、どのように教授していくかという点をおさえなければ、ディベート授業はできないのではないだろうか。
そのためにはまず議論の技術の意義を知り、使いこなせなければならない。そこでこの論題についての連載では、出来る限り議論の技術も紹介していきたい。
それでは今回はディベート論題の作成の技術論である。具体的な作業手順を紹介する。
1 ディベータブルな題材を選ぶ
事前準備(リサーチ)に焦点をあてる。
(1)まず、問題は何か、深刻性はあるかをリサーチをする。
(2)つぎに問題の原因をリサーチする。
問題が誰にどれほど影響しているかと、問題の深刻さを調べることはディベートの最も重要な部分である。たとえば原発。放射能や原子力爆弾の威力などを調べても、議論にならないことに気づくだろう。なぜ原発が存在するのか、誰が何の目的で作ったのかという当初の目的、日本のエネルギー政策、いままで原発に関わってきた人々と原発の歴史、そして現状。更に今後のエネルギー供給需要予測、技術開発、事故発生の可能性、自然との関わり(環境)、などを調べる。
当然、資料を読む、捜す。新しい資料を見つける度に新しい問題の見方を学ぶ。そして一度目を通した資料を再度読み直す。慣れると効率よく進めることが出来るが、とにかく大変な作業である。
果してディベートするに価いするほどの重大な問題であるか?
資料は論理的でありディベートの資料として使えるものか? ただの感情論、お涙ちょうだい的な文章ではないか? 統計の信憑性はあるか? など徹底的に調査する。
なぜこんな作業が必要か? ディベーターからディベートにならない等と文句を言われないためである。またジャッジにおいても同じである。判定が出来ないような論題では、ディベーターになぜそのように判定したのか説明が出来ない。判定の根拠は? に対する答えがでない論題ではだめなのである。
それでは、すべてのディベート論題の作成についてこのような手順を踏まなければならないのか? という疑問がわいてくるだろう。答えは、その通り、すべてのディベートの題材について行わなければならない、である。とくに巷の論題をみると、ディベートという形式にとらわれずとも、そもそも議論に価いしないような題材が多い。
ディベートはそのゲームとしての特殊性(発言順序、立場の制限等)から、論題に価う問題/題材は、限られるのである。相互に関連しあう問題の核を抽出できて、且つ解決が見込める論題などそんなに沢山あるものではない。
要するに問題の核心を抽出し検証に耐え得る資料が肯定側否定側双方にほぼ偏りなく入手できる場合にディベートができるのである。この事前準備を怠ったままで論題を設定しディベートを始めると必ず失敗する。
ディスカッションでもブレーンストーミングでも構わない。自分で討論を、内なる仮想反対論者と行えばよい。
経験則でディベートの題材を見分けられない場合は、このように問題の核心がわかり資料が集まるまでリサーチを続ける。
次に何がその問題を引き起こしているのか、どのような対策の不備が問題を存在させているのかをリサーチする。
初めに述べたのが問題の核心を探り当てるリサーチであり、これは原因の追求である。問題の解決策を捜すためのリサーチである。
最後に題材のリサーチとは別に、ディベーターの力量を考慮にいれることも大切である。小学生に尊厳死、安楽死の題材を議論させようとしても手に余るのではないだろうか。
この点に関してはプロの教師の方々の専門領域であろうから、教師の方々に考えていただきたい。
2 ディベートしやすい論題をつくる
次の三つの手順を踏む。
(1)中心課題を一つに絞り込む
ディベータブルな題材を選んだ後は、ディベートしやすいように課題を一つにしぼる。
(2)公平な表現にする
肯定側と否定側の釣り合いがとれた公平な表現を選ぶ。
(3)肯定側の決議に的確な表現にする
肯定側の立論が論題から明確にわかるような表現にする。肯定側の立論がみえないようではディベートにならない。
それでは(1)から順に追っていこう。
(1)中心課題を一つに絞り込む
システム分析図をつくることが必要である。例としてタバコに関連した問題をあげてみる。
日本政府(法律)、市(条例)
公共施設−禁煙席/エリア
喫煙席/エリア
↓
J T
↓
生産者−煙草農家(輸入先の生産者)
↓
煙草の流通/煙草の販売店
↓
購入者/喫煙者/喫煙行為−直接・間接(副流煙)
喫煙、未成年の喫煙−喫煙年齢20才の見直し
↓
マッチ/ライター/消し忘れ/火事/被害
(消防活動,予防活動)消した後/ゴミ/清掃
↓
因果関係/臨床実験/統計
↓
肺癌 喉頭癌ー趣味 嗜好 個人の自由と責任
以上のように問題領域にかかわる活動や事象を書きあげ、システム分析図を作っていく。これは、論題作成者が必ず行うべきことであり、ディベーターもディベートの準備として後に行うこととなる。
(2)公平な表現にする
肯定側と否定側の釣り合いがとれた公平な表現を選ぶ。まず肯定側の立論を想定する。そのためには次の質問を順に追っていくとよい。
1)どうしたというのか?
現状の問題の把握。現象についての事実の調査を行ない明確にしていく。すでに行なってあるのでそれを箇条書きにする。
2)なぜ起きているのか?
なぜ起きるのか、という原因系と、有効な対策が存在していないのは誰の責任か、という責任系の二つの視点で分析する。
3)それではどうしたらよいか?
3)で想定される、責任主体が実行すべき解決策(プラン)を考える。
4)そのプランを行うとどうなるか?
効果の確認と反動(デメリット)との比較を行なう。
5)誰が行うべき問題か?
再度4)の結果を踏まえて2)へ戻り再検討する。
一般に、問題解決力が強い大きな行動程、反動も大きくなりデメリットを回避して行動の範囲を小さくすると、問題解決力が弱くなる。
6)メリットとデメリットが釣り合う様な、つまりディベートをしてみないと判断がつかないような解決策と行動の主体を設定する。
「主体」と行動(プラン)を異なるレベルで再考する。前出の例でいうと、「たばこは禁止すべきである」という粗大な論題ではディベートにはならないのである。
主体を購入者とした煙草の購入制限、販売店や自動販売機に着目した販売制限、流通レベルでの制限、生産量を規制する生産者レベルでの制限(生産・輸入制限)。地域レベルでの禁止から、全国的に政府が生産・流通・販売・消費をすべて含めた形で全面禁止する場合などの、各々の場合(レベル)で期待効果(メリット)と反動(デメリット)を想定するのである。
(3)肯定側の決議に的確な表現にする
肯定側が立論をつくることができる表現にする。
まず実際に立論の論点(見出し言葉)を書き出してみる。
次に各々の見出しにさらに小見出しを付ける。
さらに小見出し毎に、証明するためのデータや文献からの引用文をあてはめる。(きちんと書かなくてもよい)
そうすることによって自分のリサーチの足りない領域や、文献内容や資料の量の偏り具合いがわかる。とにかく、肯定側が立論として成り立たない論題ではディベートはできないので肯定側の立論が明確になるような表現にする。
この時、前出3)の内容を限定しすぎると肯定側のプランの種類が限定され、抽象的にすると広くなる。6)で仮に設定した肯定側と否定側の力のバランスを保つように、かつ肯定側の立論に、ある程度のバリエーションをもたせるような表現を選んでいく。
3 よい論題と悪い論題の判断基準
作業手順を解説しながら「ディベートしやすい論題」の作り方を紹介した。実際にディベートの論題の表現を決定する場合には、ディベートを行う場合と同様に語句に敏感でなければならない。「公平」な表現と「公平」ではない表現の判断基準等の問題については次回以降、論じていく。ディベートの論題は一度提示したらディベートが終わるまで一人歩きをはじめる。
前回までに論題の四つの基本条件のうち、とくに「(1)ディベータブルなもの」について他の着眼点を用い、また論題作成の手順もあわせて説明した。
今回はディベートのために選び出した題材、テーマをどのような言葉で表現したらよいかを説明したい。論題のための言葉選びである。
学校教育のディベートがさけばれて久しいが、論題のワーディング(wording、言葉選び)についてはほとんど注意が払われてこなかった。題材さえ決まってしまえばそれでよしとし、またディベーターも論題の言葉にとらわれず、かってに議論を展開していった。
その結果が噛み合わない議論を生んでしまった一因でもある。論題の機能をよく理解していないとこのような結果になってしまうのである。
論題は肯定側の領域を決め、その結果否定側の領域も決まってくるのである。つまり論題自身から論題の範囲がわからなければならないのである。それではどのように論題の言葉を決めていったらよいかを、論題の基本条件のうち(2)(3)(4)をより詳しく見ることによって説明していきたい。
1 中心課題が一つであること
(2)の条件は中心課題が一つであることである。
ディベートになりうる問題を選んだ後は、とにかくそれを一つの課題にしぼらなければならない。課題が複数ある論題、「〜をするために〜をするべきだ」とか、「〜がよいか〜が良いか」、などではいたずらに議論を複雑にしてしまうからである。
たとえば「日本は自衛隊を廃止し、その予算で福祉を充実させるべきである。」という論題で考えてみよう。これはよく話し合われているテーマではあるが、ディベートの論題としては混乱を招くものである。
この論題は「自衛隊を廃止するべきだ」、「福祉を充実させるべきだ」という二つの問題を示している。肯定側はこの二つを別々に証明しなければならない。そして否定側は「自衛隊を存続すべきだ」、「自衛隊を増強すべきだ」、「福祉を充実させる必要はない」、「自衛隊を廃止し、福祉は現状のまま」などさまざまな組み合わせが考えられる。
これではいたずらに混乱を招くだけで、この論題で実際にディベートを行うと収拾がつかなくなり、議論が噛み合わなくなるであろう。複数の課題が入っている論題ではディベートに混乱をきたすのである。
このような論題では、論題の機能の一つ「問題領域の決定」という役割が失われてしまうことになる。
ゆえに中心課題は一つでなければならないのである。単にディベートがしやすいからという理由のみではないのである。
2 公平な表現
(3)の条件は、公平な表現を使用するということである。
公平な表現とは、肯定側否定側の釣り合いが取れた表現、つまりどちらか一方に利益をあたえるような表現はいけないというころである。
これは簡単に考えてしまいがちであるが、案外わかっているようで、思わぬところでひっかかってしまう点でもある。
「残虐な死刑制度は廃止すべきである」、「企業は搾取をやめるべきである」など、初めから感情が移入された表現は、肯定側を有利にしてしまっている。残虐な死刑制度なら(現代社会なら)当然廃止すべきである。ディベートで問題にすべきなのは、死刑制度が残虐かどうかであって、初めから残虐ということが分かりきっているのではディベートの論題にはならない。
しかし一見感情移入がされていそうな表現であっても、実際そうでないものもある。この点は気を付けなければならない。
たとえば「大東亜戦争は自衛戦争であった」(授業づくりネットワーク1994年7月号)の、「大東亜戦争」という語がそれである。一般に「大東亜戦争」というと「太平洋戦争」という語に比べ、「日本の戦争責任を回避」したような、また「侵略戦争を肯定」したような印象を持っている人が多い。
しかしよく調べると、「大東亜戦争」という言葉自体には、不公平な意味が含まれないことは明らかである。またこの問題はディベータブルでもある。
このように表面的な言葉尻に左右されることなく、十分なリサーチをした上で、本質的に公平な表現を注意してつかう必要がある。
3 肯定側の決議に的確な表現
(4)の条件は、肯定側の決議に的確な表現である。
これを簡単に言うと、論題は肯定側議論の方向性を示すものでなければならい、ということである。
論題を肯定する側が肯定側となることはすでに説明した。つまり論題とは、肯定側の決議そのものであり、また政策論題で言うと肯定側のプランそのものでもある。
肯定側の問題領域、プランが、論題によって提示された後に、はじめて否定側の領域が決定されるのである。
つまり「肯定側の決議に的確な表現」を考えるには、
論題自身から肯定側のプランが見えてこなければならない
ということを念頭において考えるのである。
たとえば「男と女どちらが得か」という論題を考えてみよう。この論題のもとでは、肯定側は男を支持するのか、女を支持するのかが全く分からない。
仮に肯定側が「男が得」を支持するとしても、この論題からは肯定側の決議、議論が見えてこない。どのような状況で議論したらよいのか、日本でのことか、普遍的なことか、教育の場でか、社会の中でか、家庭内でかなど、どのようにも考えられる。
この論題では状況が設定されないのである。論題の問題領域がはっきりしていないのである。ゆえにこの論題からでは肯定側の決議は見えてこない。
このような論題を抽象的な論題という。使っている言葉、また論題自身が抽象的で、漠然とし過ぎているので、どのようにもかってな状況設定ができるのである。
論題は可能なかぎり、しつこいくらいに状況設定をしていかなければならない
そうしないと、肯定側がどのように議論を組み立てていけばよいのかが分からない。そしてその結果、否定側の議論も予想できなくなってしまうのである。
しかしここで注意しなければならないのは、抽象的な表現と広義な表現は違うということである。
「男が得か女が得か」は、抽象的な論題である。この論題自身からはいろいろな場面が設定でき、どのようにも解釈が可能だからである。
では「日本は税制を改革すべきである」という論題はどうであろうか。このような論題も抽象的で駄目だと書いてある本が多い。しかしこれは抽象的なのではなく、広義な論題なのである。だからこの論題はなんら問題はない。
広義な論題とは、肯定側のプランが複数考えられるものである。この例でいうと、肯定側のプランとしては、「累進課税の改革」、「消費税率の上昇」、「売上税の導入」、「所得税」、「間接税の改革」など、複数考えられる。肯定側はどのプランを採ってもよいのである。日本の税制について議論しあうということは明白であり、状況はきちんと設定されている。かえって複数のプランが考えられ、より事実に即したディベートができる。つまり抽象的な論題と広義な論題の違いは、
抽象的な論題=状況設定ができない=決議が見えない
広義な論題=状況設定ができる=決議が複数ある
しかしこのような広義な論題では、リサーチ、とくに否定側の準備が大変になることは事実である。
領域の広い論題、狭い論題(論題=肯定側のプラン)のどちらがよいかという点は、何を目的としてディベートを行うかということに係わってくる。何か月も準備して、何チームも出場するディベート大会などでは、狭い論題ではあまりに議論のバリエーションが少なくなり面白くなくなってしまう。
しかし学校の授業で行うディベートではどうか。広義な論題を使うとリサーチも大変になり、肯定側はよいが、否定側が対応できなくなる。その結果議論が深まらず、噛み合わなくなるのは目に見えている。また初心者にやらせるのも難しいだろう。
論題の扱う範囲の広さ狭さは、そのディベートの目的を考えて決めるべきである
以上ディベート論題の基本条件のうちの(2)(3)(4)、つまりいかにして論題のワーディングをするかをみてきた。
次に論題と深く係わりのある、そして現在の教室ディベートではまったく出てこなかった問題、また巷のディベート関連書でもほとんどとりあげられていない点を説明していきたい。以下の概念は論題のみならず、ディベート全般に深く係わってくる重大な問題である。
4 「肯定側=現状改革派」の誤り
論題の基本条件としてよくあげられるものに、現状改革の表明というものがある。つまり論題は肯定側に重大な変革を表明しているかどうか、ということがなければならないとされている。
これが論題の基本条件ではないという理由は、単に政策論題に限定されてしまうということだけではない。
肯定側=現状改革、しいては否定側=現状支持という単純な図式は誤っているからである。
まず論題があって、それを肯定する側が肯定側、否定する側が否定側となることは以前に述べた。ゆえに論題が現状を改革するものであるから、それを肯定する側が現状改革派になるだけの話である。
初めから肯定側、否定側があって、それに論題をあわせたのではないのである。
たとえば、「東京都は世界都市博のプロジェクトを継続すべきである」というような、「現状を維持すべきである」という類の論題の場合はどうなるのか。肯定側は現状改革派とはならない。かえって否定側が現状を改革すべきであるという立場に立って議論をすることになる。
もちろんディベートをしやすくするためには、肯定側が現状改革派の方がやりやすい。だからこそ論題も現状を変えるという論題になっているのである。そのような論題だからこそ肯定側が現状改革派になるのである。この図式は正しくとらえていてほしい。
肯定側が現状改革派、ということだけならばまだ救いようがある。しかしそのように主張する人は、否定側の役割は現状維持であると述べる。これは完全な誤りである。
否定側の役割は当然のことながら、論題を否定することにある。否定側の取りえる立場は、「肯定側の主張は間違いである」、「論題を採択する理由はない」、「現状維持の方がよい」、「他のプラン(カウンタープラン)の方がよい」、またはこれらの複数の組み合わせなど、いろいろな立場が考えられる。
このように、自由に立場を考えることを犯しかねない考え方、肯定側=現状改革、否定側=現状維持という単純な図式は改めなければならない。
今回は教室ディベートで誤ってとらえられていた、「肯定側=現状改革派」という図式を指摘した。次回は、今まで教室ディベートの関連書には全く出てこなかった概念、フィアットとトピカリティーについて詳しく説明する。
本稿は「現代教育科学」(明治図書)1995年7月号、8月号に掲載されたものです。