「教室ディベート」のための<論題>開発

岡山 洋一 ・ 西澤 良文

第5章 論題における「すべき」の意味

 ディベートをやるようになると、権威や常識を盲信しなくなる、より具体的な議論をしたがる、言葉の持つ意味が気になる、とっぴなアイディアを絞り出すようになる、議論の十手先を読むようになる。

 ディベートとは日本の教育界にとって画期的なものである。例えば、ディベートの審査基準であるジャッジングパラダイムまでも議論の対象としてしまう。つまりディベートを審査している先生に対して、この試合の評価方法は、かくかくしかじかとせよ、と議論するのである。まことにディベートとは厄介なものである。 

 しかし、だからこそ、「ディベートはタブーに挑戦する」のであり、「議論の文化が育つ」のである。ところが残念ながら、教育界には、本来のディベートを「競技ディベート」として避ける傾向があるらしい。驚きである。ディベートは本質的に競技なのである。勝つことに全力を注ぐことをおすすめする。ディベート術を極めずして、果してディベートと言えようか?

 本来のディベートは、教師の方々の教育観さえ揺さぶる。「ディベート的な学習」では見えてこない本格的なディベート理論とディベートの本質について、初めての方には、少々難解かもしれないが、少しだけ今回は触れる。

 

1 ディベートにおけるフィアットの概念

 フィアット(Fiat)とは、ラテン語で「さあらしめよ」(Let it be done)という意味の言葉である。古代ローマの皇帝の命令であり、命令イコール即政策の実行、という強制力があった。これがディベートでは避けては通れない言葉である。それではディベートのなかで、この言葉が一体どこで使われているのか?それは論題のなかである。

 政策論題では「すべき」という言葉が通常使われる。この「すべき」がフィアットなのである。

 それでは、「すべき」の定義は何か? 「すべき」には何が含まれて、何が含まれていないのか? を次に考える。

 「すべき」とは、する価値があるということである。つまりその行動を行った方がよいという判断がなされることを指す。現実の世の中でその政策が採択されなくても構わない。とにかく「すべき」事柄は、「すべき」なのだから。ここをきちんと理解しておく必要がある。例をみてみよう。「いまあなたは勉強をしている。まだ宿題は終わっていない。そこで、あなたは勉強すべきである、という命題に肯定か?否定か?」

 肯定、であろう。現状で、既に命題にしるされた行動を行っていても「すべき」であることに変わりはない。この概念をきちんと理解すると、次のように一般に知られている論題の条件が誤りであることがわかる。

 論題の条件:肯定側が現状を大幅に変革するものである事は間違いである。

 肯定側は論題の内容が現状で既に実行中であろうが無かろうが関係ないのである。「勉強」の例では、肯定側は現状肯定派、となり一般に教育界で知られている肯定側と否定側の立場が逆転する。肯定側が現状改革派だと書いてある本を読まれた方は、それがある一定の条件下でのみ成り立っているディベート思想の一つであることを知って欲しい。

 この「思想」にあたるものをディベートパラダイム、または審査基準(ジャッジングパラダイム)と呼ぶ。肯定側が変革をしていないだとか、肯定側のプランが現状で実行されないことの証明として法律や制度などの構造的障害(Structural Barrier、ストラクチュラル・バリア)や制度改革を妨げようとする態度などの態度的障害(Attitudinal Barrier、アティテューディナル・バリア)を示すべきだという立場をとるストック・イシュ−(通常争点)パラダイムはこの意味において限界があるといえる。

 このようなパラダイム転換を議論する本格的なディベートは、「競技ディベート」や「ディベート術」という抽象的な言葉でくくられ、中学、高校の授業で教えることはタブーなのであろうか? そんなはずはない。

 

2 「すべき」が満たされる条件とはなにか?

 「論題に唱われる主体(主語)がその行動をすべき」と判断するためには何が必要か?

  究極すると次の二点に絞られる。

(1)必要性

(ケースサイド:行動を起こす、または状態を保つ必要性)

(2)プランの有効性

(プランサイド:行動を起こすと、または状態を保つと判断された場合に実行出来る保証)

 この二大要件は、肯定側第一立論で説明する必要があり、「プライマ・ファーシー」といって、ラテン語で「一見して明かな」という意味の立論の必要構成要素である。それゆえに、二立論二反駁フォーマットの場合、肯定側が第一立論で必要性、第二立論でプランおよびその実行可能性や問題解決性を示すのでは、肯定側は「プライマ・ファーシー負け」となるのである。

 「すべき」の意味をきちんと理解すると、次のように、論題に関する言葉の使い方の誤りがわかる。

 「すべき」という言葉では、「価値論題」かのように望ましさや必要性のみに焦点が当てられがちになるのので「すべし」を使うべし、は誤りである。

 すべきという言葉の意味をしっかり理解していないとプライマファーシーの半分しか証明できないのである。そこで「すべき」を「すべし」に変えしまっては、かえってディベートの本質が見えなくなる。

 本来の原因を取り除くことなく、とにかく問題が表面化しないような解決策をとる肯定側のアプローチを、本格的なディベートでは「イフェクト・オリエンテド・ケース」(Effect Oriented Case、結果重視型立論)という。この立論の特徴は、即効性はあるが長期的にみると問題が形をかえて再発する、という否定側の反論をくらうことにある。こうした議論パターンも本格的なディベートでは周知のことであり、生徒達に教えない理由はない。

 

3 「すべき」に含まれることと含まれないこと

 まず(1)の「必要性」に関しては、どれほどの必要性があればすべきと判断されるか? という明確な基準が残念ながら無い。解決されるべき問題の重要性においても期待利益の重要性においても、どの点をもってして充分な証明がされたと判断とするか? は一律には決まらない。この基準値をスレショールド・ヴァリュー(Threshold Value)という。

 量的証明,質的証明等というものもジャッジの基準値を満たすための一つの指標にすぎない。この不明確な判断基準は、未解決なディベートの問題の一つである。

 次に(2)の「プランの有効性」についてはShould-would-could argument(シュド・ウド・クド・アーギュメント、すべき・するだろう・することができる・議論)の場合分けが理解に役立つ。

 シュド・ウド議論(Should-would argument)とは、すべきという論題はあくまでもshould(すべき)を証明すればよいのであってwould(現状のままで実行されるであろうこと)を証明する必要はないという議論(ルール)である。

 一方、シュド・クド議論(Should-could argument)とはshould(すべき)を示すためにはcould(すべきと判断された暁には、それが実行可能である)ということを証明する必要があるという議論(ルール)である。

例を示そう。

 日本政府が主体の論題では日本政府が肯定側のプランをやがて採択する可能性などは証明する必要はないし、採択されないと反論する否定側議論も無意味である(Would)。しかしプランが価値有るものだと仮定(判断)して、そのプランが本当に問題解決性があるかどうかは肯定側が証明しなければならないし、その点においての反証は否定側から通常行われている(Could)。

 さらに次のような例はどうであろうか?

 法案Aというものは日本国民にとってはまことに望ましいものであるが、政府関係の要人にとっては都合が悪い。肯定側のプランはたとえ善しと判断されても、すぐに次の国会で無効とされてしまうだろうという否定側の反論。この例はShould-wouldの議論であり、そのような否定側の議論は無効とされるのが通例である。

 それでは次の例はどうか?

 日本政府は原発を廃止すべきであるという論題において肯定側が、補足案として、太陽エネルギー開発の推進及び強力な省エネ政策を提唱した。その太陽エネルギー開発には6ヶ月で開発完成としてある。この場合は、肯定側は二重の過ちをおかしており、否定側の次のような反論に会う。

反論(1)

フィアットは原発廃止という行為にのみかかるのであって、補足案の提示は、肯定側の仮定のし過ぎである。これを本格的なディベートではエクストラ・トピカル(Extra-topical、論題外的)なプラン条項である、と呼んで無効とされる。

反論(2)

さらに補足案の6ヶ月での太陽エネルギー開発は物理的に不可能である。これはプランの実行可能性(プラン・プラクティカリティー、Plan Practicality)の議論であり、肯定側はできる(Could)と証明しなければいけない。

 今日の学校教育ディベートにおいて、まさに問題なのは右のような反論が否定側の生徒から出てこない場合に指導にあたっている教師の方々が指摘できないということであろう。アメリカの中学生や高校生が知っていることを日本の子供達が知らないのではかわいそうである。「噛み合う議論のための知恵」を「ディベート術」としてタブー化しないで欲しい。

 この様なディベートの基礎情報は2年前に出版されたSDI演習アカデミック・ディベート初級編でも触れているのでお求めいただきたい。

 

4 フィアットの限界

 しかし無制限にフィアットが何に対してもかかるわけではない。フィアットがかかるのは論題中の主体(Agent)とその行動範囲のみである。日本政府の外交政策を決議する論題において、相手先の国の外交政策を好き勝手に仮定することはできない。その点はすべき(Should)の範囲を超えて、実行可能性(Could)の範囲であり検証可能な領域である。こうしてみると、世間の論題の誤りがわかる。

 日本語であっても、主語を省略した論題というのは、ディベートを行う上で非常に都合が悪い。

 それでは代替案(カウンター・プラン)などは否定側のフィアットではないか? という疑問をもたれる方もいるだろう。この問題についてはディベート理論のうちで最もおもしろく、議論が白熱するところであるが、本連載の主旨からはずれるので別の機会に論じたい。

 ただ、ディベートは単なるルールのきまった言語ゲームではなく、こうした様々な議論の有効性を考える学問(アーギュメンテーション)の実践の場であることを知っている人は教育界では少ない。

 例えばディベートでは、憲法をも変えることが出来る。プランは憲法違反であり実行性がないという議論の展開は誤りである。それはなぜか?今回の論も含めて、読者が疑問を持たずに読んでいては、ディベートを学んでいることにはならなくなる。是非、批判的に読んで頂きたい。

 自己の学問体系さえも議論の俎上にのせて、自己進化していくディベート(アーギュメンテーション)に学ぶところは多い。

 

第6章 トピカリティーについての誤解

 今回は、現在教室ディベートで誤解されている概念、「論題性(トピカリティー)」について説明したい。

 

1 トピカリティーについての誤解

 論題の基本条件の一つとして「ディベータブルかつトピカルなもの」というのがよくあげられている。ここで言う「トピカル」という言葉は、話題性という意味で使われている。

 しかし論題に話題性があり、またタイムリーなものである必要は必ずしもないことは既にこの連載で説明した。たしかに話題性のあるものは生徒の興味を引くかも知れないし、資料も集まりやすいかもしれない。しかしタイムリーであるがゆえに行政で対応がついてしまい、ディベートがやりにくくなることも事実である。

 例えば、米問題でディベートを行っていたとき、実際に政府が米を輸入することを決めてしまったことがあった。そうなると肯定側のプランが非常に難しくなってしまう。単純に米を輸入するというプランでは政府の政策と同じになってしまうからである。このようなディベートを何度か見たことがあるが、ただ単にディベート混乱させてしまっているだけである。

 また、話題性を論題の基本条件とするならば、では現在話題となっていないもの、タイムリーではないものは論題として駄目なのか。これを禁止する理由はどこにも見当たらない。たとえ話題になっていなくても、重要な問題はあるからだ。一体誰が「この論題は話題性がある」と判断できるのか。誰にとって話題性があるといえるのか。

 これらのことを考えると、トピカリティー(話題性)のある論題というものが論題の基本条件ではないことがわかるであろう。

 次に問題なのは、「トピカリティー」という言葉の誤解である。たしかに「トピカリティー」は、話題になっていること、時事問題という意味である。しかしディベートでは、一般的に「論題性」という意味で使っている。

 この点を誤解しているディベート解説書が多い。「論題に話題性があるか」と言いたいのであれば、トピカルという言葉は誤解を招くので使うべきではない。

 本来論題性は、propositionality(プロポジショナリティー)という言葉を使うが、一般的にはtopicality(トピカリティー)を使う。つまりディベートでは、トピカリティーは、話題性という意味ではなく、「論題性」として使われているのである。

 トピカリティー(論題性)とは、肯定側のプランが論題の範囲に入っているかどうかという議論である。

 肯定側の議論、プランが論題の範囲に入っている場合は、肯定側はトピカルであるといい、入っていない場合はノントピカル(nontopical)、非論題的となる。

 この逆もある。否定側のカウンタープランは、その前提条件の一つとして、非論題的(nontopical)でなくてはならない。それに対して肯定側から、「カウンタープランは論題に充当しており、論題を逆に肯定するものである」、といった議論も通常出される。

 肯定側は論題を肯定しなければならないので、肯定側の提出するプランは論題の範囲に入っていなければならない。それに対し否定側は論題を否定する、逆に言えば論題を肯定してはならないので、否定側の出すカウンタープランは論題を支持するものであってはならないのである。

 トピカリティー、論題性議論には二つの種類がある。非論題性(ノントピカリティー、nontopicality)と論題外性(エクストラトピカリティー、extratopicality)である。

 

2 非論題性(ノントピカリティー、nontopicality)

 非論題性とは、プランが論題に充当していないという議論である。

 論題に示された範囲に入らない肯定側のプランは、もはや論題を支持するものではなく、かえって論題外の議論を支持するものとなる。これでは肯定側の役割を果たさなくなってしまうことは言うまでもないであろう。

 この非論題的な肯定側のプランが、どのようなときに起きるのであろうか。例えば、「私達は夏休みにスポーツをすべきである」という論題で考えてみよう。

 肯定側のプランはもちろんスポーツをすることである。ではどのようなスポーツをするのか。ラジオ体操、野球、サッカー、それぞれがかってに好きなスポーツをする、などいろいろ考えられる。

 このような論題のときに肯定側が、頭の体操をしようとか、ディベートはスポーツである、ディベートをしようといったプランを出してきた場合はどうであろうか。これは非論題的なプランであることは明白であろう。

 では夏休みに釣りをしようというのはどうであろうか。一見考えると釣りはスポーツではないと考えられる。しかし近年盛んになってきたように、釣りにはスポーツフィッシングという側面もある。釣りが一概にスポーツではないとはいえないのである。

 釣りがスポーツといえるのかどうか、つまり釣りをするという肯定側のプランが論題を支持するのかどうかを考えるのが論題性議論である。

 そして「釣りをする」という肯定側のプランが論題を支持していないと見なされたとき、肯定側は非論題的(ノントピカル)であるというのである。

 

3 論題外性(エクストラトピカリティー、extratopicality)

 肯定側のプランの一部が論題の範囲外にあるとき、その論題からはみ出たプラン条項を論題外的(エクストラトピカル)であるという。

 肯定側はプランを実行しやすくするために、何でもかんでもプランの条項の中に入れてしまうことがある。そのプランの条項があくまでも付け足しであればよいが、ときとして、その付け足のプランから利益を出してしまうことがある。

 このプランから導きだされる利益は、はたして現状を変える、または肯定側のプランを取る理由となるのであろうか。このような論題の範囲から外れるプランの条項は論題外的であり、もちろんこのプラン条項から出る利益は論題を支持する議論にはならないのである。

 例えば、「日本政府は原子力発電所を廃止すべきである」という論題で考えてみよう。

 肯定側はプランとして、原子力発電所を廃止し、その分の代替案として地熱発電を推進するというプランを出す。そしてその利益として、爆発事故がなくなる、クリーンなエネルギーが得られるという二つを主張したとしよう。

 この場合の、爆発事故がなくなるという一つめの利益は、原子力発電所を廃止することによって得られることはわかる。しかし二つめの、クリーンなエネルギーが得られるという利益はどうであろうか。

 論題は原子力発電所を廃止すべきであるとしか言っていないので、地熱発電を推進するというプランは論題外である。ゆえにそのプランから得られる二番目の利益は現状改革、肯定側のプランを採択する理由にはならないのである。

 このような肯定側のプランを論題外的(エクストラトピカル)であるというのである。

 それでは実際にどのように論題性議論がなされるかを、その構成要素もふくめて次にみてみよう。

 

4 論題性議論の展開

 論題性議論は否定側から出される。肯定側が立論でプランを述べた時点では、そのプランは論題に適格であると見なされるからだ。つまり論題を定義する権利は肯定側にあるからである。

 肯定側の定義が妥当なものであるならばなんら問題はない。しかし先に見てきたように、中には非論題的なものもある。そのときに否定側は異論をさしはさみ、論題性議論を立論で展開するのである。

 論題性議論は通常次の三つのステップで展開される。

 (1)基準

 まず論題の解釈のしかたをあきらかにする。どのような基準で論題の定義を考えなければならないのかを示すのである。具体的には次のような考えから導き出す。

・統語論的に(syntactics)

 文法的にまちがい(文法に正しくあるべきである)

 ー○○の意味はおかしい(すべての語は正しく意味をもって無くてはならない)

・意味論的に(semantics)

 ー現実の社会(field context)で考えるとそのような解  釈はおかしい

・語用論的に(pragmatics)

 ー論題自身と、論題を作った側から解釈すると、

 ディベート界の理論(または教育界の理論)にもあわない、または論題作成意図からみておかしい

 

 (2)違反

 提出した基準に従ってみると、肯定側のプランが明らかに論題外にあることを説明する。

 論題の解釈を終えた上で、次に肯定側のプランがいかに真っ当な解釈から外れているかを説明する。

 (3)結論

 結論を述べる(相手側に、だからなんなんだと突っ込まれないために)。通常は、論題の範囲外にある肯定側はそれだけで負であると述べる。

 

5 論題性の審査 

 以上で論題性の基本的な概念、種類、議論の展開方法について簡単に説明した。では論題性議論はディベートの中でどのように審査されるのか。

 肯定側の議論、プランが非論題的な場合は、他にどのような議論があろうともその時点で肯定側の負である。

 肯定側が立論で出したプランは、否定側の論題性議論があって初めて非論題的かどうかが決定される。ゆえにいくら肯定側のプランが非論題的であろうとも、否定側からの議論がないかぎり審査員がかってに負にしてはならないのである。

 論題性のない肯定側がなぜその時点で負になるのか。それは、肯定側のプランが論題から外れているときは、肯定側は論題を肯定していないということになるからである。また、論題によって示された範囲を準備した否定側を無視することになり、ディベート本来の教育的な効果が失われることにもなるからである。

 では論題外性の議論が出たときはどうなるのか。もちろんそれだけでは肯定側の負にはならない。プランの一部が論題の範囲外にあるだけで、いぜんとして大部分は論題内にあるからである。

 論題外性に関しては三つの考え方がある。一つめは、論題外のプラン条項は全く無視すべきであるというものである。二つめは、論題外のプラン条項は残しておいてもよいが、そこから出る利益は、判定から除外すべきであるとする。

 三つめは、前回に説明した「フィアット」と関係してくる。フィアットが認められるのは、論題中の主体とその行動範囲のみであることは前回説明したとおりである。

 論題外のプラン条項にはフィアットがかからない、つまり、論題外のプラン条項が実行されるであろうということを、肯定側が証明しなければならないのである。もしそれが証明できたなら認めてもよいという議論になるのである。

 論題性議論は、いずれにしてもディベートの中で決定されるのである。おかしなトピカリティー議論が出ないような論題を作っていただきたい。

 

本稿は「現代教育科学」(明治図書)1995年9月号、10月号に掲載されたものです。