共に創ったディベート

北海道教育大学附属札幌中学校
佐々木 智之

 「優勝は1年生の頃からの夢でした。」

 実に簡単だが、その言葉には、ディベートを自己実現の1つとして3年間追求してきた者にしか言えない重さがあった。

 兎澤くみ子さんは、今年のチームで唯一の3年生である。昨年度は地区予選の決勝戦で平成8年度以来の覇者南幌中学校に敗退した。その雪辱を果たすため、同学年の他の部員がいろいろな理由から部を去っても、自分の夢を捨てずに部に残った。

 そんな彼女が中心となって今年のディベート活動は始まった。まずは、「環境税」についての学習である。インターネットで取り出した情報をもちよって読んだり、疑問点や新しく知った言葉を模造紙に書きなぐったりと膨大な資料にあたっていくうちに5月になった。

 5月20日 講師として岡山洋一さんに来ていただいた。

 「論題には種も仕掛けもあるのですよ。」「東京では練習試合も含めてこれが100試合目などという学校があります。」と刺激的な言葉の連続に8名の部員は今までで一番内容の濃い活動時間を過ごした。

 6月10日、23日の2回にわたり,南幌中学校の田村和幸先生が練習試合を設定してくださり、南幌中、北嶺中、東海第四高中等部と本校の4校で学習会をした。その練習試合に全て負けた。

 練習試合で1勝もしていないチームが、決勝に勝ち進むというのは、スポーツでは考えられないことだろう。その「どん底チーム」が勝利を手にしたのは、実際にディベートをしたメンバーだけではなく、そのメンバーにかかわる周囲の人々のあたたかい存在があったからなのである。

 まず、保護者の支えである。1年生の小松さんは5月に足を骨折して以来松葉杖をついている。休日の練習日にはいつも父母の方が車で送り迎えされていた。ある日、小松さんから「これ、お父さんからです。」と肯定側立論原稿を渡された。ディベート甲子園の立論の流れには沿っていなかったが、新しい視点をたくさんいただいた。はじめは間接的に関わっていたお父さんの入れ込みも次第に熱が入り,最後の練習日にはピークに達した。「なんとか勝たせたいんです。」と9時から5時まで昼食もほとんどとらずに、小松さんの立論執筆を指導されたり,反駁のアイデアを練ったりと,生徒と活動をともにされた。

 次に、旧部員のサポートである。1,2年の頃兎澤さんとチームを組んでいた2人が、練習試合全敗の現状を聞いてアドバイスに来た。カードの作り方など経験者の苦労に裏付けられたアドバイスには説得力があった。

 さらに、同僚との対話である。体育会系部の顧問からは勝つための鉄則を教わった。

男子バスケットで全国大会出場経験をもつ同僚の鈴木教諭に、「ぼろ負けしたチームが這い上がる方法はあるだろうか。」と相談したところ、「相手の徹底分析です。なぜ負けたのかをはっきりさせ、一つ一つ練習でつぶして行くのです。負けたチームほど多くを得ているはずですから。」と経験談を聞かせてくれた。また,職員室の隣の席に座る社会科の太田教諭には,「今の日本にとって一番大きな経済問題は何でしょうか。」などと漠然とした質問をした。私と太田教諭のやり取りを聞いていた吉井教諭(同じく社会科)が,社会科の教科書や資料集を差し出した。それには,関連しそうなページに付箋が貼ってあった。

 最後に、卒業生である。昨年度第1反駁を担当した渡部君は、決勝戦で自分が思うように反駁できなかったのが原因で東京に行けなかったと、いまだに悔やんでいる。「どんなに準備したつもりでも、いざ自分の番になると手に持っている反駁シートが頼りなく思えて、スピーチをしている最中は本当に孤独なんです。」と試合の3日前に電話でその時の心境を振り返った。彼は、私服の高校に通っているにも関わらず、試合当日は中学校時代の制服を着て応援に駆けつけた。1試合終わるごとに,私に「京都議定書の位置づけを追求したらどうでしょう。」などと攻撃のアイデアを提案してきた。彼は中学校時代の制服を着て観戦しながら,昨年度の試合に1つ1つ決着をつけていたのかもしれない。

 今年度のディベートは,準備期間から当日に至るまで,周囲の方々に広く深く関わっていただいて創り上げたと言える。今までの自分は,本当に小さい取り組みをしていたと痛感した。大きな議論をするためには,いろいろな人と関わって大きく視野を広げなくてはならない。

大会翌日の反省会で,兎澤さんは,「井の中の蛙にはなりたくない。はやく大海を見たい。」と決意を新たにした。

本稿は『トライアングル』第30号に掲載されたものです。