一般市民が専門的な内容でディベートをする意味


松村直樹
北海道大学大学院博士課程(工学研究科)


  1. はじめに

     「ディベートにコミットしています」と言うと、次のように言われることがたまにある。

    「その論題についての専門家でもない人間がいくら議論したって中味が深まるわけないだ ろう」

    と。確かにその通りである。今回の「甲子園」での高校論題は原子力だったが、かつて原 子力工学を専攻していた自分にとってみれば不満の多いものだった。
     ということは、ディベートというのは、当該論題の専門家同士で行わなければ意味がな いのか? 専門が決まっていない中学、高校生がディベートをすることは意味がないのだ ろうか?
     本稿では、論題で問われている問題について素人が論じることの意味について検討する。

  2. 公共的問題を議論する意味

     公共的な問題で意見が対立したとき、人はしばしば議論をして結論を出す。なぜ意見が対 立したときに議論して決めるのだろうか? 正しい判断を効率よく下すためであれば、必 ずしも議論をする必要はなく、当該の問題における専門家に一任した上で決定してもらえ ばいいだろう。あるいは似たような信仰を持つもの同士であれば神託によって決定しても よさそうな気がする。

    なぜ正しい結論が必ずしも得られる保証もなく、効率のよくない議論という手法によって 公共的な意思決定はなされるのか? 

    それは、公共的意思決定によって影響を受ける成員すべてが(たとえ間接的であれ)意思 決定に関与することを保証し、かつ成員すべてがたとえ自分の考えと違っても納得が行く ことを保証するためである。意思決定における個人の尊重である。民主主義とは、主権を 市民に与えることによって、このような手続き的正義を守る制度のことだと言える。しか しこれでは不十分である。なぜなら手続き的正義を保証しても、納得できるとは限らない からである。納得するには、はやはりどのように判断を下したかという過程が、成員で共 有されることである。思考過程が(ある程度)共有されていれば、「自分は違うが、なぜそ ういう決定に至ったのかは理解できるし、尊重できる」となる。しかし、それでもまだ問 題は残る。公共的な問題で議論をするとき、主権者である市民のほとんどはその問題に関 して素人である。そうすると、専門家、あるいは当該の問題に精通した人達は「素人のく せに」なんて言うかもしれない。どうすればよいのか? それは、できる限りの情報収集 に努め、その情報を元に、適切な思考過程(protocol)に従って判断することである。情報 収集ためには調査(research)が必要だが、素人には限界がある。そこで専門家の意見を参 考にするのである。専門家の責任は、自説が正当なものであることを主張するために、主 権者に対して説明責任(accountability)を果たすことであり、逆に素人である市民は、専 門家の主張を理解するためにある程度勉強しなくてはならない。このような緊張関係から 民主主義は健全に機能する。

  3. むすび-ディベート教育がめざす社会

    民主主義における主権者は市民である。そしてその市民は、基本的には素人であり、主権 の行使は、専門家の見解を元になされる。であるから、素人が議論しても意味がないとい うのは、専門家による独断を正当化することであり、民主主義ではない。

    専門家の独断を防ぐために、我々は思考過程を共有できるように適切な思考過程 (protocol)に従って意思を決定できなくてはならない。ディベートとはこの適切な思考過 程(protocol)を操るための訓練として非常に意義深いと考える(注)。

    我々がディベートを推進する理由、そしてモデルとして考えられているものはまさにこの ような民主主義社会への指向なのではないだろうか。

    (注)ディベートを行うことでリサーチ能力は上がるだろう。しかし、それは副次的な教 育効果に過ぎず、ディベート教育の真の意義ではない。