両 親

父  岡山 研一
母  岡山 孝子
弟  岡山 孝二





配属将校の暴力に抗議する中学生

岡山研一

元芽室高等学校教諭

昭和十四年十一月中ごろのことである。当時、私は山口県立下関中学校五年生であった。前日雨の中、教練の査閲も無事終り、「近年にない優秀な成績である」と講評も得て、私達はいささか誇らしげな気持で登校を急いでいた。通用門の土手下までくると石段の上に配属将校の後姿が見える。そして二人の級友がつかまっている。「むこうへ廻ろう」と私達は背中を丸めて走り抜けた。

この配属将校は戦地帰りの若い中尉で、よく門の脇に立っていて、登校してくる生徒の服装を点検しては、難くせをつける。「襟のホックがはずれている。ボタンは…。ゲートルの巻き方がわるい」帽子の被り方から敬礼の仕方まで。その朝運わるくつかまった二人は、朝礼が終っても教室に戻ってこなかった。

私達の教室から通用門がよく見える。窓際の生徒が下をのぞくと、二人は水溜りに正座させられている。配属将校は二階の私達に気付くと「ちらっ、ちらっ」と見上げては右手に持った小枝で二人の頬を叩く。隣の教室も窓を開けて騒ぎだした。一時間目が始まったが教室内は騒然としていて、なかなか授業が始められない。

「先生、朝礼のまえからですよ。木の枝で何回殴られたか。ひど過ぎませんか」

 「私達は昨日の査閲でも頑張ったのに。水溜りで匍匐前進したり、下着まで浸み通る者もいた。それなのにあんまりだ」と口々に、この時とばかり日頃の配属将校への憤懣をぶちまけた。ささいな事で「殴る蹴る」。「学校一の暴力教官だ」。教師は時々頷きながらただ黙って聞いていた。

 一時間目も半ば過ぎた頃、教室に入ってきた二人を見て私達は一瞬声をのんだ。左頬が握り拳をくっつけたように腫れ上って、その上を無数の赤紫の線が走っている。二人は歯をくいしばって悔しさに堪えていた。「ゲートルの巻き方がわるい」と正座させられ、折り取った桜の小枝で数え切れない程叩かれたという。その間約一時間、膝から下はずぶ濡れだ。生徒達は昂奮してもう授業どころではなかった。事態に驚いた学級担任は三時間目に話し合う事でひとまずその場をおさめた。二時間目は平静に授業を受ける。

 当時学校に保健室はない。殴られたくらいで手当を受けるとか、まして病院に行くことなどしない。二人もそのまま皆と一緒に三時間目を待った。私達の学級は、軍人志望と理科系志望の生徒が多く集まっていた。そしてすでに何人かが在学途中から陸士、海兵などに入った。いつ頃からか、これら生徒の壮行会を、朝礼時に全校生徒の前で行うことが例となって、毎回のように級友が誇らしげにその席にならんだ。学校一の元気の良い頑張るクラスだと自他ともに許すほどであった。

 担任は二人の頼に手を当てて傷の大きさに驚いた。私達は朝からの経過を話しながら、日頃の配属将校の言動、それを許している学校側の姿勢に対して、うっ憤をぶちまけた。

 「ここは軍隊ではない。学校だ。私達は軍人になるためのみに学校にきているのではない」

 「私達は査閲でも頑張った。それがこんなひどい仕打ちをするなんて、配属将校に謝罪を要求する」

 など学級担任への気安さもあって、いいたい放題。がとにかくこの収拾は学校側に一任することで、その後の授業は平常通り行う。

 その日六時間目に教練があった。「もし配属将校がきたら」と待ち構えていたが、退役の老教官がきた。整列して待ち受けている生徒には静かな殺気さえ感じられたという。

 二人の予想以上の傷に「すまないことをした。学校も対策を話し合っているから」と老教官が詫びる。

 「私達は配属将校から直接謝罪してもらいたい。このままではあの教官の教練はもう受けたくない」

 「私達は兵隊ではない。暴力教官のいいなりにはならない」しばらく不満を言い合ったが、後は元気一杯教練を行う。もちろんその中には頬を腫らした二人もいた。

 教練が終り装備を解きに銃器庫に入ったが、だれもでようとしない。二人を囲んでだれ言うとなく

 「明日朝全校生徒に呼びかけよう」「五年生だけでも呼びかけて直接抗議しよう」「もし駄目ならストライキだ」「裏山に立籠ろう」などと自分達の言葉に次第に昂奮してくる。と不審に思った老教官の連絡で担任が入ってきた。

 「こんな処で何してる、早く帰れ」

 と言葉は厳しいがやさしく見守る担任に、気勢をそがれてそのまま退散する。

 翌朝いつもより早めに登校すると教室中が騒いでいる。見ると二人の顔は目も口も開けられないほど腫れ上り、紫色に全体に拡がっている。その顔で平然と登校してきたのだ。

 「この顔をみんなに見せてこい。こんな事で負けるな」と父親にいわれてでてきた、と言葉少なに語る。無言のうちに私達の態度は決った。

 久しぶりに晴れ上った秋空、いささか昂った気持を抑えながら朝礼にでる。整列した右端にいる二人を見た担任は凝視したまま息をのんだ。朝礼が終り「解散」となる直前、私は走りでて週番長(生徒)に「生徒を残すように」と連絡する。下級生が解散した後、五年生約一八○人全員が朝礼台の前までつめて座り込んだ。五年の担任など三、四人の先生達が残ったが、事態を察した担任もただ黙って私達の方を見ているだけである。しばらく無言。不審そうに「どうした」と問いただす週番教師の前に、私は二人の生徒を立たせて

 「先生。これを見て下さい。事情は少しおわかりでしょうが、昨日朝配属将校に叩かれた跡です」

 と口火を切った。二人の顔を見た先生達は、ただ荘然とつっ立っているだけである。と今まで発言したこともないようなおとなしい生徒が、ふらふらと立上り、両手の挙を握りしめて体を震わせながら

 「こんなひどい仕打ちはない。あやまれ、あやまれ」と叫ぶようにいう。と堰を切ったように抗議が始まった。

 「私達は一昨日の査閲でも頑張った。配属将校も鼻が高いと悦んでいた。それが、ただゲートルの端が少しずれているというだけで殴る蹴る。水溜りに正座させたまま一時間近くも、折った桜の枝で叩く。その桜も私達が植えた記念の桜だ。これはもう教育ではない。暴力だ」

 他のクラスの生徒も次々と立っては、今までのつもりつもった憤懣を訴えた。

 五年生全員が教室に入らないのを心配して、教頭がでてきた。生徒は整然と座り込んだまま、頭を上げて正面を凝視して動かない。

 「私達は配属将校が皆の前で謝罪するまでここを動きません。すぐ呼んできて下さい」と訴え続ける。

 一時間目終了のベルが鳴る。教頭でもらちがあかないと考えた私達は、校長を呼んでもらうように要請する。

 外出先から急いで帰ってきた校長が姿をみせると、私は二人を校長の前に連れて行き、今までのいきさつを手短に説明した。そして「配属将校がこの場にきて、皆の前で謝罪すること」を要求した。もう騒ぎ立てる者はいない。

 二人の顔を見ながら説明を聞き終った校長は、「よしわかった。今配属将校は他の学校に行っている。(当時二、三校をかけ持ちしていた)連絡してここにきてもらうから、そのまま静かに待っているように」といい残して教頭と立ち去った。私達は学級担任に見守られる形で、静かに待った。

 二時間目も半ば過ぎた頃、校長に連れられて配属将校がやってきた。校長に促されて座り込んでいる生徒の前に立つと、さっと見廻して

 「煮て食うなり焼いて食うなり好きなようにしろ。俺は現役の軍人だ。軍の命令で動いているのだ。他人の指図は受けん。きさま達が何といおうと俺には恐しいものはない」

 無言のうちにも激怒した全生徒の視線が、いっせいにこの教官を射すくめた。教師達の苦渋にみちた顔、困惑の表情。担任は配属将校をにらみつける厳しい目つきをしている。

 私は静かに立上がり、二人を教官の前に立たせて

 「この顔を見て下さい。昨日教官から叩かれた跡です。水溜りに正座させたまま立ち上る事もできない無低抗な二人を、木の枝で容赦なく叩く。一時間近くも。これは血の通った人間のやることではない。この場で二人に謝って下さい」

 と、ほとんどいっせいに「あやまれー」と全員が叫んだ。

 「煮て食うなり焼いて食うなり好きなようにしろとは教官の言葉とは思えない。ごろつきと同じだ。私達は教育者に話をしているのです。もっと筋の通った説明をして下さい」

 生徒達は次々と立上っては、一時間近くも執拗に抗議し、謝罪を要求した。

 「黙っているのは私達の要求を認めるということですか。どうなんです。何もいえないのですか」

 「我々を虫けらみたいに暴力で教育するなんて、最低だ。こんな配属将校にはもう習いたくない。ごめんだ」

 私達の追及に答えようともせず、虚勢を張った傲慢な態度でつっ立っている配属将校に、怒りを抑えながらも、生徒達の言動は次第に荒らっぽくなってくる。と、

 「いいたいことはそれだけか。きさま達は命がけで戦っている戦地の兵隊のことを知っているのか。戦地ではこんなものじゃないぞ。国民皆兵だ。きさま達は卒業したら皆兵隊にとられるんだ。生意気なことをいうな」

 「私達は兵隊ではない。ここは学校です。軍隊でもなければまして戦地でもない。私達は軍人になるために学校にきているのではない。軍人だけが国民ではない」

 三時間目も終りに近くなった頃、それまで黙って配属将校と生徒達の応酬を見守っていた校長は、

 「教官は午後には連隊に帰らなければならない。これまでにして後は校長にまかせてもらいたい。解散して授業を受けるようにしてほしい」と中を割って入るようにいう。

 私達は不満ながらも、ひとまず解散して教室に入った。

 翌朝、登校してきた二人は腫れ上った顔に微笑を浮べて

 「昨日の夜謝りにきたよ。校長に連れられて。俺の親父にがっちりいわれて、畳に両手をついて謝った」

 みんなの前で謝罪させられなかった残念な気持もないではなかったが、これ以上追及はしなかった。

 この事件の主謀者とみられた私を始め、四、五人の生徒にも、なんの処分も無かった。二人の顔の傷や腫れは、なかなか治らなかったが、毎日元気に登校してきた。

 その後卒業まで三カ月半、五年生の教練の時間には、配属将校の代りに退役の老教官がきた。


岡山研一

大正十一年十月十八日、山口県下関市に生れる。

昭和十年四月、山口県立下関中学校入学。昭和十四年十一月、中学五年、「配属将校の暴力に抗議する」事件発生。昭和十七年九月、盛岡高等農林学校農業化学科卒業。日本曹達に入杜するが、父死亡のため下関に帰り会杜勤め。昭和十九年、下関梅光女学院勤務。昭和二十年六月召集。八月終戦後一週間ぐらいで戦災整理のため広島へ。原爆の惨状を目の当りに見る。一週間ぐらいで下痢症状がひどく九月末の復員の日まで入院。昭和二十六年から、北見北斗高、湧別高、釧路湖陵高を経て芽室高校で退職。