義経神社

所在:沙流郡平取町本町199番地  御祭神:源九郎判官義経公

 当神社の創祀は寛政拾年(一七九八年)の頃、幕吏近藤重蔵守重が創立されました。

 「源九郎判官義経公、衣川に自決せず、密かに高館を遁れ陸奥を潜行、北津軽三厩を経て海路北海道吉岡に渡られた。」とやら?蝦夷各地に残された数々の伝説を辿り、とりわけ沙流川流域ピラトリ(平取町)辺りの蝦夷人が源九郎判官義経公を真摯敬仰する情あるのをみて、その人々のため叉、北辺の守護神として尊像を寄進し小祠をハヨピラの地に建立祀らしめたことに依ると言われ、ハヨピラの聖地、沙流川の断崖に安置された御尊像は厳しい北方の暴風雨のため吹き飛ばされ、流出する災禍に再度遭遇し、サルフト(富川町)の浜、叉ある時はモンベツ(日高門別町)の浜辺に打ち寄せられたと言われておりますがその都度奇跡的にも元のハヨピラに還るので住民から畏敬され、かつその信仰弥々篤く今日に及んでおります。

以上の解説は、義経神社社務所パンフレットよりの抜粋

 義経神社正面。当初は左流太(さるふと)という所にあったが、後に平取の高台に移され、現在に至る。

 この社殿には一体の義経像が安置されている。

 義経の母である常盤御前の碑と、妻である静御前の碑。

 静御前は義経と吉野山で別れたあと、義経を追って蝦夷地(北海道)まで渡ってきたという伝説もある。 

 義経神社のお守り。

 御神徳には、願望成就(危難防除、無病息災、家内安全、交通安全、商売繁盛)、戦勝(選挙、裁判、試合、競馬)、勤学とある。

 名将源義経は、兄頼朝の挙兵に呼応して出陣し、数々の武勲をたてた。しかし頼朝の不興をかい都を追われ、奥州藤原氏をたより平泉に下る。庇護者藤原秀衡の死後、後を継いだ泰衡は鎌倉の圧力に耐え兼ね、義経主従の住む衣川の高館を急襲。文治5年(1189年)4月30日、義経は、応戦むなしく持仏堂に入り妻子を刺し殺し、火を放ち自害する。

 悲劇的な最期を遂げた義経であるが、一方「義経生存伝説」も根強く語り継がれている。衣川で自害したのはじつは影武者の杉目太郎行信であり、義経は弁慶とともに密かに高館を脱出、蝦夷地(北海道)へ渡り、さらに大陸に渡って元朝の始祖ジンギスカンになったという。

 この義経神社もそうした伝説の一つであるが、義経主従がたどったと思われる足跡が、東北、北海道に数々残っている。随時このページで紹介し、義経伝説についても解説していきたい。

 


ハヨピラの丘(UFO基地)

 沙流川を渡る国道237号線の左側の丘にある異様な建造物。

 宇宙友好協会という団体がハヨピラの丘を一括して買い上げ、昭和39年、高さ70メートル、幅100メートルのピラミッド型のUFO着陸基地を作った。

 アイヌの祖神オキクルミが、カムイ・カラシンタという黄金の乗り物で、ハヨピラの丘に降りたという。このユーカラ(アイヌの伝説)にある黄金の乗り物はUFOのことであるから、後継部隊のために着陸基地を作るといって建設した。

 ハヨピラUFO基地の全景。

 上部にピラミッド型の建造物が見える。遠くから見てもかなり異様だ。

 UFOの基地はその後訪れる人もなく、荒れ放題となっており、危険なので現在は有刺鉄線がめぐらされて入れないようになっている。