肯定側証拠資料

論題:日本による韓国併合は朝鮮半島の近代化に寄与した

 以下の参考資料をディベートで使用する場合は、必ず原本にあたって、確認して使用してください。

 

●近代化の定義

 

ギルバート・ローズマン(プリンストン大学社会学部教授) pp. 4-5 山田辰雄他編 『日中比較近代化論 <松阪大学日中シンポジウム>』 晃洋書房 1996年

(近代化とは)継続的、実質的経済発展をいうのであり、それは社会の構造と態度が根本的に変容する変化の過程を伴うものである。

 

尾形勇他編 『歴史学事典 第6巻 歴史学の方法』 弘文堂 1998年 p. 133

日本研究者のホール(Robert Burnett Hall)は1960年の箱根会議のあとで、「近代化」を次のように定義した。(1)都市化、(2)石炭石油電力の利用、商業化、(3)社会の流動性、社会政治参加の拡大、(4)非宗教化、科学化、読み書き能力の普及、(5)マスコミの発達、(6)大規模な社会施設の存在とその官僚制的組織化、(7)国家への統合。

 

梅棹忠夫他監修 『世界歴史大事典 6』 教育出版センター 1991年 p. 103

社会体制や政治形態の変化に着目して、近代的なるものの特徴をとらえる努力がなされてきており、(1)資本主義化、(2)市民社会化ないし「民主化」(個人の自由と自我の確立)、(3)工業化ないし産業化(機械文明・工場生産)、(4)合理化(理性的・機能的・効率的)などが基本的指標としてとりあげられてきた。

 

●寄与する

久松潜一 『角川国語辞典』 角川書店 1980年

功労をつくす、利益をあたえる、貢献する。

 

●土地調査事業

中村粲(あきら)(独協大学教授、日本近代史) 『「韓国併合」とは何だったのか』 日本政策研究センター 1996年 p. 40

(けれども、)道路、鉄道にしても、農地にしても、その基本はなにかというと土地調査です。現在では、この土地調査が「土地を奪った」と批判され、非常に評判が悪いのですが、土地調査をやらなければ鉄道も敷けないし、農地の拡張もできない。第一、税金の算定もできない。つまり行政の基本中の基本なのですね。この土地調査を、日本が東洋拓殖(東拓)という特別な会社をつくって八年かけて実行した。

 

●土地を奪ってない

中村粲(あきら)(独協大学教授、日本近代史) 『「韓国併合」とは何だったのか』 日本政策研究センター 1996年 pp. 41-42

しかも、この調査は日本人が直接やったのではなくて、朝鮮に土地測量学校を作って、そこで養成した朝鮮人を実務に当たらせた。実地の調査では、土地の所有権を持っているものを立ち会わせて杭打ちをしています。係争のある土地は土地調査委員会という一種の行政裁判所をつくって、訴えを聞いています。なかには、終戦まで続いた裁判もあったと言われています。

 

●植林事業

中村粲(あきら)(独協大学教授、日本近代史) 『「韓国併合」とは何だったのか』 日本政策研究センター 1996年 pp. 38-39

(例えば、)植林でも、朝鮮総督府は併合と同時に植林政策を始めて、毎年、数千万本ずつ植えています。(中略)韓国の人は、民族性の違いだと思うけれども、木を伐っても植えないんですね。なぜ木を伐るかというとオンドルにくべるためと、あとは火田です。火田民という焼き畑農業をやる人たちがいたのです。焼き畑をやって、地力が落ちて来るとまた別のところに行く。また、私有と公有の区別がつかないものだから、公の土地でもどんどん伐ってしまう。しかも、木を植えるという習慣がない。(中略)大正十一年の記録では、それまでに植林した苗木は一億四千万本にのぼったと記されています。

 

●水力発電事業

黄文雄(こう・ぶんゆう)(評論家) 『歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか』 光文社 1998年 p. 109

比較的大きな水力発電事業は、金剛山(クムガンサン)電気が最初で、五万分の一の朝鮮半島国土地形図ができてから、水力発電投資が注目されるようになった。その後、赴戦江(プチョンガン)、長戦江(チャンチンガン)、虚川江(ホチョンガン)などの水力発電所が開発された。朝鮮半島の産業にとって大規模な電力開発は、じつに画期的な事業であった。当時日本では一千キロが単位であるのに対し、朝鮮では一万キロが単位になっている。

 

●金融制度と通信事業の整備

岡本幸治(大阪大学教授) 『「日帝三十六年」朝鮮統治の功罪(日本は侵略国家ではない)』 善本社 1993年 p. 137

(しかし、)李朝末期に甚だしく不統一で混乱していた度量衡制度や貨幣の統一、そして金融制度の整備(中央銀行たる朝鮮銀行、地方産業の開発、金融の流通に貢献した農工銀行を統一して設立された朝鮮殖産銀行等)は、重要な意義をもつものであり、近代的な鉄道、道路、航路、港湾、電信・電話等の通信事業の設備は、経済発展に欠くことのできない社会的基盤を形成した。

 

●教育は経済発展の前提条件

岡本幸治(大阪大学教授) 『「日帝三十六年」朝鮮統治の功罪(日本は侵略国家ではない)』 善本社 1993年 p. 135

経済的発展の前提条件には、ここで指摘された目に見える要因以外に、目に見えにくいものがある。識字能力や価値観・生き甲斐といった精神的要素がそれである。広い意味での教育問題といってよいであろう。

 

●教育「近代化」の基盤造った

岡本幸治(大阪大学教授) 『「日帝三十六年」朝鮮統治の功罪(日本は侵略国家ではない)』 善本社 1993年 p. 145

今日の韓国における大変な進学熱は、「日帝時代」に負うところが多い。それ以前の学問は、両班など上流階級の独占物であった。徳川時代にすでに高い識字率を誇っていた日本は、学問さえできれば出身階層のいかんを問わず出世できる道を開いていた。朝鮮にもその影響が及んだのは当然である。初等教育から高等教育まで、伝統的な両班型儒学教育において無視されていた、理系ないしは実務型の科目を重視していたことも、「近代化」の知的基盤を育成する上で重要であったといえよう。

 

●教育制度を整備し、学校を作った

朴泰赫(パクテヒョク)(評論家) 『醜い韓国人』 光文社 1993年 pp. 220-221

日本は教育制度の整備にも、力を注いだ。日韓併合時には、小学校は百校あまりしかなかったが、総督府は初等教育については三面(村)一校の政策をたて、一九二三年までに二千五百の面において実現したうえで、さらにはさらには一面一校の目標を掲げて、この目標を一九三六年に達成した。その後は、小学校を倍増する計画を進め、太平洋戦争の開戦の翌年にあたる一九四二年には一面あたり二校ずつあるようになった。

 

●朝鮮半島を経済の調和のとれた国にした

ジャーク・プズー=マサビュオー(アテネ・フランセ教授、人文地理学) 『新朝鮮事情』 白水社 1985年 pp. 65-66

現代の朝鮮人の目に、日本植民地時代の悪い面が、伝統と独立に対する純然たる侵害として、非常に大きく映っているのであるが、一方別の面においては、南北朝鮮の国家経済を著しく飛躍させるための基盤はこの時代に築かれたのであり、その成果もまた大きかったといえる。日本は、約四〇年程の間に、きびしいやり方で、自然の脅威にさらされ、大きな工業設備をもたず、貧しかったこの農業国家を科学的な農業と様々な工業、そして活発な貿易を誇る経済の調和のとれた国へと変身させたのである。

 

●工業生産額は増大した

黄文雄(こう・ぶんゆう)(評論家) 『歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか』 光文社 1998年 pp. 159-160

数字的に見ると、工業生産額は一九二七〜三三年に三億円台、三五年に六億円台を超え、四〇年には十八億円台を突破して、農業生産額に匹敵する生産額になった。工業成長率は一九一四〜二七年に年平均五・三%であったが、二八年〜四〇年には、年に一二・四%の急速な成長を続けていた。一九三一年には軽工業(食料、紡績)が工業生産額の六二%、重化学工業(化学、金属、機械)が二五・六%であったのに対し、三九年には、重化学工業が逆転した。四〇年代の初めごろには、朝鮮半島は、台湾にやや遅れてではあるが、農業社会から工業社会へと構造改革していたのである。

 

●李朝の政治経済は乱れていた。

朴泰赫(パクテヒョク)(評論家) 『醜い韓国人』 光文社 1993年 p. 35

李朝末期の韓国は、政治が乱れに乱れていた。宮廷は国民の大多数が生活苦に喘いでいるのをよそに、政争に明け暮れていた。役人や、両班はみな私欲にかられて、自らの栄達と蓄財のみを求めて、弱い民衆を搾取することだけしか考えなかった。このために社会道徳が乱れて、精神も、文化も、経済も疲弊した。売官売職はふつうのことだった。どこでも賄賂がまかりとおった。黄金の力と暴力が支配していた。

 

●儒教文化を保ってきた韓国は自力では近代化できなかった。

金日坤(キムイルゴン) 『儒教文化圏の秩序と経済 国際経済摩擦研究業書2』 名古屋大学出版会 1984年  p. 195

儒教文化を保って来た伝統社会は、自主的に、いわゆる近代化を推し進めることが出来なかった。そして、外来勢力が、政治、軍事的な挑戦をしたり、外来文化が、強力な刺激を与えたことによって近代化のきっかけをつかんだのである。

 

●義か不義かという道義論のレベルで論じていては、日韓の間に実りのある対話が生まれない。

岡本幸治(大阪大学教授) 『「日帝三十六年」朝鮮統治の功罪(日本は侵略国家ではない)』 善本社 1993年 p. 131

儒教の影響が根強い今日の韓国ーその程度は本家の中国を上回ること数等だーでは、今なお知識人の議論にこの特色を見出すことが多い。しかし、日本統治の功罪という歴史的(総合社会科学的)課題を、善か悪か、義か不義かという道義論のレベルで論じていては、日韓の間に実りのある対話が生まれない。

 

●日本の国益でも近代化なった

岡本幸治(大阪大学教授) 『「日帝三十六年」朝鮮統治の功罪(日本は侵略国家ではない)』 善本社 1993年 p. 148

私は、日本が朝鮮に利他的・恩恵的な近代化をほどこした、などというつもりはさらさらない。日本は日本の国益のために半島に新出し、そして「近代化」の移入ー時には強引な押しつけーを行ったのである。しかし、日本の国益のためにやったことであるから、朝鮮の利益にはまったくならなかったというのは、アメリカが朝鮮動乱に参戦したのは、共産主義の膨張阻止というアメリカの国益のためにやったことであるから、韓国のためには一切役立っていないというがごときものである。説得力に欠ける。

 

●近代化は日本と韓国の国益

呉善花(オ・ソンファ) (新潟産業大学講師) 『「日帝」だけでは歴史は語れないー反日の源流を検証する』 三交社 1997年 pp. 102-103

私は、そのころ朝鮮にあった独立への可能性は、日本を牽制しながら日本の支援を受けるという、微妙なバランスをコントロールしつつ近代化を推し進めるところにしかなかったと思う。朝鮮の独立を切実に望む国は日本しかなかったし、少なくとも、朝鮮の独立が日本と朝鮮との一致した国益であることはまちがいなかった。現実的には、その日本との力関係を軸にする以外に、軍事的にも経済的にも、およそ自力で諸国に対抗する力をもたない李朝が、清国との宗属関係を脱する道はありえなかったのである。ところが、清国が干渉強化、いや属国の実権支配に出たために、その可能性は大きく遠ざかることになってしまったのである。

 

●創氏改名は嘘

小室直樹・渡部昇一 『封印の昭和史 「戦後五〇年」自虐の終焉』 徳間書店 1995年 pp. 188-189

また、苗字をむりやり日本風に変えたなどということが言われていますが、そのような事実はありません。創氏改名というのは嘘なのです。書類の形式を見てみれば、それが嘘だということが分かります。「創氏改名をした書類を出さないと不利だった」と彼らは言いますが、そんなことはまったくなかった。それが証拠には洪思翊中将を見るといい。洪中将はずうーっと洪という苗字で通していて、日本の軍隊で親補職にまでなったのです。日本人風の名前をつけなかったから出世できないということではなかったのです。