論題:日本による韓国併合は朝鮮半島の近代化に寄与した
●近代化の定義
森岡清美他編集 『新社会学辞典』 有斐閣 1993年 p. 319
近代化とはもともと複合的な概念である。近代化の程度をはかる単一の指標は存在しない。
梅棹忠夫他監修 『世界歴史大事典 6』 教育出版センター 1991年 p. 103
とはいえ、これまで、社会体制や政治形態の変化に着目して、近代的なるものの特徴をとらえる努力がなされてきており、1 資本主義化、2 市民社会化ないし「 民主化」(個人の自由と自我の確立)、3 工業化ないし産業化(機械文明・工場生産)、4 合理化(理性的・機能的・効率的)などが基本指標としてとりあげられてきた。
日本史広辞典編集委員会編 『日本史広辞典』 山川出版社 1997年 p. 642
一九五〇〜六十年代にアメリカのW・W・ロストウやJ・W・ホールらによって、唱えられた議論。体制の相違をこえて、伝統社会からの離脱の度合を工業化という尺度で統一的にとらえようとする。その際、日本が発展途上国の模範とされることが多かった。これに対しては、工業化の負の面を抹殺している、民主化の視点が欠如しているといった批判が寄せられた。
日本大辞典刊行会編集 『日本国語大辞典 第6巻』 小学館 1973年 p. 350
物事が、封建的専制支配・非合理的・非人間的状態から、文芸復興(ルネッサンス)、産業革命以後の人間性、合理性を重んずる近代的状態になってくること。
●寄与の定義
新村出編 『広辞苑第5版』 岩波書店 1998年
(贈り与える意から)国家や社会に対して役に立つことを行うこと。貢献
日本大辞典刊行会 『日本国語大辞典 第6巻』 小学館 1974年
1)寄贈すること。与えること。2)世のため、人のために力を尽くすこと。貢献すること。
日本大辞典刊行会 『日本国語大辞典 第7巻』 小学館 1974年
貢献
2)ある物事に力を尽くして、利益をもたらすこと。また、公のために力を尽くすこと。
●強制連行と従軍慰安婦
姜昌一(Kang Chang Il)(培材大学校史学科教授、歴史学) 『日本帝国主義の朝鮮支配の原理と政策(裁かれるニッポン)』 日本評論社 1996年 p.126
物的資源の収奪はさておき、人的資源の場合だけをみても、子供と老若者を除いた全朝鮮人を対象として、労働力280万余名(うち、日本、南方、サハリンの海外強制連行のみで73万余名)、軍人・軍属37万余名、軍「慰安婦」10万から20万名を強制連行し、強制使役するほどでした。
●皇民化政策
宮田節子(早稲田大学文学部講師) 『天皇制教育と皇民化政策(「帝国」日本とアジア 近代日本の軌跡10)』 吉川弘文館 1994年 p.
153
(しかし)朝鮮人を「天皇の赤子」とする教育は、同時に朝鮮人の民族性を否定し、抹殺することでもあった。そのため学務局を中心とする教育行政機関が整備され、「近代的」な学校が建てられ、普通学校(朝鮮の初等教育機関)から専門学校までの学校制度がととのえられ、日本人教師が配置され、日本人によって編纂された教科書が配付された。
●創氏改名の強要
宋建鎬(ソン・ゴンホ)(韓国外国語大学講師) 『日帝支配下の韓国現代史』 風濤社 1984年 pp. 317
日帝は(中略)、創氏改名は強制でなく朝鮮民衆の熱烈な要望に従ったものだと言いながら、その施行においては官憲を動員して脅迫し、強制した。総督府当局は朝鮮人の中から一部の著名人士を呼んで「創氏改名」を強要する一方、また一部の親日人士に対してはわざわざ創氏改名をしないように勧めて、外部世界に対し、創氏改名はまるで自発的決定によるものであるかのように偽装した。たとえば朴興植(パクフンシク)、張徳秀のような親日派が創氏をしなかったのは、日帝の政策によるものであった。
●植民地支配の美化は、戦争行為への反省心を薄れさせる
ワン・シューグァン 『20世紀からの決別 アジアが日本の戦争責任を問い続ける理由』 白帝社 1998年 p.
13
日本は過去においてアジアのためによいこともやってきた、という意識が芽生えることによって、戦争行為への反省心が薄れ、その結果、アジア人に対する加害者としての自覚も次第に消え去っていく可能性があるからだ。これは日本がアジア諸国に犯した大量殺戮や略奪など一連の戦争行為を反省する機会を失うと同時に、侵略戦争を正当化する日本人のイメージを、国際社会、とりわけ戦争被害者のアジア民衆に与える結果を招くことになる。
ワン・シューグァン 『20世紀からの決別 アジアが日本の戦争責任を問い続ける理由』 白帝社 1998年 pp.
31-32
朝鮮での植民地支配について、当時はともかく、いまでも日本人の一部の人は、植民地支配を美化し、その歴史的責任を回避しようとする言動を続けている。その代表的なものには、日本は朝鮮をロシアの侵略から救出しようとして朝鮮半島への進出を開始したという言い方や、日本は植民地支配を通して、朝鮮半島で道路や発電所を造るなど良いこともたくさんしており、すべてが悪かったわけでもないという主張などが見られる。これら自画自賛の言動に、朝鮮半島の人々はいつも強い反発を見せている。理由は極めて簡単である。日本が欧米列強の仲間入りを狙おうとして、朝鮮半島を植民地にしただけではなく、民族文化や家族制度も抹殺しようとするなど、欧米植民地主義者よりも徹底した植民地支配政策を採っていた事実があったためである。
●植民地近代化の研究は意味がない
松本俊郎(まつもととしろう) (岡山大学助教授、東洋経済史) 『侵略と開発 ー日本資本主義と中国植民地化ー』 御茶の水書房 1992年 p. 3
(そして)他国に対する侵略をともなった日本の近代化の歩みは、道徳的な価値基準によって否定されるべきだというばかりではなく、たとえ繰り返そうとしてみても国際的なリアクションによって阻止されるであろうという現実性の乏しさの問題として、モデルとしての限界を持っている。
●近代化は同化主義と結合する
清川雪彦(一橋大学経済研究所教授、アジア経済論) 『近代日本の植民地政策(歴史のなかの開発 岩波講座 開発と文化2)』 岩波書店 1997年 p. 233
日本の同化主義的植民地政策が、その明治以来の、急速な近代化過程の経験を背景としていたことは、ほとんど想像するに難くなかろう。しかしより一般的にも、同化主義は、いわゆる「近代化」と、その本質上、容易に結合し得るといってよい。
●工業生産の配置は軍事目的であった
宋建鎬(ソン・ゴンホ)(韓国外国語大学講師) 『日帝支配下の韓国現代史』 風濤社 1984年 pp. 334
(つまり、)日本帝国主義の政治的支配を考慮して工業生産が配置されたのであって、紡績、機械工業の大部分は朝鮮南部に、金属化学工業は北部にと、工業部門別、地域的に偏重して配置された。朝鮮の工、鉱業は、一部の日本独占資本の大企業を除いて、大部分を占めた中小企業の技術装備は非常に低かった。日本の資本家はそれを補填するため、朝鮮人労働者を非人間的な長時間労働と、日本人労働者の半分にしかならない低賃金で酷使することにより、莫大な植民地的超過利潤を上げた。
●日本の敗戦後、設備が操業できなくなった。
高橋泰隆(関東学園大学経済学部助教授) 「植民地経済と工業化」 『「帝国」日本とアジア』 吉川弘文館 1994年 p.
150
また、各地域の工業化をどう評価すべきか。それらは日本の戦争目的への奉仕のためだから生産的ではなく、しかも対日移送により過酷な収奪を余儀なくされた。これらの工場に雇われた現地の人びとは、日本人よりはるかに低賃金で働いたし、しかも非熟練の現場労働が圧倒的であった。日本人は管理部門の独占はもちろん、現場まで進出していた。ここに戦前日本企業の最大の特徴があった。
日本の敗戦後、日本人の管理者・技術者・熟練工が帰国してしまい、膨大な設備が操業できなくなったことは、各所でみられた。
●市場の発展は近代化に直結しない
清川雪彦(一橋大学経済研究所教授、アジア経済論) 『近代日本の植民地政策(歴史のなかの開発 岩波講座 開発と文化2)』 岩波書店 1997年 p. 241
(だがいずれにせよ、)植民地化の進展は、何がしかの市場的発展を、植民地社会へもたらすことは確かである。けれどもそれが、現地社会の経済発展につながり得るのか否か、あるいはまた、植民地での抑圧を軽減し得るのか否かについては、もう一つの「近代化」という軸を加えたうえで、分析しなければならない。なぜならば、独立国の場合と異なり、植民地にあっては、市場の発展は、必ずしも近代化(広義の経済発展)に直結しないからである。
●結果的に経済発展には寄与しなかった
渡辺利夫・金昌男 『韓国経済発展論』 勁草書房 1996年 p. 25
(しかし、)日本人経営者、中間管理者、技術者の帰国、日本からの原材料、中間製品、資本設備の輸入杜絶のゆえに、帰属工業資産の運営は容易ではなかった。解放後の各産業部門の生産状況を解放直前のそれと比較すると、工業部門の場合、稼働工場数は44%減、従業員数は59%減、鉱業部門ではそれぞれ96%減、97%減、輸送部門は82%減、87%減という激しさであった。
●言論弾圧を行った。
金圭昇(キム・キュスン) (朝鮮民主主義人民共和国教授、法学博士)『日本の朝鮮侵略と法制史』 社会評論社 1991年 pp.
230-231
新聞、雑誌等、言論機関に対する弾圧も激しかった。一九二〇年代、新聞、雑誌にたいする停刊禁止による弾圧状況は一九二〇〜二九年間に朝鮮日報は差押処分三一八回、発行停止四回、東亜日報は差押処分二八八回、発行停止二回、このほかに中外日報、朝鮮中央日報、雑誌「開闢」、「新生活」等が弾圧をうけた。
●会社令を実施し、朝鮮経済を独占した。
金圭昇(キム・キュスン) (朝鮮民主主義人民共和国教授、法学博士)『日本の朝鮮侵略と法制史』 社会評論社 1991年pp.
195-196
日本は「会社令」を実施し、朝鮮経済を殆ど独占することによって朝鮮における民族資本の発展の途は杜絶され、経済のすべての部門が日本資本の隷属下にはいったのである。「会社令」公布後、朝鮮で民族産業を抑制し、朝鮮経済を掌握するための日本の経済政策の結果、一九一〇年代朝鮮人資本の比重は系統的に減少したのである。
●土地調査事業によって農民は多くの土地を失った
渡辺利夫(東京工業大学教授、開発経済学・アジア経済論) 『韓国経済発展論』 勁草書房 1996年 p. 20
朝鮮会社令につづいて朝鮮総督府は1913年に「土地調査令」を公布し課税地の拡大を求めて、それまで不明確であった土地私有権の確定を図った。近代的な土地行政に不慣れな、その多くが文盲であった零細農民は、これによって土地の多くを失わざるを得なかった。また農民の伝統的な共有地や李朝政府の公有地は、「国有地」となって総督府の直轄下におかれた。
金圭昇(キム・キュスン) (朝鮮民主主義人民共和国教授、法学博士)『日本の朝鮮侵略と法制史』 社会評論社 1991年pp.192-194
日本は土地所有権申告手続と方法を複雑にして農民の申告に人為的な難関を造成するほかに莫大な申告費用を負担させたのである。(中略)その結果、三三万一七四八名の農民が耕していた一三万三六三三町歩の「駅屯地」と九〇余万町歩の田畑が「国有民間地」という名目で日本の「国有地」として奪われたのであった。(中略)日本の土地略奪の強化は農民の破産没落をもたらした。その数は一九一二年には約三五万、一九一七年には四五万件に増大した。
●森林資源も奪い取った
金圭昇(キム・キュスン) (朝鮮民主主義人民共和国教授、法学博士)『日本の朝鮮侵略と法制史』 社会評論社 1991年 p.
195
日本は農耕地だけではなく森林資源までも奪いとった。(中略)日本は「国有林区分調査」の名目のもとに森林資源が豊富であり、地下資源開発に展望性のある森林を「国有林」として奪いとったのである。結局、日本の森林略奪も「土地調査事業」の結果がそうであったように植民地支配の侵略行為であったことをしめしている。
●電力消費は軍需生産目的であった
宋建鎬(ソン・ゴンホ)(韓国外国語大学講師) 『日帝支配下の韓国現代史』 風濤社 1984年 pp. 332-333
電気工業は一九三〇年代末から四〇年代にかけて開発に力を注いだ結果、一九四四年には一七二万キロワットの発電力を持つようになり、一九三一年の三四倍に達していた。しかし、その電力消費は主として軍需生産に利用され、朝鮮人の生活と密接な関連のある電気機械工業の発展にはあまり利用されず、全電力の六八%が化学工業に、一〇%が鉱業に利用された。
●通信網の整備により朝鮮人民を弾圧した
金圭昇(キム・キュスン) (朝鮮民主主義人民共和国教授、法学博士)『日本の朝鮮侵略と法制史』 社会評論社 1991年 p.
198-199
日本は植民地統治で逓信事業に重要な意義を付与し、電信、電話をはじめとする通信網をしき、朝鮮人民の反日闘争を弾圧し、植民地支配を強化しようと躍起になっていた。朝鮮占領以前に、すでに朝鮮の通信網を実質的に支配した日本は、本格的に占領した直後から全国を警察網で包囲した。そして朝鮮人民の反日運動にたいする弾圧を強化する目的で憲兵、警察、軍隊専用の「警備電話網」を全国的にはりめぐらしたのである。
●貨幣制度と金融機関の拡張による独占
金圭昇(キム・キュスン) (朝鮮民主主義人民共和国教授、法学博士)『日本の朝鮮侵略と法制史』 社会評論社 1991年 p.
199
一九一一年一月日本は朝鮮の貨幣市場を日本に完全に隷属させる目的のもとに「韓国貨幣条例」による貨幣鋳造を禁止させ、一九一八年三月三〇日には日本の「貨幣法」を朝鮮にも実施させた。それによって朝鮮の貨幣制度は完全に破壊され、日本の植民地貨幣制度により朝鮮の貨幣市場は完全に隷属されるようになった。日本はまた植民地金融財政政策で中枢的役割をはたすべき金融機関を拡張し、それにたいする独占的支配権を確立しようと策動した。
●教育制度への弾圧
金圭昇(キム・キュスン) (朝鮮民主主義人民共和国教授、法学博士)『日本の朝鮮侵略と法制史』 社会評論社 1991年 p.
188
当時、朝鮮人民の教育にたいする熱意は高かった。とくに朝鮮にたいする日本の侵略策動強化し、国と民族の前に亡国の危機が深まっていた一九世紀末から二〇世紀初頭にいたって愛国的民族教育は活発に展開された。進歩的な私立学校を中心に民族教育運動を展開した。その結果、一九〇八年には私立学校数は三〇〇〇校に達した。これらの学校では朝鮮歴史、地理、言葉と文字をはじめ一般教育をし、反日愛国教育も実施した。そこで日本は一九〇八年に「私立学校令」を公布して弾圧した。このようにして一九一〇年、日本の朝鮮侵略当時の私立学校数は約二〇〇〇校に縮小されたのである。
●日本が施行しようとした教育は教育の名に値しなかった。
金圭昇(キム・キュスン) (朝鮮民主主義人民共和国教授、法学博士)『日本の朝鮮侵略と法制史』 社会評論社 1991年pp.
204-206
政治、経済の分野と同様に、文化の方面でも日本は、朝鮮で民族文化を抹殺し、朝鮮人民に無知と蒙昧を強要する法律を公布した。(中略)日本が設立した公立普通学校は有名無実で、学令児童の一割も収容することが出来なかったのである。(中略)日本が経営した公立普通学校は高額の月謝を納めることはできず、労働者、農民、都市貧民は子女を入学させることは不可能であった。(中略)日本が施行しようとした「教育」は教育の名に値しなかった。
●普通学校の就学率は低かった
宮田節子(早稲田大学文学部講師) 『天皇制教育と皇民化政策(「帝国」日本とアジア 近代日本の軌跡10)』 吉川弘文館 1994年 p.
155
第二次教育令は、教育における「一視同仁」の具現だといわれ、「内鮮共学」を定めたが、しかしそれは建前で、「国語ヲ常用スル者」と「国語ヲ常用シナイ者」という言葉による民族別教育が行なわれた。そして「国語ヲ常用シナイ」朝鮮人学校では、日本語と日本の地理・歴史教育が強化された。と同時に教育の普及に力が注がれ、三面一校計画は、一九二九年(昭和四)には一面一校に拡充され、三三年にはいちおう完成した。しかしこの時点でも、朝鮮人の就学率はわずか二〇%にすぎなかった。
●植民地支配が近代化の芽を摘み取った
旗田巍(はただ・たかし)(東京都立大学名誉教授) 『朝鮮と日本人』 勁草書房 1983年 p. 10
近来の研究によると、近代列強と接触する以前の朝鮮社会の胎内には、古い社会の枠を突き破るべき資本主義的要素がうまれていた。農業・工業のなかで、さらに思想の面で、近代を志向するものが胎動していた。朝鮮の民衆は眠っていたのではなく、旧社会をのりこえ新しい社会をつくるための努力をしていた。民衆生活のなかには、未成熟とはいえ資本主義をめざす変化がおこっていた。しかし、その正常な発展は阻害された。日本を先頭とする列強の侵略が近代化の芽をつみとり、古い社会経済体制を温存・再編したからである。
●儒教文化は近代化を推進する
ギルバート・ローズマン教授(プリンストン大学社会学部) 山田辰雄他編 『日中比較近代化論 <松阪大学日中シンポジウム>』 晃洋書房 1996年 p. 32
もちろん私たちは、政治的な目的のために文化を操ろうとする指導者に対しては警戒しなければならないが、東洋的な近代化の形態が、儒教的伝統に根ざす社会的な特製によるものであることは、比較考察により明らかである。というのも、日本と中国のモデルから、次のような3種類の「儒教的資本家」像が浮かび上がってくるからである。すなわち第一に、家族に基づく企業家、第二に、協同歩調重視の経営者、そして第三に、国家のために働く、いわゆる「官僚資本家」がそれである。