モデルディベート解題

岡山洋一・西澤良文

本ディベートは、1999年11月13日(土)第6回自由主義史観研究会・秋の授業づくりセミナーIN札幌(主催:自由主義史観研究会)において行われたものである。論題は、「日本による韓国併合は朝鮮半島の近代化に寄与した」で、肯定側を岡山洋一、否定側を西澤良文が行った。このディベートはモデルディベートのため肯定側、否定側は事前に決めてあった。もちろんこれはディベートであるので、それぞれの立場を代表するものでない。

 モデルディベートが終わったあと、岡山による事実・価値ディベートについての説明と、モデルディベートについての解説があった。本稿はその解説をもとにして書き直し、追記したものである。


事実・価値ディベートの構造


論 題

通常ディベートの論題は次の三つに分類される。

  事実論題 (fact)
  価値論題 (value)
  政策論題 (policy)


具体的に各論題は、次のようにある事柄を議論する。


  事実論題  ある事柄が あるか ないか

  価値論題  ある事柄が よいか わるいか

   政策論題  ある事柄(政策)をすべきかどうか


このうち政策論題については数々の本が出版されており、またその方法も良く知られている。しかし事実論題、価値論題について書かれている文献は、私の知る限り日本には見当たらない。多くの本には政策論題こそディベートであるとか、事実・価値ディベートは難しいなどと書かれてあるが、それは事実・価値ディベートがよく知られていないだけではないだろうか。


 初めにそれぞれの論題の特徴をみてみよう。政策論題は、政策を行う事の正当性を

1)その行為の正当性を検証する正当化議論と

2)その行為を実行したと仮定して、結果を予想し、その是非を争う方法がある

1)は2)も含むものの、議論としては分ける事ができる。

一方、事実論題と価値論題は、いわゆる過去・現在・未来においてそうみなされるであろう事実の主張と価値観の主張を伴ったものである。歴史ディベ-トは事実論題の過去のある時点において議論するものである。一般的に事実認定において、認定する人物の価値観が入らざるを得ないように、過去の事実認定においても価値判断が大きく関わってくる。ゆえに事実論題と価値論題は明確には分かれにくいものである。


韓国併合のディベートを例にとって、それぞれどのような論題になるかをみてみよう。


  事実論題の例 「日本による韓国併合は朝鮮半島の近代化に寄与した。」

  価値論題の例 「日本による韓国併合は善政だった。」

   政策論題の例 「日本は韓国併合について韓国に謝罪すべきである。」


このディベートであえて政策論題ではなく事実論題を選んだのは、一つには歴史問題を扱うモデルディベートだからである。もう一つはこのモデルディベートは、ディベートを見せるというよりは、どちらかというとディベートでこのような問題を分析したときにどのようになるのかということを見せるためでもあった。そしてなによりも、より深く事実・価値を議論したかったためにこの事実論題を設定した。


肯定側・否定側

政策論題では、肯定側は論題を肯定する側、すなわち〜すべきであると主張する側、反対に否定側は論題を否定する側、すなわち〜すべきであるという理由ははい、または〜すべきではないと主張する。

事実・価値論題でも同様に、ある事実・価値を扱う論題を肯定する側が肯定側、論題を否定する側が否定側となる。肯定・否定を分ける論題設定の方法は、どちらが立証責任を負うかということである。通常最初に話す側が立証責任を負うので、当然肯定側が立証責任を負う。つまり一般に言われていないことを証明する側が肯定側となる。一般的に認められていることが必ずしも事実とは限らないが、ディベートの論題とする場合は、一般的に認められていることをくつがえす論を張る方を肯定側とする。

例えば、UFOや幽霊の存在を考えたときに、UFOは存在する、幽霊は存在すると主張する側が立証責任を負う。なぜならUFOの存在や幽霊の存在は一般的には認められていないからである。この場合は例えば論題は「幽霊は存在する」となり、肯定側が幽霊の存在を証明し、立証責任を負うのである。否定側は幽霊の存在を積極的に否定する必要はない。否定側は肯定側の論を崩すだけで良いのである。


肯定側立論の構造

立論の構造はそれぞれ次のようになる。

政策ディベートの構造

 プラン

 メリット

  発生過程

  重要性

事実ディベートの構造

 定 義

 論 点

価値ディベートの構造

 定 義

 基 準

 論 点


政策論題で定義はほとんど争われることはないが、事実、価値ディベートでは定義が半分近く争われる。事実・価値ディベートでは定義を争うことになるが、一方的に肯定側が自分たちに有利なように狭義な定義を出してはならない。定義は一般的でなくてはならない。

価値ディベートの「基準」とは、どのくらいの条件を満たしたときにその価値が生まれるのかという価値の基準である。例えば良い、悪いの基準は何か、成功した、失敗したの基準は何かということである。どのようなときに良い・悪いと言えるのか、このような定義を満たす基準を示すことである。


モデルディベートの構造

今回のディベートの論点は大きく分けると、以下のようになる。


1)「近代化」の定義

2)立場によって価値判断が変わる「貢献した」という言葉の定義

3)日本が行った併合政策が上記の「近代化」の定義に合致していたかどうか


肯定側は「近代化」を実質的な経済発展(社会システムが変化するプロセスも含む、つまり社会システムの変化というプロセスと、経済発展という結果)と定義した。論点1では、社会システムの変化を示し、韓国併合により、日本が朝鮮半島の社会システムをどのように変化させていったかを、1)土地調査事業、2)その他のインフラ整備、3)教育制度の3点をあげ説明した。論点2では朝鮮半島の経済発展を工業生産額の増大などを数字を上げて説明した。論点3では朝鮮半島が自力では近代化できなかったことを説明した。

 これに対して否定側は、以下の二つの検証方法をとった。


1)併合の意味を問う事自体、意味がないのではないかというアプローチ

2)通常の事実論題の検証方法


1)はクリティーク(Critique or Kritik)という議論である。クリティークは日本ではまだ一般的ではないが、近年アメリカのディベートでよく行われている否定側の戦略である。これは肯定側の立場そのものを疑うもので、論題そのものの妥当性を問う議論である。論題自体が誤りであると、肯定側の議論の前提を否定するのである。

クリティークは言語クリティーク(language Critique)と哲学的クリティーク (philosophical Critique)の二つに大別される(さらに細かく分類されることもある)。言語クリティークとは論題の言葉に内包される概念に異議を唱えるものである。例えば、否定側は近代化するという概念自体に自分か中心主義的な概念が含まれていることを示し、論題内のどのような政策も自文化中心的主義的という誤った前提に立っているので否定されるべきだと論を展開する。哲学的クリティークは、論題の背景自体に誤った思想が含まれているので論題は否定されるべきだと主張する。

今回のモデルディベートでは、この哲学的クリティークを否定側の議論として提出することにした。つまり、「韓国併合」や「韓国を近代化した」ということ自体を論ずることは、


1)植民地支配を美化している

2)戦争行為への反省心を薄れさせる

3)植民地近代化の研究は意味がない

4)近代化は同化主義と結合する


ことになるという反論である。実際のディベートでは1)2)3)のみを否定側の議論として提出した。

このクリティークは、実際のディベートで使うことを勧めるために行ったのではない。この議論自体がディベートを混乱させたり、議論を損なったり、またこの議論自体の妥当性の問題もまだ残されている。しかし私たちがこの議論をあえて使用したのは、近代化ということや韓国併合について議論すること自体問題がある、道義的に考えて近代化というのはおかしいという議論が現実にあるので、これらをモデルディベートに反映させたいと思ったからである。

2)通常の事実論題の検証方法は更に二つに分かれ、一つ目は近代化という言葉の定義である。これがはっきりしないと近代化といえたのかどうかわからない。もう一つは価値論をふくむ「貢献した」という言葉の定義である。

近代化という言葉の定義に否定側からは包括的な定義論を持ち出し、あくまでも包括的な発展がなければ近代化とはいえないと主張した。肯定側は、限定的な意味で十分である事、包括的な意味でもそれほど外れていない事を論じた。

価値論的な議論を展開しなくても、事実論題は定義がすべてである。ディベート甲子園のディベートでは論題の正当性をメリット・デメリットという結果において比較衡量するが、事実論題では、定義の妥当性とその定義にどの程度当てはまっているかという点が議論の中心となる。当然幾重にも展開される定義そのものの正当性も議論となり、審判はその議論の中でどの定義が妥当か、次にその定義に沿ったとして、どの程度(ディベートの終わりにおいて)肯定側のいう定義が挙げられた事実と合致しているかを判断するのである。

政策ディベートのようにデメリットがないから、つまり近代化に逆行したわけではないからといった視点での審判を下してはならず、あくまでもどの程度近代化という範疇に適合していたかを審査しなくてはならない。一方その意味において否定側は用意はしていたものの、韓国独自の近代化路線があり、日韓併合は逆行していたといったダイナミック且つわかりやすい議論の展開、議論の結末までもっていけなかったことも事実である。

次に「貢献した」という言葉である。これは近代化にも関わってくるが、貢献という言葉の健全性について否定側が論じた。「いじめた側の子供たちが、いじめに耐え頑張った子供に対して、鍛えてやった、おまえの人間成長に貢献した」と事実認定することが果たして許されるのか、そう言えるのか、という韓国側の立場からの価値(道義論)を挑んだ。

この点については、近代化とはおよそいえないような日本の韓国での振る舞いを上げる事によって、近代化とはいえない、しかもそれは長い目でみても貢献とはいえないという、行為そのものが近代化の定義からはずれていると主張。またそのような近代化とはおよそいえない行為が、貢献したという言葉からは外れることを否定側は例をあげ論を展開した。

試合の焦点についていえば、下記の点での僅差によって勝敗が決定されたといってよい。通信インフラ整備についての反論がなかったこと、電力、学校、土地整備の議論で肯定側の「結果的には近代化のワンステップになった」という議論に対し、それは貢献ではなく被害を受けた側の自助努力によるものだ(先ほどのいじめられた側のたくましさを、いじめた側が貢献というべきではない)と否定側がもっと強力に論を展開しなかったことによって肯定側の勝利となった。