Clover
- - - 第15章 心の狭間3
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どうか気付かないで
この心の行方に


* * * * *


(いつまでこの平和は続くのだろう―――――)

そんなことを、最近になってイオはよく考えるようになっていた。
夕陽に茶色の髪が、赤く染まっている。王宮から見えるその光景は、雄大すぎて、少しだけ恐ろしさすら感じる。

ノイディエンスタークに来て、もうどれくらいになるだろう?ここでの生活に慣れて来ている自分に、イオは気付いていた。

腰には、あの姫君から託された『風神』と呼ばれる剣がある。
今となっては、もう、自分の手のようにすら感じるその存在は、レインにとっても同じなのだろう。

レインがラドリアを捨てる、とは思わない。
あの場所には、大きな痛みと共に―――――彼の最も愛した娘が眠っているのだから。

(「イオは今のラドリアをどう思うの?」)

今の―――――ラドリア。
祖国でありながら、帰りたいと無条件には思えない、その場所。
血の臭いのする風が吹く国。

(「まるで、物語のようね」)

あの姫君は、何を知っているのだろう。
もしも……もしもそれが、長い間自分が抱いてきた疑問と同じものであるなら、その時自分はどうしたらよいのだろう。
―――――レインのために。
気付かないフリをしていた、その事実を、彼女が解き明かしてしまったら。

でもそれを、本当は自分は望んでいるのかもしれない。
レインの副官としてではない、イオ・オーガスとしての自分は、それを渇望しているのかもしれない。

けれど―――――。

(レイン様のためには)
(レイン様が望む未来が、自分の望むものとは違っていたなら)
(私は……それを止めることは……おそらくできない)

それが例え、あの姫君を敵に回すことになっても。
自分の心に逆らっても、自分はレインの側にいて、守らなければいけない。それが仕えるということだ。自分はレインに仕える者以外ではありえないのだから。

(「イオはあの人になれるかしら?」)
(「……あの人?」)
(「私の父様にとっての、ユーノスのような……そんな存在に、なれるかしら?」)

そう言って笑った、あの姫君の言葉が、胸に痛い。

レインにとっての、自分。
彼女にとっての、アゼルは。
―――――そんな存在になりえるのだろうか。

思いを巡らせながら、ぼんやりと夕陽を眺めていたイオの視界の端に、おぼつかない足取りの華奢な後姿が映った。
その髪を夕陽に染めることはなく、夜の漆黒のままになびかせた、見知った少女。

「……メナス殿?」

しかし何やら様子がおかしい。
元々イオの中ではふわふわしたイメージの強い少女だが、今はそれ以上にその背中は頼りなげに見える。
イオは今までいたその場所から離れると、力強い足取りで彼女の側へと歩み寄った。

「メナス殿?」
「……え?」

後ろから声をかけると、メナスはぼんやりとした瞳で彼を振り返った。
その視線はなかなか定まることなく、何処か夢を見ているようで、イオはふと不安を覚える。

「……泣いていたのですか?」
「……泣いてません」

しかしその瞳が赤く腫れているのが、夕陽のせいだけではないことは、すぐにわかってしまう。
イオは困ったように眉根を寄せて、もう一度繰り返した。

「……泣いていたのですね」
「泣いてません。夕陽のせいでそう見えるんでしょう?」

強がりとも言える言葉で、彼女はイオを拒絶した。
そのまま俯いたメナスを、イオはどうしたらいいのか分からず、ただ見下ろすばかりだ。

「……お帰りになるのですか?」
「……ええ、執務も終わりましたから」
「そう、ですか」
「……」

ぎこちない会話が続いてしまう。
ゲオハルト達が一緒にいる時は、こんなに言葉に困ることはないのに。
よく考えてみると、離宮での暮らしが長いせいか、自分は女性と話すことに、あまり経験がないということに思い当たった。

「そ、そう言えば今日は姫君は留守なのだそうですね」
「……ええ……フューゲルへ……竜の鬣へ……」
「姫君が自分からフューゲルへ行くというのも、結構意外でしたが」
「……そう、ですね」
「姫君がおられないので、寂しいのではないですか?」

彼は最大限に、気を使ったつもりだった。
この少女は、かの姫君のことを好きだと、公言していたから。
それはそれは嬉しそうに、柔らかな笑顔で、そう言っていたから。

―――――しかし。
その言葉に顔を上げたメナスの瞳には、大粒の涙と強い怒りの色が浮かんでいて、イオは驚きに目を見開いた。

「知りません、そんなこと!」
「メナス殿?」
「わたし……わたしの前で今、姫様のことを言わないで!」

苦しいのだと。
つらいのだと。
そんな感情を込めて、叫んだメナスに、イオは面食らった。
しかしメナスは、自分の言葉が起爆剤になってしまったのか、本格的に手で顔を覆って、首を振る。

「知らない!もう知らない!わからない!わからないもの!」
「……メナス殿」
「知ってたくせに……本当は知っていたくせに……!どうして笑っていられるの?」

あのひとは。
そう……知っていたの。

「わたしが……本当は」

―――――ずっとずっと知っていたのに。

「本当は、あのひとを」

ずっとずっと憎んでいたって―――――知っていたのに。

熱い、涙。
そのどうしようもない感情に、泣くしか出来ない自分の肩に。
最初はためらいがちに、でもすぐに強く置かれた大きな手を、メナスは何処か遠い場所での出来事のように感じていた。


* * * * *


「……ずっと、嘘をついていました」

夕陽が山の向こうに沈んで、闇が辺りを包んだ頃。
中庭の木の根元に寄りかかるように腰を下ろし、宥めるように柔らかに自分を抱きしめるイオの胸に身体を預けながら、メナスは静かに呟いた。

「……」

イオは何も言わず、ただ黙って彼女の言葉を聞いていた。背中に置かれた手を、ゆっくりと撫でるように動かしながら、彼女の心が落ち着くのを促す。

「わたしは姫様が、好きだったわけじゃないんです。好きだと思い込もうとしていただけ。自分で自分に嘘をついて、周りにもずっと嘘をついてきた。そうやって、わたしはわたしという存在を作り上げていた」
「……」
「そんなのは、嘘。みんな、嘘。でも……わたしは、嘘でもよかったの」
「……嘘をつくのは……苦しいでしょう?」
「苦しい……?」

―――――苦しい?
メナスはそのままの姿勢で、頭の上にあるイオの顔をゆっくりと見上げた。

「いいえ、苦しくは……なかったんです」
「……何故?」
「苦しいなんて、思わなかった。わたし……幸せだった。嘘が……その嘘が、嘘のままでいられたら。それが嘘だと自分で気付かなかったら、わたしは……幸せなままだったと思うんです」

でも―――――あのひとはきっと。
それでは、いけないのだと……わかっていたのだ。

「わたしの父は……大神官様を、最後までお守りすると、言い残して逝きました」
「……」
「父は……立派な人で、その最後の決断も侯爵であったなら当然の選択だったのだと、思います。でも……それでもわたしには……幼かったわたしには、それを受け入れることが、どうしてもできなかった」
「……」
「お父様と二度と逢えないのは、イヤ。一緒に逃げて欲しかった。生きていて……欲しかった。どんなに臆病者と言われても、裏切り者と言われても、わたしは、お父様に……生きていて欲しかった」

イオの脳裏に、父親にすがって、泣き叫んだであろう、小さな彼女の姿が浮かんだ。
まだ幼い少女には、目の前の現実を受け入れることなど出来るはずもない。

「わたしはその時、憎んでしまいました。反乱を起こした者達ではなく、大神官様を憎みました。大神官様さえいなければ、お父様はわたしと一緒に逃げてくれたんじゃないか、大神官様さえいなければ、お父様は死ななくても済んだのではないか、と」
「……」
「理不尽でしょう?……わかっています。そしてその時の大神官様は、姫様ではなかったことも。わかっているのに、全部全部わかっているのに……わたしの心の奥には、その時から消えない歪みがあって。大神官、という存在そのものを、憎んでいる自分がいて。でも、それを受け入れたくないもう一人のわたしもいて……だから」

メナスは小さな自分の手で、彼の胸元の服をぎゅっと握り締めた。

「だから―――――嘘を、つきました」

イオの胸元が、彼女の涙で濡れてゆく。
撫でるように動かしていた手を止めて、イオはメナスを柔らかく抱きしめてやった。

「嘘は、嘘を呼んで―――――自分の中では少しずつ、それが嘘だということを忘れかけていたのに」
「……メナス殿」
「姫様は……あのひとは、知っていたんです。私が嘘をついていることに、気付いていたんです。それなのに、あのひとはわたしに優しかった。それが、つらい。つらくて、苦しい」
「……」
「姫様が、魔竜を召喚すると言った時。わたしは、イヤだった。とてもとても、イヤだった。魔竜はまたわたしから大切なものを奪うかもしれない。なのに、その決断をあのひとが―――――姫様がする。大神官がまた、わたしから奪っていく。そう思った時、嘘で塗り固めていたわたしが、壊れてしまった」

また―――――彼女を憎む。
また、自分の中で、認めたくない自分が動き始める。

「苦しい―――――」

思わず呟いた言葉に、また涙が溢れた。
腕の中で震える小さな身体を、イオは優しく抱きすくめたまま、そっと彼女を促して、顔を上げさせる。そして、その紫の瞳から溢れる涙を、その無骨な手でそっと拭った。

「だから……苦しいのですよ」
「……え?」
「認めないから、苦しいのです」
「イオ……様?」

イオはメナスに、少しだけ困ったように小さく微笑んだ。

「貴女は……悲しかったのでしょう?お父上を失って、とても、悲しかった」
「……悲しかった……そう、悲しかった、とても」
「そして今、貴女は姫君を、どう思っていますか?」
「……姫様を……?」

紫の瞳が困惑に揺れる。
しかしイオはそれから目を離さずに、静かに続けた。

「……貴女は……姫君のことが好きなのでしょう?」
「……すき……?わたし……が、姫様を……?」
「お父上のことがあって、それを素直には認められないだけです、貴女は」

まるで自分に言い聞かせるようだと―――――イオは思った。

「自分の心に嘘をつくのは……つらくて、苦しいものです」
「嘘……」
「そう、自分に嘘をつくのは、つらい」
「……わたし……」
「……メナス殿」
「わたしは……姫様が……」





―――――すき。





何もかも分かっていて、それでもわたしを許してくれていた、孤高の花。
そう……わたしは……最初から、あのひとが―――――だいすきだった。
認めるのが―――――怖かった。

「いいんですよ」
「……イオ様」
「いいんです。泣いても―――――いいんですよ」

自分が仕える、あの人のように。
泣けないことが、どれだけつらいのか。
自分を責めて、全てのことを諦めた心の狭間に吹く風は、どれほど冷たいものか。

側で見ていることが―――――苦しい。
何もできない自分が―――――悔しい。

だから―――――せめて今は。

「イオ様……?どうして、あなたが……泣くんですか?」
「……泣けない人の、代わりに」
「……」
「……代わりに、今は」

緩やかな夜風の中、静かに泣いてしまおう。
二人はそのまま、言葉もなく……身を寄せ合って、ただ泣き続けた。
泣くことのできない、全ての人のために。