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- - - 第15章 心の狭間2
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「戸惑って……いるのです」

目の前で顔を伏せた真紅の青年に、闇と魔を司る竜は静かな視線を向けた。


* * * * *


『―――――逢うといい』

四大竜王のうちの炎と風の竜王に進言されたこともあったのだろう。アゼルは一人、その時だけ立ち入りを許された、奥神殿の裏手にある丘の上の菩提樹の下で、闇と魔を司るその竜と顔を合わせることになった。
何故かその場にフィアルは同席しようとせず、他の諸侯達もいない。そのことがアゼルを緊張させていたが、初めて逢うその竜は、予想に反して、穏やかな翡翠の瞳を彼に向けていた。

二人の間に―――――しばらく言葉はなかった。

何を切り出したらいいものか、どちらも思いつかないというのが正直なところなのだろう。元々無口なジェイドはもちろん、アゼルもその時ばかりは、フィアルに怒鳴る時のような言葉が、頭に浮かんでこなかった。

『……お前は、俺を疎んでいるだろうな』
「え……?」

不意に魔竜の口から発せられた言葉に、俯いていたアゼルは顔を上げる。

『お前は反乱軍を率いていたのだろう?俺はお前にとって最大の敵だったはずだ』
「……」
『神官達に手を貸したつもりはないが……象徴のように扱われていたのは確かだ。テーゼが……あの娘がどんなに俺を庇ってくれても、俺という存在を受け入れられない者の方が多いだろう』

まるで物語を語るような口調だった。その静かな声に、アゼルは驚きを隠すことができなかった。
―――――魔竜とは。
偏った考えだと言われるだろう。しかし大多数の国民が考えていたように、本能のままに人を襲う悪の象徴のように思っていた。
しかし今……静かに語るその竜は、とてもではないがそんな存在には思えない。思慮深そうなその様子は、口調こそ砕けているものの、四大竜王と同じような存在感すら感じさせるものだった。

「―――――姫が」

アゼルは顔を上げ、その翡翠の瞳を見つめたまま、口を開く。

「姫が……言いました。属性が例え闇であっても、魔であっても……その力が悪なのではないと」
『……』
「しかし貴方は……あの内乱の折、あの神官達の側にいた。そのことが俺達に……疑惑を抱かせているのです」
『そうだろう……それは、当然だ』
「何故……奴等に……神官達に手を貸したのですか」

聞かなければいけないことだ。はっきりとしなければいけないことだ。そうしなければこれから、国民にこの存在を受け入れてもらえることは難しいだろう。

ジェイドはしばらく無言だった。しかしやがて……その瞳を伏せて、呟いた。

『自由を……』
「……え?」
『俺は……もう一人の俺に……自由を与えてやりたかった』

自由に生きる権利を。
自分の意思で選ぶ未来を。
愛しい自分の半身に―――――一瞬の夢でもいい、与えてやりたかった。
自分という存在が、魔竜である我が身が……彼を縛っていると、一番よくわかっていたからこそ、その願いは深く―――――深く。

『いつも……いつも……あの二人だけが、全てを背負わなくていい』
「……魔竜殿?」
『彼も彼女も―――――もう自由にしてやりたかった』

それが許されたのなら。
今も二人は―――――共に微笑んでいたに違いないのに。

けれど、この場所に残ったのは。
ただ―――――……切ないばかりの想いだけで。


* * * * *


人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、その噂がまるで零した水が広がるかのように、ノイディエンスタークという国中に広がるのはあっという間だった。

(「魔竜ってのは、2年前に消滅したんじゃないのか?」)
(「何だってそんなものを、巫女姫様は連れてきたんだ!」)

国民の間にそれが好意的に受け止められることは決してない。わかってはいたが、その反響は予想を覆すほどに大きなものだった。

「アゼル様……?お疲れなのではありませんか?」

いつものように執務室で書類と戦っていたアゼルにお茶を差し出しながら、メナスは心配そうに眉を寄せる。そんなに自分は切羽つまった顔をしているのかと、ペンを置いたその左手で、アゼルは自分の頬をさすった。

「大丈夫だ、心配するな」
「でも……他の皆さんもお疲れみたいです。自分の領地でもかなり国民からの抗議があるみたいで」
「それならお前も同じだろう?俺に気を使っていないで、早く帰って休んだ方がいい」

そのまま机の上に置かれたお茶を口に運ぶと、アゼルは主のいないもう一つの執務机にぼんやりと視線を移した。その上には彼女の決裁を待っている書類が山積している。そのほとんどは各領地から寄せられた抗議文だった。

各諸侯が気を遣って、フィアルの元にそうひどい文面の書類が回ってこないようにしているとはいえ、その意図する内容はほぼ同じと言っても間違いない。
それを目にする度に、少しずつ……少しずつ、彼女の瞳がくすんでいくことが、アゼルには苦しく、心配だった。

―――――魔竜は……決して悪ではない。

実際に逢って、それがわかっても、国民に理解してもらうことは何と難しいことか。
あの後、アゼルだけではなく、フィアルは魔竜に逢う時にだけは、諸侯達に奥神殿への出入りを許した。
しかし実際に魔竜に逢ったのは、ヴォルクとアーク、そしてシード、イースの4人だけだ。目の前のメナスですらまだ、魔竜に向き合う勇気はないようだった。

(「逢いさえすれば……姫の言ってた意味はすぐにわかるだろうにな」)

シードが、呟くように零した言葉は重かった。

アゼルは、魔竜が実際に彼等に何を言ったのかは、知らない。聞こうとは思わない。
けれど、魔竜と逢う決断をしたその4人の顔には―――――驚く程穏やかな笑みが浮かんでいて。それが間違いではなかったことは、知ることが出来た。

「メナスは……まだ、逢う気ににはならないのか」

お茶を置き終わり、執務室を退出しようとしていたメナスの背に、アゼルは静かに言葉をかける。
その言葉に、メナスは、ビクッと一瞬、身体を固くした。
そして、少しの沈黙の後、搾り出すような声音で、答えた。

「……わたしには……」
「……」
「わたしには……まだ……」
「……そうか」

アゼルには、13諸侯にそれを強要する権利はない。内乱の記憶はまだ生々しく誰の胸にも残っているのだから。
か細いその声が聞こえたのは、アゼルがふっとため息をついた時だった。

「……姫様のように……強くは、なれないんです」
「強く?」
「……全てを受け入れて、許すには……強さが必要です。心が強くなければ、そんなことはできない。わたしは弱いから、泣きます。弱いから、憎むんです」
「……メナス」
「弱いって……わかっているから、自分で自分が、イヤなんです」

―――――そのまま振り返ることなく。
その重厚な扉の向こうに消えた、華奢な後姿を、アゼルはただ……無言で見送った。


* * * * *


(「逃げなさい」)

おとうさま。

(「お前は逃げなさい、ここにいては、いけない」)

いや。
どうしておとうさまは、いっしょに来てくれないの。

(「私は、大神官様を最後までお守りしなければ」)

わたしより、大神官様が大切なの?
どうしてなの?
大神官様が、いるから?
だからなの?

だから、きらい。

きらい。

大神官様なんて、だいきらい。





―――――わたしに、おとうさまを、かえして。


* * * * *


(「大好きです」)
(「わたし、姫様が、大好きです」)

あのひとは、大神官なのに。

(「強くて」)
(「凛としたその背中に、憧れてるんです」)

わたしから、おとうさまを、奪ったのに。

(「大好きです」)

嘘よ。

(「大好きです」)





―――――みんな、みんな、嘘なの。


* * * * *


(「―――――魔竜を、召喚します」)

どうして?

貴女が、あんなことを、言わなければ。
―――――気付かずに、済んだのに。

嘘つき。
嘘つき。
どうして貴女は、わたしを裏切るの?
―――――大神官である、貴女が。


* * * * *


違うの。
わかってるの。
ずっとずっと、わかっていた。


嘘をついていたのは……わたし。
―――――そんなわたしを……貴女は知っていた。


* * * * *


自分の執務室に戻ると、メナスは後ろ手にバタンと扉を閉めた。
そのままずるずると、ドアに背を預けたまま、床にしゃがみこむ。
空ろなその紫の瞳に、涙の雫が溢れては、落ちる。

「……嘘つき」

「……嘘つき……ッ!」

何が真実で、何が嘘なのか。
彼女には、もうわかっていなかった。