Clover
- - - 第15章 心の狭間5
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薄暗いその部屋には、断続的に荒い息が響いていた。
豪奢な天蓋付きのベットに横たわっている初老の男は、身体中を襲う高い熱と痛みに、喘ぎながら、思う。

(どこで、間違ってしまったのだろう)
(最初はそうではなかったはずなのに)

茶色であっただろう髪には、白いものが混じっている。
この男こそが、南の大国、ラドリアの国王、ラドリス13世だと誰が知っているだろうか。
流行病に感染することを恐れ、誰もが近づかなくなったこの部屋で、彼は一人、訪れるその時を待つ身だった。

「どこで……間違ったんだ……」

うめくような声は闇に溶ける。
しかし、答える声があるはずはない、否、あるはずはなかったその声は、不意に闇の中から返された。

「間違ってなど……いないのだ」
「……!」
「全ては、間違ってなど、いなかった」
「……お……前……は……ッ!」

闇の中、三つの影が浮かび上がる。
そのうちの二つは国王の知った顔ではなかったが、その色を見れば、それがノイディエンスタークの者であることはわかった。

「そう、間違いではなかったね」

栗色の髪に紫の瞳の青年は、クスクスと笑っている。その側で左目に傷のある長身の男は、ただ黙ったまま国王を見つめていた。

「憐れだね……最後の最後まで操られていれば、何も知らずに死ねたのに」

笑顔のまま、残酷にそう言い放つシオンやファングを無視して、国王は、もう一人の顔だけをひたすらに見つめ続けていた。その顔には、狂王と呼ばれた彼の高慢な面影はどこにもなく、ただ、苦しみと悲しみだけが浮かんでいる。

「何故だ……!何故……こんな……ことをっ!」
「……」
「こんなに……こんなにこの国を疲弊させ……民を苦しめて……!」
「……苦しめたのはお前だろう?女に溺れ、政治を腐敗させ、戦争を繰り返した」
「私は……そんなことを望んではいな……かった!」
「そう……お前は名君だった。だから、邪魔だった。ラドリアが平和で豊かな国では意味がない。堕ちるところまで堕ちてもらわなければ、つまらない。だからお前を操って狂わせたのだ。お前はいいコマだった」

かすかに笑ったような気配を感じる。
国王であったはずの男は、絶望に目を見開いた。

「悔しいだろう?この国が、こんな風に腐敗するのは」
「……あ、あああ……」
「お前がやったんだ。全て、お前が決めたことだ」
「……違う……違う!!私は!!」
「誰が信じる?お前が、自分は操られていたのだと叫んでも、それを誰が信じる?信じるわけがない」
「やめろ……やめてくれ!」

横たわったまま、もう聞きたくないと顔を背ける国王の耳元に、その言葉は繰り返される。

「絶望するがいい。そして、その苦しみのままに死ねばいい。それがこの国にとって、一番の闇になる」
「……あ……ああ……ああああああああああああああああ!」

自らの罪の意識に絶叫する国王を、静かに見下ろしながら。
『彼』はその顔に、静かな笑みを浮かべていた。





―――――こんなはずでは、なかった。
―――――どこで、間違ってしまったのだろう。


* * * * *


「父上」

ラドリアの城下に程近いある建物の中で、シルヴィラとロジャー、ディシスは落ち合っていた。
建物の周囲には気付かれないように、風の結界を張ってある。

「流行病ね……この分では遠からずラドリアの三分の一の民は死んでしまうだろうな」
「……その流行病のことで、話があります」
「話?」
「ラドリス13世もこの流行病にかかり、明日をもしれないとか。すでに王族からは見放され、彼等の興味は次の国王へと移っているようです」
「……王位継承争いというわけか……」
「現在の王位継承権は、皇太子のセイルファウス王子、第4王子のユリアティウス王子、そしてレインの順です。他にも王子はいますが、側室腹ですから、継承権は落ちます」

シルヴィラとロジャーは淡々と話を進めていく。
その話を聞きながら、ディシスは複雑な気持ちを抱えていた。

(……ラドリス……13世……)
(アドニス国王陛下……が……死ぬ?)

今ではラドリス13世としか呼ばれない、彼の本当の名を、ディシスは知っていた。
ディシスの父と、当時ラドリアの王子であったアドニスとの間には親交があった。幼い頃に、実際に何度も逢ったことがある。
かつての彼は、穏やかで優しい人柄だった。そう、大神官だったジークフリートに通じるものを確かに持っていた。

それが、どうしてこんなことになったのか。
噂通り、狂ってしまったのだろうか―――――あの実直な性質を持っていたはずの、彼が?
それは内乱が起こる前から、ディシスの心にずっと引っかかり、未だに消えない疑問の一つだった。

「ディシス?」
「……え?」
「聞いているのか?それとも眠ってるのか?」
「起きてます!!」

からかうようなロジャーの口調に、ついつい声を荒げてしまう。こういうところはロジャーとフィアルには通じるものがあって、また小憎らしいのだ。

「……で?国王はどれくらいもちそうなんだ?」
「……街の者の病状から見て、もってもせいぜいあと2日というところでしょうか」
「シルヴィラ、お前フィールに連絡をしたか?」
「はい、裏付けがとれましたから、風精霊を送りました。死亡が確認されたらもう一度送るつもりではいますけど」
「フィールのことだ、すぐに行動には出ると思うが……さて、どうするかな?」

ゆるく肩口で纏めた茶色の髪を撫でながら、ロジャーは何かをフルスピードで考えているようだった。
そんな父親に、シルヴィラは怪訝そうな顔を向ける。

「どうする、とは?」
「あの王子だよ。返さないわけにはいくまい?実の父親の葬儀に参加しないなんてことは、許されないだろう?」
「しかし……レインは……」
「あの王子は強いからな……今まで軍を率いていた実績もある。余計な手駒として誰かに使われなければいいんだが」
「レインは、そんなことを受け入れるような性格ではないと思いますが」
「本人の意思なんて関係ないのさ。巻き込まれる時にしっかりとした意思を持ってそうなる人間は稀だ。違うか?」
「……」

ロジャーの言葉は辛辣だが、事実だけに、シルヴィラは反論の余地がなかった。
もしも、清廉な人柄で知られるセイルファウス王子が即位することが出来たら、この国は良い方向に変わるのだろうか。

「……ロジャー様」
「……何だ?」
「……今、ラドリス13世に……逢うことはできるでしょうか?」

ためらいがちにディシスが口にした言葉に、ロジャーは珍しく、その秀麗な眉を寄せた。

「感傷か?」
「そんなことは……ありませんが」
「お前の父親と、国王には親交があったと聞いている。だから狂王の最期を見届けるとでもいうつもりか」
「ちがいます!」
「じゃあ、何だ」
「……オレは……ただ……知りたいだけです」
「何を知る?」
「真実を……知りたい。あの人の……真実を」

知らなければ。
知らないまま、行動を起こせば。
また、たくさんの間違いを、繰り返すのかもしれないのに。

ギリ、と歯を食いしばるディシスを、無言でロジャーはしばらくの間見つめていた。
そんな二人に何も言えぬまま、シルヴィラもただ立ちつくすことしかできない。

「……ジークフリートは、間違ったのかもしれないな」
「……え?」
「あいつは、お前に……残酷な道を強いたのかもしれない。フィールを託すことで」
「……!違う!ジークフリート様は!」
「だが、あいつには……あの時、それしか方法がなかったんだろう」
「……」
「娘と……お前を……生かすために」

ロジャーの言葉に、ディシスの瞳が驚きと共に見開かれた。

「あの時、神殿に奴等が攻め込んできた時……お前は死を覚悟したはずだ。最後まで主であるジークフリートを守り、彼と運命を共にすることを、決意していたのだろう?」
「……それは……」
「だが、ジークフリートはそれを許さなかった。だが、逃げろと言われて、お前が素直に従う男だとは思っていなかったのだろうな」
「……オレは……!」
「だから―――――託した」

ロジャーの口元が、緩やかな微笑みを浮かべる。





「娘と、そしてお前自身を―――――生かすために」





「……」
「あれは……そういう男だった。優しすぎるほど、優しい。そして、頑固で……一度決めたことは決して譲らない、そういう奴だった」
「……ロジャー様」
「私は知っているよ」

ノイディエンスタークとは違う、どこか血生臭い風が、三人の髪を揺らした。
どこか遠くを見つめるようなロジャーの瞳に、シルヴィラとディシスは困惑した視線を交し合う。そんな二人に気付いているのかいないのか、ロジャーは小さな声で続けた。

「……あまりにも似すぎている」
「……え?」
「いや……やめよう。これ以上昔話は必要あるまい」

その青緑の瞳を伏せて、ロジャーはおもむろにディシスへと向き直った。

「逢いたいのか」
「……はい」
「シルヴィラ」
「……ラドリス13世の部屋にはもはやほとんど警護はいないようです。みな、もう死ぬとわかっている王になど興味がないのでしょう。ましてや疫病ですから……感染を恐れて近づくものなどいません」
「じゃあ、逢うことは……」
「比較的、簡単だと思われます。疫病も、元々ノイディエンスタークの民には耐性があるウイルスのようですし」

シルヴィラの断言にも似た言葉に、ディシスは一つ頷くと、二人にくるりと背を向けた。
その背中をロジャーは、ただ無言で見送る。
その姿が消え、張り巡らせた結界の外に出たことを感じ取ると、その部屋には静寂が戻った。

「……止めないんですか、父上」
「……止めてどうする。元々調査のために来ている我々と、ディシスは目的が違う」
「目的……」
「アイツは国王に逢った後、ファングを探すのだろう。それはアイツ自身でケリを付けなければ意味がない」
「ファング様……ですか」

遠いもやのかかったような幼い頃の記憶を探っている息子に、ロジャーは小さく笑った。

「全く……どいつもこいつも、可哀想なくらいに生真面目過ぎる」
「……父上が不真面目すぎやしませんか?」
「これくらいでいいのさ。そうでなければ、たくさんのものを抱え込んでしまうだろう?」
「……」
「抱えて、抱えて……抱え込んだ挙句に、壊れていく人間を、私は何人も知っている。だから……そうはさせたくないのだよ」
「……父上」
「風は、停滞を許さない。私も……お前も。風を継ぐ者であるというのは、そういう役割なのだと、覚えておくといい」

ポン、と背中を一度だけ軽く叩いて部屋を出ていく姿を、先程ロジャーがディシスに対してしたように、シルヴィラは無言で見送った。
気配が消えるのと同時に、笑いがこみあげる。

「……初めてじゃないか?あの人が、父親らしいことを言うなんて」

堪えきれず、大きく笑いながら、シルヴィラは何故か、胸の痛みを感じていた。
―――――傍観者であることは、本当は……何よりも、つらいことのはずなのに。
それでも―――――あの人は、ずっと。


* * * * *


目の裏に浮かぶのは、太陽だった。
大陸の中でも南に位置するラドリアは、夏は暑く、冬でも温暖で、果樹の栽培に適した土地だった。
交易が盛んで、港はいつも賑わい、リトワルトほどではないが、活気溢れる商人達によって市が立っていた。

日に焼けた浅黒い肌の明るい民、笑顔と花に囲まれた街。
それが―――――現国王ラドリス13世が即位した当時のラドリアの姿だったはずだ。

―――――それなのに。

「……誰……だ」

夜風だろうか。既に時間の感覚はないが、閉ざされた部屋にいる彼の頬に、冷たい風が触れたことで、この部屋に誰かが入室したことを国王は知った。

「……」

返事はない。
ついに早く死ねと、王族の誰かがやってきたのかもしれないと、彼は目を閉じた。
それでも構わない。それもまた、自分の犯した罪の報いなのだろう。

しばらくして彼の枕元に、人の気配がした。
ゆっくりと目を開くと、そこには、闇に溶けるような、黒い服を身に纏った男が立っていた。
顔は―――――良くわからない。

「……誰だ」

いつの間に汲んで来たのか。
空になって久しかったはずの枕元にあった水差しに、清水をいっぱいに入れて、男はやせた王の身体をゆっくりと起こした。姿勢がつらくないように、枕を背中へと入れて、その乾いた唇に水を注ぐ。
喉を通る冷たい水を、国王はただ、言葉もなく貪欲に飲み干した。
横たわった寝台は、汚物に汚れている。既に世話をするものがいなくなってから、久しいのだろう。

男は無言で国王を抱き上げると、近くにあったソファーへと移し、汚れたシーツや布団を、隣にあった控えの間に置きっぱなしになっていた新しいものへと変えた。閉ざされた窓も開け放ち、異臭が篭っていた空気を入れ替えた。
そしてソファーへと戻り、彼は手にしていた布と水で、国王の身体を綺麗に清め、新しい夜着を着せた後、整えた清潔な寝台へと横たえた。

「……誰だ」

かすれきっていた声は、水を与えられたことで多少滑らかさを取り戻していた。
その二度目の問いかけにも、男は答えないまま、サイドテーブルに置かれたランプへと手を伸ばす。

「……死ぬとわかっている者への、最後の情けか……?」

ジジ……と音がして、ランプへと火が灯る。
しかしその時―――――国王は確かに見た。
男が、火種も何もない空間から、炎を発したその瞬間を。

「……お前……?」
「……」

ランプに映し出された男は、黒髪に青い瞳の青年だった。
ただじっと、何の感情も浮かばない顔で、国王を見下ろしている。しばらくの無言の後、彼の容貌がすっと変わってゆくのを、国王は見ることができた。
黒い髪も、青い瞳も―――――燃える炎の赤へ。

「……メテオヴィース……の」
「……アドニス陛下」

自分を名で呼ぶ目の前の青年が、かつての友の面影を残していることに、国王は気付いた。

「……シュトラウスの……ディオンの子か……あの……小さかった……」
「……はい……ディシスです」
「そうか……来て、くれたのか」

国王の瞳にうっすらと涙が滲んだ。
かつての友は、よく笑い、よく話す、豪快な男で……彼と共にいることが、どれだけ楽しかったことか。
そんな国王の様子をじっと見つめていたディシスは、やせて細くなった手を、ぎゅっと握り締めた。

「……アドニス陛下……正気、なのですね」
「ああ……病になって……ようやく……ようやく……解放されたのだ」
「……陛下……」
「私は……大きな罪を犯した。あんなに活気満ち溢れていたこの国を……こんな姿にしてしまった。間違ってしまった……どこかで全てが狂ってしまったのだ……」

それは、懺悔にも似た最後の告白のように、ディシスには思えた。

「貴方を……操っていたのは、誰です」
「……ディシス……」
「貴方を……こんな風に追い込んだ人間は、誰です。オレは……決してそいつを許さない」
「……ディシス……違う……違うのだ」

涙を浮かべたまま、国王は首を振った。

「全ては……全ては必然だった。それがただ、今起こったというそれだけのことで、それ以外には何も理由はないのだ」
「……アドニス陛下……そんなはずはない。オレは貴方を、よく覚えています。貴方はあんな暴政をするような人ではなかった」
「……ディシス」
「ラドリアを……このラドリアを太陽の国と呼んで、こよなく愛していた貴方が、理由もなくこんなことになるはずはない!そうでしょう!?」
「……ディシス……ああ、ディオンの子よ……聞いてくれ」

握られた手を力なく握り返しながら、国王は苦し気な息の下から、懇願した。

「私は確かに……操られていた。それがいつからだったのか……今の私にはもうわかっている」
「……」
「しかし私を操った者を罪と呼ぶのなら、私の存在も、また罪なのかもしれぬ。だから私はその裁きを受けなければならない」
「裁き……?何故貴方が裁きを受けなければいけないのです。貴方は操られていただけだ」
「……いいや……私が……生んだのだよ」

その言葉を理解することができず、困惑する瞳を向けたディシスに、国王は優しげな瞳を向けた。自分のことよりも他人のことを優先する、正義感の強いところは、この青年が間違いなく父親から受け継いだものだ。

「ディシス……忘れる……な」
「アドニス陛下……?」
「闇は、この闇の根源は……ノイディエンスタークにある」
「……!?」
「大地の闇だ……長い年月が育んだ、大地の……闇なのだ」
「大地の……闇?」
「そうだ……それがラドリアを、食らったのだ」

国王は、友の息子の手を、懇願するかのようにぎゅっと握りしめた。
目尻に溜まっていた涙が、はらりと枕へ流れては落ちる。

「私の……私の最後の願いを……ディシス……聞き届けてくれるだろうか?」
「……陛下……」
「頼む……傲慢な願いだということは……わかっている……だが……お前にしか……もう、お前にしか……!」

そのやせ細った手を、両手で包み込むようにディシスは握り、小さく頷いた。
この人は……死ぬのだ。その死の淵にいる彼の最期の願いを聞かなければ、何の為にここへ来たのかわからない。





「―――――」





しかし……苦し気に彼が口にしたその名に―――――ディシスは言葉を失った。

「……頼む……」
「……そんな……」
「……頼む……ディオンの子よ……救って……」
「陛下……!アドニス陛下……―――――!」





―――――ディオン。
私は罪を犯した。
お前と同じ光の場所には……きっと行けないだろう。

でも―――――見える。
やっと……お前が見える。
どうか……叶えてくれ……最期の願いを。

―――――お前の子に……託してゆくから。


* * * * *


―――――かつての王の部屋には、静寂が戻っていた。
ディシスは枕元のランプに手を伸ばすと、その小さな火を音もなく、吹き消した。
開け放たれた窓から、銀と青の月明かりが、静かに眠りについた国王の顔を照らしている。





―――――狂王、ラドリス13世―――――崩御。





栄華を誇った国王の最期とは思えないほどに、静かな最期だった。
けれどその顔には……穏やかな微笑みさえも浮かんで見えて―――――ディシスの瞳から涙が伝う。

「ファング……お前は……知っていたのか」

このラドリアで何が起こっていたのか―――――その全てを知っていたのなら。
それを知っていたのに……それでも尚、魔神官の復活を願っていたというのなら。

「―――――お前もオレも……罪人だ」

月明かりに照らされたままのその部屋を、ディシスは振り返ることなく、後にした。
その真実を―――――託された願いを見極めるために。