Clover
- - - 第15章 心の狭間6
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「……死んだ?」

遅くまで飲み明かしたせいで、いつもより目覚めのかなり遅かったリンフェイに、どこか強張った顔を崩さないまま、フィアルは淡々とその事実を告げた。
用意された朝食が、目の前で湯気を立てている。しかしそれには手をつけず、フィアルはお茶だけを口に運んでいた。

「……まだ、公にはなっていない。でも明日の夕刻には、フューゲルにも知らせが届くでしょう」
「……確かなのか」
「ラドリアには今、うちのレグレース侯爵がエセルノイツの風隊と潜入してるの、間違いないわ」
「……狂王が……死んだか」

リンフェイはその事実にひどく複雑な顔をしている。
その様子に、フィアルは小さく微笑んだ。

「なんでそんな顔をするの?」
「……え?」
「ラドリアの隣国はみんな喜んでいるんじゃないの?狂王が死んで、聡明で名高い皇太子が王になれば、侵略はなくなるんじゃないか、って」

カシャン、と小さな音を立てて、フィアルは持っていた茶器をテーブルへと置いた。
そんな彼女に、リンフェイは少し苛立ったような視線を向ける。

「……お前、そんなこと本気で俺が考えてると思うのか?」
「リンフェイが本当のバカだったらそうだろうけどね」
「狂王の罪は、他国への侵略が一番じゃない。そんなことは王であれば、誰でも知ってることだ」
「……世継ぎ、か」
「……内乱になるぞ」

皇太子が簡単に王になることなど、ありえない。
それだけの野心を持った貴族との間に、子を作りすぎた、それが狂王の一番の罪だ。

「それで?フューゲルは、どうするの?」
「……どうするって?」
「ノイディエンスタークは元々鎖国状態だもの、表立ってラドリアの内乱に関わるとは思われていないでしょう?でもフューゲルは違う、山脈で遮られているとはいっても、ラドリアとは地続き」
「……フューゲルはラドリアの誰かに肩入れはしない」
「リンフェイがそう思っても、連合している王達がどう動くかは、微妙よ?」
「……わかってるよ。俺も久々に忙しくなりそうだ」

やれやれと肩を竦め、リンフェイは目の前のパンを手に取った。
豪快にちぎり、次々に口に運ぶその様は、見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。

「お前は?」
「……?」
「お前は、どうする?」
「……私?」
「ノイディエンスタークじゃなくて、お前はどうするんだ、フィーナ。考えていないわけじゃないだろう?お前のところには、あいつがいるじゃないか」

もぐもぐと口を動かしながら、リンフェイはどこか探るように、フィアルをじっと見つめた。その意味に思い当たって、彼女は苦笑しながら、自分もパンへと手を伸ばす。

「……レインのことを言ってるの?」
「死神、と呼ばれて恐れられていた男だ。こういう事態になれば、今までは嫌悪していた奴等も、その力欲しさに近づいてくるだろうな。それか、一番最初に命を狙われるだろう。王位継承権は確か……」
「三位よ。正室腹の第三王子」
「……お前はどうするつもりだ?こうなることを見越して、あの王子を手元に置いておいたのか?」
「違うわ、私はラドリアの内乱なんかに元々興味はなかった。彼をノイディエンスタークに引き止めたのは、もっと別の理由よ」

小さくちぎったパンを、彼女はゆっくりと口に運ぶ。

「どちらにせよ、返さないわけにいかないだろう?仮にも父親の葬儀だ」
「そうね……急がなくちゃいけないかもしれない」
「……急ぐ?」
「……私も近いうちに、ラドリアに行くことになりそうね」

半分程を口に入れた後、フィアルはパンを皿において、立ち上がった。
自分達をただ黙って見つめていた竜達に、薄く微笑んで見せる。

「―――――帰るわ」
『そうか……―――――』

飛竜の王は、慈しみ深い瞳で彼女を見つめた。
人間達の間で何があろうが、本来は関わりのないはずの彼等でも、自らの慈しむ存在が巻き込まれるのは本意ではないのだ。

「ジェイド」
『……』
「感じてる?」
『……ああ。大きな闇の気配が、する』

闇と魔をその主属性とする魔竜だからこそ、彼はその気に人一倍敏感だった。

「……貴方は……ラドリアには、近づかないで」
『……』
「お願い」
『……わかった』

その黒い鱗に覆われた首筋に、フィアルは額を摺り寄せる。懇願にも似たその仕草に、この魔竜が彼女の願いを聞かないはずはなかった。

「俺達も、戻るか」
『そうだな……そろそろ戻らないと、宰相殿からまた小言をくらうぞ?』
「エウロン……嫌なことを思い出させるの、やめろよ」
『事実だろう?』
「……お前もリーレンの味方か!?」
『お前の言う通りにしていると、こっちまで宰相殿にお小言をくらうんだ、迷惑を考えろ』
「ひでえ!お前、それでも俺の騎竜なのかよ!」

しんみりとしていた隣で、いきなり口喧嘩を始めた竜騎士王とその騎竜に、思わずフィアルとジェイド、そしてデュークは顔を見合わせた。何故か微笑ましくて、小さく笑ってしまう。

「そうだ!なぁ!フィーナ!」
「……何?」

口論を突然中断して、リンフェイはつかつかとフィアルに近づくと、その瞳を覗き込んで、ニッと笑う。

「……何よ」

その笑いにどうにも嫌な、薄ら寒いものを覚えたフィアルは、思わず一歩後ずさってしまった。

「帰るんだよな?」
「……帰る、けど?」
「だったらさ、お別れのチューをしてくれ」
「……」

ピキ。
フィアルのこめかみに青筋が浮かんでいるのに、リンフェイは気付かない。

「今度いつ逢えるかわかんないしな」
「……」
「やっぱり別れ際にチューはつきものだろ?」
「……へえ」
「ほら、ほら、ほら、チュー」

ズズイッと口唇を突き出して、リンフェイが近づいてくる。
フィアルがその迫力に押されて、また後ずさると、リンフェイは一歩進んでまた近付いた。

「チュー」

トン、と背中にジェイドの鱗が当たる。
バカ丸出しで、尚も迫ってくるリンフェイに、フィアルの苛立ちが頂点に達した。

「チュ……」
「うるさい!どっか行け!このヘンタイ!」





ドカッッッッッ!!!!!





フィアルは怒りを込めて、思いっきり左足を蹴り上げた。
狙ったかのように、一番当たってはいけない場所に、その蹴りはクリーンヒットした……らしい。

「……!!……!?!!!!」

あまりの痛みに言葉にもならず、悶絶して転がるリンフェイを、フィアルは冷たい瞳で見下ろす。そして彼の騎竜であるエウロンに、にっこりと笑いかけた。

「エウロン、これ、リーレンにこのまんまで引き渡してくれる?」
『引き渡すだけでいいんですか?海の口笛の上から、落としておきますか?』
「あ、それもいいわね」
『青山の上から突き落とすって手もありますが』
「ああ、それも捨て難いわね。エウロンの趣味に任せるわ」
『はい』

さすがに呆れたのか、さらっと恐ろしい会話をフィアルと交わしたエウロンは、悶絶したままのリンフェイをひょいと自分の背中に乗せると、ぺこりと頭を下げた。
そして苦笑しながら全てを見ていた父竜と、困ったように視線を交し合うと、そのままフューゲルへと飛び立ってゆく。風の力を借りて、一気に上空へと浮上していくその姿を、フィアルは少し拗ねたような笑顔で見送った。

『リンフェイも……どこまで本気なのかわからないな』
「……本気じゃなさそうで、実は本気だったりするから怖いのよね、リンフェイの場合」
『全くだ。本当に面白いよ、彼はね』

デュークの楽しそうな様子に、ジェイドは、はぁ……とため息をついた。

『……笑っていいのか、アレは』
「いいのよ」
『俺には利口なのかバカなのか、微妙にわからん』

本気でそう思っているらしい、ジェイドに、フィアルとデュークは苦笑しながら答えた。

「バカよね」
『バカだな』

揃った二人の声に、ジェイドは目を丸くする。
そして、デュークは続けた。

『けれど―――――愛すべき、愚か者なのですよ』

優しい飛竜王の言葉に、フィアルは小さく頷く。

「―――――そうね」

肯定するのは、彼女には何故か、至極当然に思える。
それもきっと、竜に愛される資質のひとつなのだと、フィアルにはわかっていたから。


* * * * *


「おかえりなさい」
「ただいま、アゼル」

ジェイドと共に奥神殿へとフィアルが戻った頃、既に辺りは赤く染まり始めていた。
その足で執務室へと向かったフィアルは、部屋の中にまだ自分の副官がいることに気付いて、一応挨拶を交わす。
執務そのものはもう終わっていたようで、アゼルは一人、執務室の窓から外を眺めていた。

「……竜の鬣は、どうでしたか?」
「まぁ、それなり」
「そうですか……」

アゼル自身も、今のフィアルにどう言葉をかけたらよいのか、わからないのだろう。いつもと違い静かに話す彼に、フィアルは苦笑するしかない。

「気を使わなくても、いいのよ?」
「……え?」

窓辺に立つアゼルは、夕陽を浴びて、いつもより柔らかな真紅を身に纏っている様に見えた。

「私が、心配?」
「……はい」
「私が、どんどん離れていくことが?」
「……はい」
「……でもね、アゼル。それは間違っているのよ」

そう言って目を伏せる彼女を、アゼルは何も言えずただ見つめていた。

「私は魔竜によって変わったんじゃない―――――最初から、そうだったの」
「……」
「貴方達が―――――気付かなかっただけで」
「……最初から」
「そうよ」
「最初から……民を……俺達を……信じては、いなかったと?」
「……そうよ」

こんな風に、静かに言葉を交わすことは、今まで一度もなかった。
いつも目の前にある何かに追われ、それをこなすことに精一杯で、その本質を考えることを後回しにしていたのかもしれない。
―――――だから。
だから、今になって……自分達は思い知っていると言うのだろうか。
目の前の―――――この姫の、どうしようもないほど深い―――――孤独を。

「アゼルを、じゃない。13諸侯の誰かを―――――でもない。民達だけでもない」
「……姫」
「誰も信じてない。私は人間を信じてなんて、いないの」
「……人間そのものを信じていないと?」
「ええ」

フィアルの瞳に、暗い影が落ちた。

「人間は―――――裏切る」
「……」
「人間は―――――愚かで、汚い。醜い生き物よ」
「……でも……貴女も―――――人間です」
「そうよ、知ってるわ。私もそんな人間の中の一人」

だから―――――。

「だから、私はこの世で一番、自分自身が大嫌いなの」





殺してやりたいと―――――思うくらいに。





呆然とその言葉を聞いているアゼルに、フィアルはいつものように、小さく笑った。

「もうやめましょう、こんな話は」
「……」
「それより、話さなくちゃいけないことがあるの。大事なことよ」
「……大事な……」
「ヴィーから竜の鬣に連絡が来たわ」

現実的な問題に話題が移ったことで、アゼルは多少自分を取り戻した。呆然としていた瞳に力が戻ってくるのが、フィアルにもわかった。

「シルヴィラは何と……?ジョルド・クロウラやシオンの情報でも?」
「いいえ、もっと問題は大きいわ」
「……?」
「国王、ラドリス13世が―――――死んだのよ」
「……!」

アゼルの瞳が驚きの色に染まる。
それを静かに見つめると、フィアルは応接用のソファーへと歩み寄り、腰を下ろした。そして視線で、アゼルにも座るように促す。

「……ラドリアは、内乱になるわ」
「……そうですね」
「レインを……返さないわけにも、いかないわね」
「……ノイディエンスタークとして、ラドリアの内乱に関与するおつもりですか?」
「まさか。一つの国の中で起きることに、わざわざ首を突っ込むと思う?」

アゼルが腰を落ちつけるのを見て、フィアルはふっとため息をついた。

「レインはきっと、兄の皇太子を王位につけようとするわ」
「……そう、でしょうね」

そう、二人は見てしまったのだ。
あの風竜の娘の遺産が見せた、彼の悲しい過去を、知っているのだ。
だからこそわかる。彼が兄王子に、どれだけ強い信頼を置いているか。
こんな悲劇の起こらない国を作る―――――協力してくれるかと言った、あのセイルファウスの言葉を、レインは忘れてはいないだろう。
リルフォーネを失って、何もかもに執着が持てなくなっている彼に、兄の希望を断る気はあるまい。

「でも……実際のところ、セイルファウス王子が王位を継いでくれた方が、我々にとっても都合がよいのではないのですか?」
「どうして?」
「無意味な侵略もなくなるでしょうし、内乱の残党を引き渡してくれる可能性もあると思いますが」
「……そう簡単には、いかないでしょう」
「……え?」

そううまくなど、行くはずがないのだとフィアルは思う。
自分の考えが、正しければ―――――最も最悪な方向へ、破滅への道を、ラドリアは進む。

「でもこればっかりは、私達がどうこうする問題ではないのよね。決めるのはラドリアの民、そしてレイン自身だもの」
「そうですね……」
「でも何もしないわけにもいかないのよ。あの国には……キールがいる」

フィアルは無意識に胸に下げてある小さな水晶を握り締めた。
水晶化した花は、ただ静かにその輝きを放っている。その様子をアゼルは静かに見つめていた。

「ジョルドも、シオンもあの国にいる。今回の国王の死で、いろいろなことが動くの」
「……レインには……」
「それは……私が言うわ」

薄く笑う主を見て、アゼルはふと、何か言い知れない不安に襲われた。

「姫……貴女は……何故、レインをノイディエンスタークに留め置いたのですか」

いつかは返さなければいけないとわかっていたのに。
わざわざオベリスクの討伐にまで、連れて行ったのは―――――何故か。
そんな自分の考えに揺らぐ真紅の瞳を、フィアルはじっと見つめ返す。

そして―――――フィアルは以前、竜瞳湖でレインに言った言葉を、静かに、繰り返した。





「全てを―――――終わらせるためよ」





その言葉に、嘘はなく。
それこそが―――――彼女の心からの、望みだった。