Clover
- - - 第15章 心の狭間7
[ 第15章 心の狭間6 | CloverTop | 第16章 王冠を戴く者1 ]

穏やかな風にその漆黒の髪を遊ばせていたレインの元に、フィアルが訪ねてきたのは、もう日付も変わろうかという時刻だった。
以前ならば、こんな時間にレインと面会させるわけにはいかない、とでも言っただろうイオも、すっかりこの姫君の破天荒ぶりに慣らされてしまったのか、別段疑問も感じないように、彼女を備え付けられた椅子へと促した。

「―――――どうした?」
「え?」
「お前がここに来るなんて、珍しいだろう」
「そう?」
「ああ」

そのままじっと自分を見つめる闇色の瞳をしばらく無言で見つめ返してから、フィアルはふっとため息をついた。開け放たれた窓から入る風は、少しだけ湿っていて、冷たい。

「伝えなくちゃいけないことが―――――あって」
「……?」
「明日には、大陸の国中におそらく知れ渡ることだけど……先に二人には話しておかなくちゃいけないと思うの。まだ……アゼル以外の13諸侯達にも言っていないことよ」
「何だ?」

不思議そうに自分を見つめるレインに、フィアルはその事実を告げることを少しだけ躊躇した。
―――――レインにとって、父親というのはどういう存在だったのだろうか。
少なくとも、自分が父親のジークフリートに対して抱いていた感情と同じものを、レインが持っていないだろうことは、想像できる。

「フィール―――――なんだ?」
「……死んだのよ」
「……誰がだ?」
「―――――貴方の、父親が」

いつも感情が浮かんでいないその顔に、一瞬だけ驚きが走るのを、フィアルは確かに見て取った。そして彼の横にいた副官の青年は、それ以上の驚きをあらわにした。

「……何と言いました……?姫君」
「国王が……ラドリス13世が、死んだと言ったの」
「……そ、んな……」
「ここ数ヶ月、ラドリア国内で猛威を振るっていた流行病だったそうよ」
「確か……なのですか」
「貴方達が、ヴィーの報告を信じないのなら、話は別だけど」

―――――シルヴィラの報告。
そう言われても尚、それを否定するほど、二人はもうこの国を知らないわけではなかった。あの穏やかに見える青年が、どれほどの切れ者なのかは、充分に理解していたのだ。

「しかし……流行病など、少なくとも我々がラドリアの離宮にいた頃はそんな話は……」
「王都が一番被害がひどいみたいよ?王宮の人間は何もしないものだから、城下町は壊滅状態だって」
「そんな……国民を放り出して、貴族は何を……」
「そんなの、貴方達がいちばんよくわかってることじゃないの?」

フィアルは言葉をオブラードに包むことはしない。そしてその率直な指摘を否定できる材料は、今のイオにはなかった。

「保身の為に―――――大忙しというところか」

くだらない、と小さく言い捨てて、レインは椅子から立ち上がり、また窓辺に腰掛けた。その様子をフィアルは黙って見つめている。変わらない表情の奥で、この青年が何を考えているのか、それをまるで見極めるかのように。

「父上は―――――誰にも看取られなかったのだろうな」
「……そんなはずはありません、仮にも一国の国王ですよ、レイン様」
「慰めはいらない。病で余命いくばくもない王になど、興味を持つような奴等じゃない。病が移っては障りがあると、兄上は近づくことも許されなかっただろう」

では―――――父親の人生とは一体なんだったのだろうか。
今となっては誰も答えるものはいない。

「最期は―――――ディシスが看取ったわ」
「……何?」
「ディシスが、看取ったそうよ」
「……何故だ?」

フィアルの言葉は、レインを困惑させた。
何故そこで、この姫君の義父の名前が出てくるのだろうか。彼と父王に関係があったなどということは、一度も聞いたことがなかった。
驚きに満ちた二つの視線を受けながら、フィアルはフッと目を伏せて笑った。

「ねえ……レインにとって、父親って何だった?」
「……?」
「貴女にとっての、ラドリス13世……って、何だったの?」

彼女は何を聞きたいのだろう。
意図がわからず、レインはすぐに答えを返すことができなかった。しかしフィアルは何も言わずに、レインの言葉を待っている。

「……あの人は、俺を生み出した存在だ」
「……色気もくそもない言い方ね」
「それ以外に何を言えと?俺に戦いに行けと、そう命令する存在だったとでも?」
「父親って、そんなものなの?」
「……お前の父親とは、だいぶ違うと思うがな」

ゲオハルト達の話の端々に出てくる彼女の実の父親、前大神官ジークフリート、悲劇の大神官。
優しく、聡明で、穏やかな気性の持ち主だったと聞いている。
彼女は少なくとも6歳までは、その父親の愛情に育まれた。生まれながらに疎まれていた自分とは、違うのだ。

「それでも―――――父親でしょう?」
「だから……何だというんだ」

フィアルはもう一度、テーブルに置かれていたお茶に手を伸ばした。

「私ね、昔、父様に言われたことがあるの」
「……」
「『自分は父親だ。だけどお前がいなければ、父親ではなかった』って」
「……父親」
「父親って、最初から父親だったわけじゃないのよ?人生の途中から、父親になるのよ」
「……」
「ディシスは、まだ父親になる前のラドリス13世……アドニス王子を知っていたらしいわ。ディシスの父親と、アドニス王子は友人だったんですって。自分の国を『太陽の国』って呼んで、とてもとても愛していたって」

―――――太陽の国。

レインの知るラドリアは、太陽の国などとは到底呼べないような、暗い闇に閉ざされた土地だった。
いつも血の臭いがした。どこかで人が死んでいた。それを日常だと思ってしまうような、そんな場所だった。

なのに……あの国をそう変えた本人が、かつてはその地を太陽の国と呼んでいたというのか。

「―――――貴方、何も疑問に思わないの?」
「……何が言いたい?」
「今まで一度も、そのことを疑問に思ったことはないの?レイン」
「……」
「思っていたのに、貴方、何もしなかったんでしょう?」

フィアルの言葉に遠慮は何もない。率直に―――――真実を語る娘だ。
だが、レインは今、彼女の言葉に奇妙な苛立ちを感じた。

「……俺には関係のないことだ」
「興味がないから?」
「どうでもいいからだ。あの国に関わる全てのことに」
「あの国が―――――貴方の愛する娘を奪ったから?」
「―――――ッ!」

その言葉に、レインは殺気を込めた瞳で強くフィアルを睨み付けた。
瞬時に彼の身体から立ち上るその殺気に、イオは驚き、止めようと立ちあがる。しかしフィアルは左手を彼の前に伸ばし、それを止めた。

「責任転嫁ね」
「……黙れ」
「彼女を殺したのは―――――誰?」
「……黙れ!」
「彼女を殺したのは―――――彼女自身。そして……貴方でしょう?」

行き場のない、怒り。
ぶつける場所のない、悲しみ。
それを―――――どうやって昇華したら、人は生きていける?

レインの瞳にどす黒い闇の色を帯びた炎が燃えているのを、フィアルは静かに見つめていた。
それを―――――彼女は誰よりも良く、知っている。

「あの国が―――――リルフォーネを殺した」
「……」
「あの腐りきった国が、あの国を腐らせたあの男が、リルフォーネを殺したんだ」
「……」





(―――――憎い)
(嫌い―――――大嫌い)
(この国が―――――あの人を、殺したの)





―――――本当に?





「イオ」
「……は、はい」

レインの憎しみにも似た視線を受け止めながら、フィアルは隣りのイオに静かに言った。

「二人にしてくれる?」
「……姫君……し、しかし」
「お願い」

フィアルの言葉は冷静で、イオは驚きと共に彼女を見つめた。レインのこの怒りを向けられて、平然としている人間の方が少ない。昔からそれを知っているイオでさえ、時には恐ろしさを感じるほどだというのに。

―――――しかし、だからこそ。

イオは静かに頷くと、立ちあがり、部屋を後にした。
扉を閉じる瞬間でさえ、変わることのない、睨み合ったままの二人を心配そうに見やりながら。


* * * * *


パタンと音がして、扉が閉じたのを確認すると、フィアルはふっとため息をつき、レインに向けて、両手を差し出した。
怪訝そうに眉を寄せる彼に、フィアルは小さく笑って見せる。

「何が見える?」
「……?」
「私のこの両手に、何が見える?」
「……何?」

フィアルは静かに、自分の両手を見つめる。
その瞳には何の感情も浮かんでいないかのように、レインには見えた。

「私には―――――見えるの」
「……」
「永遠に消えない―――――真紅の血に、この手は染まっている」
「……」

彼女が何を言いたいのか、理解できないレインに、フィアルはすっと笑顔を向けた。
今まで見たことのない透明なその笑顔に、彼の身体から、今まで彼女に向けていた殺気がふっと消えた。





「私の手は―――――私の愛した人の血で、染まっているの」





レインの瞳が大きく見開かれる。





「私は―――――この手で、彼を殺したのよ」





「……お前……」
「私はレインの気持ちがわからないわけじゃない。今でも思っているもの。この国、周囲の人間―――――そして、運命。全てが彼を殺したのだと、そう思う気持ちは消えない」
「……」
「でも……本当はわかっているの」
「……フィール」
「私が―――――彼を殺したのだと、わかっているのよ」

手を下したのは、紛れもない―――――自分。
彼の身体を貫いたのは、自分の放った光。

覚えている。
―――――そう、覚えている。
彼の身体にめり込んだ、その肉の感触まで―――――全部。

「愛しては……いけない人だと、誰もが言う人だった」
「……」
「自分でも……分かっていたわ」
「……フィール」
「それでも、好きだったの……どうしようも、なかったのよ」

明るい未来なんて、永遠に来ないと、わかっていたのに。

「周囲の誰もが私に言った。彼を―――――倒せと。殺せ―――――と」
「……」
「敵だから。彼は神官勢力の頂点に立つ人間だったから」
「……魔……神官、か?」
「そして私は選んだ。彼を殺すことを、選んでしまった。他の誰でもない、私自身が―――――決めた」

フィアルはそう言うと、真っ直ぐにレインを見つめた。
自分の過去を、罪を、その事実を語った後とは思えないほど、揺るがない瞳だった。

「レインは?」
「……俺……?」
「貴方にはあの時、いくつかの選択肢があった。周囲の誰を犠牲にしても、彼女と逃げる道もあったでしょう。それでも貴方は、いいえ、貴方達はそれを選ばなかった」
「……俺は、リルフォーネがあんな最期を選ぶとは、思っていなかった」
「わかっていたら?」
「……違う道を、選んだと思う」

レインの身体からは先程の突き刺すような殺気が消え去っていた。
右膝を立てて、それに顔を埋める。まるでフィアルから、その表情を隠そうとするかのように。

「お前の言う通りだ」
「……」
「俺は……リルフォーネを愛しているといいながら、その心を分かってやれなかった自分が、どうしようもなく、憎かった……つらかった。そしてそんな自分をずっと……ずっと持て余していた。彼女を思い出す度に、何度もその思いに捕われて、何もする気になれなかった」
「……そう」
「国を、父王を憎むことにも……疲れた」
「……」
「……疲れたんだ―――――何も、かもに。諦めたんだ……全てを」

だからどうか―――――これ以上、触れないでくれ。
この想いに、心に、どうか近付かないでくれ。

「変わりたくない」
「……」
「俺は……変わりたくない……!」

心の底から、搾り出すようなその声に、フィアルは視線を和らげた。





―――――だから、彼だったのだ。
―――――全てを終わらせるために、自分が選んだのは、彼だったのだ。





フィアルはレインの座る窓辺に近付くと、その白い腕を伸ばして、そっと彼の頭を抱きしめた。
まるで母親がするように慈愛に満ちたその手は、優しく、レインの髪を撫でていた。

「帰って来てね」
「……」
「レイン、貴方は帰ってきてね」
「……フィール」
「約束したでしょう?私は剣士としての貴方が欲しいと、言ったでしょう?」
「……ああ……そうだったな」
「だから、必ず帰ってきてね」

レインはフィアルの腕の中でゆっくりと顔を上げた。
今は―――――わかる。
自分達は、似過ぎていると言った、彼女のその言葉の意味が。





二人の視線は柔らかに絡み合い、やがてレインの手はフィアルの頬に触れた。
静かに触れる口唇は―――――柔らかく、そして何故か少しだけ、冷たかった。

―――――この想いは、決して……恋ではないとわかっているのに。
それはまるで―――――誓いの儀式のようだった。