Clover
- - - 第16章 王冠を戴く者1
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久々に訪れたその墓地で、レインは静かに目の前の墓石を見つめていた。
手にした花は血の色をしていたけれども、彼女に捧げる花は、これ以外には考えられなかった。

「久しぶりだな……リル」

墓石に刻まれたのは、誰より愛した彼女の名前。
それを覆い隠すかのように、レインは手にしていたアイリオネの花を無造作に置いた。

「イヤな風だな……」

ふと空を仰ぎ見て、レインは呟く。
近くに控えていたイオは、静かに頷いた。

「ノイディエンスタークとこうも違うものでしょうか……血生臭い風です」
「……ノイディエンスタークはフィールの祈りによって守られている。大地そのものが違うんだ……仕方ないだろう」

久々に踏んだラドリアの地を、懐かしいとは二人にはあまり思えなかった。
この離宮の近くですらこうなのだ。王都はもっとひどい状況になっているのであろうことは、容易に想像がつく。

ノイディエンスタークを発って、夜の神殿までは天馬を駆り、この離宮までは馬を駆って、2日を要した。
レイン達がラドリアへ戻ることを告げられた時、ゲオハルト達が口を揃えて、早く戻って来いと言ってくれたことが思い出される。戻って来いと、彼等はそう言ってくれた。元々ノイディエンスタークの民ではない、自分達に。

(「―――――貸しておくわ」)

フィアルは出立の際、笑いながらそう言った。
だからこそ、レインとイオの腰には、雷神と風神がそのまま携えられている。

「お前……よかったのか?」
「……?何がですか?」
「メナス嬢と別れてしまって、よかったのか?」

出立の時、何故か大粒の涙を流しながら、メナスはイオにすがり付いていた。イオが困ったように必死で慰めていたのを、レインは見ていたのだから、心配するのも当たり前だ。

「わ、私は……メナス殿とは別に……」
「……俺に気を使う必要はないぞ」
「……いいえ、私はレイン様の側にいると決めましたから」

イオは苦笑しながら、不器用な優しさを見せる主を見つめ返した。
そしてそっと赤い花の捧げられたそこへと視線を動かす。

「……それに」
「……?」
「逢えます……生きてさえ、いれば。必ずまた、逢えます」





もう彼女にレインは逢うことはできないけれども。





「……そうだな」

イオの言葉に導かれるかのように、彼は静かに目の前の墓石を見つめた。
見る度に思い出す―――――胸の痛み。
けれど何故か今までとは違う気持ちで、自分がこの場所に立っていることを、レインは不思議に思った。


* * * * *


離宮から王都までは、馬で2日かかった。

王都に近付くに従って、強くなるその腐臭は、流行病で死んだ民達の身体が原因だと、街道に転がる無数の死体を見ればすぐにわかった。まるで地獄絵図のような、目を覆いたくなるような光景だ。
幸いにして、レイン達にはメナスが出立の際、浄化の結界をかけてくれたおかげで、病が発病することはなかった。

「こんな……王宮は一体何をしているんだ……ッ」

今にも死にそうな子供達、物乞いをする男達、そして身売りをする女達。これが一応は大国と呼ばれる国の姿だというのだろうか。
イオの苦しげな言葉を耳にしながら、レインは先を急いだ。
王宮にいるセイルファウスに逢い、今の現状を把握するのが先だと分かっている。

(「―――――レイン」)

寝ずに馬を走らせる彼の脳裏に、フィアルの言葉が浮かんだ。

(「―――――気をつけてね」)
(「―――――闇は、きっと貴方を望むから」)

全てが闇に閉ざされたような、このラドリアで。
何が―――――自分を望むというのだろう。


* * * * *


レインが王宮に姿を現すと、兵士達や他の貴族達は騒然とした雰囲気に包まれた。
そんな彼等を一瞥すると、レインは迷うことなく、王宮の奥、セイルファウスの居室へと歩を向ける。途中、刺すような、殺気に満ちた視線を何度も感じたが、そんなものを気にしていては、ここでは生きていけない。

王宮の中でも、一番奥に位置するセイルファウスの居室は、通常では考えられないほどの警備の兵に守られていた。

「兄上に目通りを」
「聞いておりません。今、皇太子殿下との面会は許可できません」

もっともな言葉だ。
国王を失ったことで、ますます陰謀が犇くこの王宮内で一番命を狙われている人間、それがセイルファウスなのだから。
しかしレインはそこで引く訳にはいかなかった。

「弟が兄に逢いたいと思って何が悪い。お前達にそれを阻止する権利があるのか」
「……恐れながら、レイルアース王子がセイルファウス様のお味方とは限りません。お分かりでしょう?」
「俺は今ノイディエンスタークから戻ったばかりだ。陰謀などと関わる暇はない」
「……それをどうやって信じろというのです?」

このままでは埒があかないことは、レインにもよくわかっていたが、だからといってここで剣を抜き、強行突破などすれば、あっという間にセイルファウスに反逆したとみなされるのがオチだ。
レインは感情を押さえ、冷静に交渉を続けた。

そんな押し問答を続けて1時間がたった頃、不意に扉が開き、一人の兵士が顔を見せた。

「セイルファウス様は、レイルアース王子とお会いになるそうだ」
「……何!?危険だ!そんなことは……!」
「セイルファウス様が直々にそう申されている、致し方あるまい」
「……クッ!」

レインと押し問答を続けていた衛兵は悔しそうに口唇を噛む。しかし主の命令である以上、逆らうわけにはいかない。

「許可します、どうぞ中へ。しかし……少しでも怪しいそぶりを見せれば、ただでは済みません」
「……分かっている」

他の衛兵に促され、レインとイオはその扉をくぐった。
その扉の中には更に2重の扉があり、その一つ一つが強固に守られていた。

「……ここまでの警備とは……やはりセイルファウス様の命を狙う者が多いということなのでしょうか」
「……当たり前だ。父王亡き後、兄上が実質的にはラドリアの王になる存在なのだから」
「……アイザック殿下の刺客が……?」
「アイツが一番多いことは確かだろう」

衛兵達に鋭い疑いの視線を向けられながら、レインは淡々と語った。
この警護もセイルファウス本人が望んだものではないのだろう。彼は過剰な警備を嫌う傾向があった。

最後の重厚な樫の木の扉が、衛兵の手によって開けられ、レイン達は静かにその部屋へと足を踏み入れた。窓からの刺客を恐れたのだろうか、カーテンが幾重にも折り重なって締められ、室内は薄暗かった。

「……レイルアース」

不意にかけられたその声に、レインが振り向くと、灯されたランプに、見慣れた長兄の姿が浮かび上がった。

「……兄上……ご無事で」
「……この通り、籠の鳥だ。一歩も外へ出られない……仕方がないとわかってはいるのだがな」

淡いオレンジの光に照らされたその横顔は、少し疲れたように見えた。
レインはつかつかと長兄に歩み寄り、その手を握る。

「父上が亡くなったというのに、葬儀もまだ行われていないと聞きました」
「……ああ……私も父上のご遺体が今どうなっているのかわからないのだ。病を発病された後、王の間には誰も近付いていないらしい。この状況では葬儀をしようにも、準備すら私にはできない」
「……兄上」

つらそうに目を背けたセイルファウスを、レインは静かに見つめた。
今のこの状況を一番憂いているのは、間違いなくこの人なのだろう。

「……街の様子を見たか?レイルアース」
「はい」
「本来は王族、貴族が民を守らねばならないのに、一体何をしているのか……私は……本当ならこんなところに篭っている場合ではないんだ。こうしている間にも、民は一人一人、死んでいくのに……。どうして彼等にはそれがわからぬのか……民をなくした王など、その存在自体が無意味だということに、何故気付けないのか……!」

ぎゅっと握り締めたその手にこめられた力が、セイルファウスの心を一番端的に表しているように思えて、レインは眉を寄せた。
この長兄は、いつも他人の心配ばかりをしている人だ。
リルフォーネと自分のことでも、本当にできうる限りの力を注いでくれた人だった。

(王に相応しいのは―――――間違いなく、この人だ)

彼はあの日、確かに言った。

(「私はこんな悲劇の起こらない国に―――――このラドリアを変えてみせる」)

自らの欲望の為ではなく、真っ直ぐに信じるその道を進んでいける人なのだ。

(「ラドリアを……太陽の国と呼んで、とてもとても愛していたって」)

フィアルの言葉がふと頭をよぎる。
まだ王ではなかった頃の父は、今のセイルファウスと同じように、真っ直ぐな心を持っていたのだろうか。
だとしたら―――――父を変えたのは何だったのか。
それが玉座に座ることそのものだったとしたら、セイルファウスもまた、変わってしまうのだろうか。
権力が、人を狂わせるのだろうか。

「―――――レイルアース」

その真剣な声にレインが視線を上げると、真っ直ぐに自分を見つめているセイルファウスがいた。

「私に……協力してはくれないだろうか」
「協力……?」
「お前が、この国に関わりたくないと思っていることは、知っている。本当なら私もお前を巻き込みたくはない。だが……このままではこの国は本当に滅んでしまうのだ」
「……兄上」
「国をなくして、一番苦しむのは……民なのだ。私は民を守りたい……身勝手な貴族や王族のために、民を犠牲にすることは……できない」
「……」
「レイルアース」

全く外見の違う兄弟は、ほとんど変わらない高さで真っ直ぐに視線を交し合った。





「私は―――――王になる」





その長兄の言葉に、レインはしばらく動くことができなかった。
けれどきっと―――――いや、ずっと前からわかっていたのかもしれない。
この人こそが、王の器なのだと―――――。


* * * * *


ラドリア王都から遠く離れた、フューゲルとの国境に程近いその森に、小さなその館はあった。
小さな館だが、ここは紛れもなく離宮のひとつである。その窓辺に立って、彼は静かに眼前に広がる森を見つめていた。森の湿った空気は、心を落ち着かせてくれる。

「……病弱なフリをするのも、大変だったでしょう?」

何の気配も感じさせず、不躾に背後からかけられたその声に、窓辺に立っていた青年はゆっくりと振り返った。
そこには青年とは違う、鮮やかな光を身に纏った彼女が立っていた。

「……来ると、思っていました……巫女姫様」
「フィアル、よ」
「……僕は貴女が来るのを、ずっと待っていたのかもしれません」

柔らかで線が細いその青年は、そう言って小さく自嘲的に微笑んだ。
その様子を、フィアルは黙って見つめている。

「レイルアースが、貴方の元へと留まったことを聞いた時、必ず貴女は来ると、そう思っていたんです」
「……おかしな確信ね」
「本当ですね……でも、そう思ったんです」

パタン、と窓を閉めて、彼は目の前の光の姫へと静かに頭を下げた。

「お話します」
「……ええ」
「僕が知ること、知っていること、見て、聞いて……それを全てお話します」
「……」
「貴女はもう知っている。僕が何故こんな風に病弱を装っていたのかも、全て―――――そうなのでしょう?」
「私は全てを知っているわけじゃないわ。でも、予想はついていた。レインの過去を知って、その疑問は決定的になった―――――だから、ここへ来た。貴方に、逢わなくちゃいけないと思った」
「何故―――――僕だと?」
「……勘よ」

青年の茶色の髪が、頭の動きに伴って、さらりと揺れた。
その面影は、色が違うとはいえどこかレインに似ている。

「聞かせてもらうわ。そのためにわざわざノイディエンスタークから、来たんだもの」
「はい」
「貴方が、病弱のフリをしていたのは……自分の身を、命を守るためね?」
「―――――そうです。僕は……生き残らなくてはいけなかった」
「何故?」
「……真実を誰かに伝えるために」

レインのもう一人の実兄、ユリアティウスはそう言って、静かに目を伏せた。