Clover
- - - 第16章 王冠を戴く者3
[ 第16章 王冠を戴く者2 | CloverTop | 第16章 王冠を戴く者4 ]

その部屋に足を踏み入れた瞬間、鼻をかすかな死臭が掠めた。
しかしその室内は、誰も世話をするものがいなかったとは思えないほど、綺麗に整えられていた。窓が開けられているようで、風が緩くその寝台を覆う布を揺らしている。

レインはゆっくりとその寝台へと近づいた。
風に揺れるその布をどけると、そこには白い布で覆われた父王の遺体があった。そしてその身体の上に、一枚の手紙が残されていた。

「……?」

レインはその手紙を手に取ると、イオと顔を見合わせた。

「……これは」
「……ディシス様、でしょうか」

手紙は一枚の紙を四つ折りにしただけの質素なものだった。ゆっくりと開き、中の文字へとレインは視線を走らせる。







レイン

きっと、一番最初にここに来るのはお前だと信じている。
アドニス陛下は、静かに逝った。心残りはあっただろうが、安らかな死に顔だった。
お前が見る頃にはもう腐敗して面影を知ることはないかもしれない。だからこうして書き残しておく。
この人は、お前にとってはいい父親ではなかっただろう。
むしろ憎むべき対象になってしまっているのかもしれない。
だが、それは本当のこの人ではなかった、それだけは信じてあげてほしい。

そしてできれば、この人をもう安らかに眠らせてあげてほしい。
出窓の側に、炎の結晶がある。
この国の状態では、葬儀など無理だろう。
お前の手で、天へと送ってやってはくれないだろうか。
この人の身体がもう、悪戯に利用されることのないように。
オレはそれを、心から願っている。







少し右上がりの癖のある字は、優しい言葉を綴っていた。
この部屋を清めたのは、きっと彼なのだろう。

ふと視線を動かすと、確かに窓辺には、てのひらに納まる程の赤い水晶があった。
魔導が苦手だと自分でも言っていた彼が作ったものなのだろうか。どこか無骨な形をしている。
それは手に取ると、ほんのりと暖かかった。

こうなっても、父王の身体を覆った白い布を、レインはめくる気にはなれなかった。
腐敗しているのは明らかであるし、それ以上に、顔を見る気にもならない。ディシスの言う通り、自分にとってこの人は憎む対象でしかないのかもしれないと、レインは思った。

―――――炎の水晶。
詳しい説明はされなくても、使い方はなんとなくわかる。ノイディエンスタークにいた時間は、彼に魔法や魔導への慣れを刻み込んでいた。

レインはイオへゆっくりと振り向く。その視線にイオが頷くのを確認すると、レインはその水晶を父王の体の上へと置いた。
そしてまだ、アイザックの血糊のべったりとついた雷神を腰から引き抜き、水晶へとその刀身を振り下ろした。





―――――キイン!





金属が割れるような甲高い音と共に、水晶は二つに割れ、その瞬間、真紅の大きな火炎が立ち上った。
油も、何もないというのに、ゴォォォォと音を立てながら、その炎は全てを静かに飲み込んでいく。
炎が天蓋へと燃え移り、ゆらり、ゆらりと揺れるのを、レインは何故か無言で見つめていた。

「―――――レイン様」

イオの呼びかけにも、レインは反応しない。
肉の焦げる臭いがする。かつて戦場で日常茶飯事のように感じていたそれを、レインは思い出していた。
炎に焼かれて、白い布から骨が覗いている。けれど、もうそれは命あるものではないのだ。
リルフォーネが二度と彼に笑いかけないのと同じように。

「……赤だ」
「……え?」
「全部―――――赤だ……この、世界は」

風に煽られて、炎は勢いを増し、その熱風がレインの闇色の髪を浮き上がらせる。
それはまるで、地獄の火炎に彼が焼かれているようで―――――イオは何故か恐ろしさを感じた。
これに飲み込まれたら、この人は……どうなるのだろう。


* * * * *


その視線の先に、見知った人影を見つけて、彼はぴたりとその歩みを止めた。
まるで獣道のような細い道の、唯一開けたその場所にある大きな切り株に、相手は座っていた。
いつものことのように、その場所で空を見上げていた。

「……よう」
「……何をしに来た」
「ご挨拶だな、お前に会いに来たに決まってるだろう?」

漆黒の服を身に纏った男は、屈託ない笑顔を向けてくる。それを不快に感じ、ファングは眉を寄せた。
昔からそうだった、この男は……ディシスは正直過ぎる。

「私に何の用だ」
「用がなけりゃ、こんなところには来ねえよ」

ディシスはその切り株から立ち上がり、ファングが近寄ってくるのを待っている。ただ……静かに、何の殺気も放つこともなく、立っている。ファングは仕方なく、ゆっくりとディシスの側へと歩を進めた。しかしお互いの剣の間合いだけはしっかりと保ったままだった。

「……この先のあの館に、ジョルド・クロウラがいるんだな」
「……何のことだ」
「とぼけるなよ。お前だってそろそろ知れることはわかっていただろう?」
「……」
「あんな野心だけしかないような男に、お前が本気で肩入れしているとは思えないがな」

何も考えていないようで、実際の洞察力は自分よりディシスの方が上だったことを、ファングはぼんやりと思い出した。そう……だからこそ、この男は近衛の隊長になりえたのだ。自分もそれを認め、時々暴走する彼の抑え役になったはずだった。

「……ファング、お前知っていたな?」
「……何のことだ」
「アドニス陛下が亡くなった。オレが看取った」
「……それで?」
「お前は今、あいつの下で働いているのか。ジョルド・クロウラでも、シオンでもなく、あいつの下で」
「……」
「それもみんな、リュークの為だって言うのか」

その名前を口にした瞬間、ファングの身体から黒い怒りのオーラが噴出したように、ディシスはピリピりと肌に痛みを感じた。

「お前が、裏切ったお前があの方の名前を呼ぶな」
「……オレは、裏切ってなどいない」
「よくもそんなことが言えたものだな。私達はかつて共にジークフリート様に忠誠を誓った。ジークフリート様を守る為に、命をかけることを、誓った。それをお前は裏切った」

空色の瞳に怒りをたぎらせて、ファングはディシスを睨み付けた。それを逃げることなく受け止めながら、ディシスは口を開く。

「オレはあの日、ジークフリート様をお守りして、死ぬつもりだった」
「……」
「しかしそれを、ジークフリート様は許してはくれなかった。あの方はオレに……臣下であるオレに頭を下げて、言った。どうか娘を守って欲しいと……そう言った。自分は死の決意をしていたにも関わらず、だ」
「……ジークフリート様はそういう方だ」
「そう……その人とオレは約束した。その約束は……守らなくてはならなかった」
「だから、あの娘を育てた……そう言いたいのか」
「お前は―――――違うのか」

ファングは怒りで強く拳を握りながら、俯いた。
その問いに対する言葉を、必死に探しているようにディシスには思えた。

「私は……守ると誓った。リューク様を守ると、誓った」
「……」
「……その想いは確かにお前と同じだ。だがあの娘がリューク様を殺した事実は消えない!」
「……お前には、わからないのか。気付いていなかったわけじゃ、ないだろう」
「……ッ!」

反論しようとしたファングに、ディシスは静かに……とても静かに、その事実を―――――告げた。

「リュークがフィーナをどんなに大切に想っていたか」
「フィーナがリュークをどれほど愛していたか」
「オレ達は一番側にいて、あの二人を知っていたはずだろう……?」

ファングの記憶の片隅から、ふとその声が思い出された。
リュークは……魔神官と呼ばれ、誰からも疎まれる反目の印を額に戴いたあの青年は、確かに自分にこう言ったのだ。





(「許されないと……知っている」)
(「これは―――――罪だ」)
(「でも……それでも……」)

背中の中央まである髪を、緩やかに一つに束ね、自らの半身である魔竜に身体を預けながら、彼は長い睫を伏せた。

(「俺は……彼女を……愛している」)





―――――その笑顔の儚さに……涙が溢れる。
あの青年の誰よりも深く、強い想い……そして願いを、自分は知っていた。
だからこそ―――――。

「……あんなに……リューク様は……想っていたのに」
「……ファング……」
「あんなにも純粋に、真っ直ぐに……あの娘を愛していたのに……」

ギリリと彼が歯を食いしばるのを感じて、ディシスは息を呑んだ。

「何故……その娘に、殺されなければいけなかった!あの方が、何故よりにもよってあの娘に殺されなければいけなかったというんだ!」
「……ファング」
「お前だけじゃない、お前の娘がリューク様を裏切ったんだ!愛していると言いながら、大切だと言いながら、リューク様を殺した!そしてあの娘は今ものうのうと生きている。平和になったあの国で、幸せに生きている!それをお前は私に許せと言うのか!?ではリューク様はどうなる!?あの方の想いは一体どこへ行けばいい!」

血を吐くように、その心の底に燻っていた想いを、ファングはディシスへとぶつけた。
ディシスはそれを痛み無しには受け止めることはできなかった。きっとそれが逆の立場だったなら、自分もファングのように想っただろう。生き残ったリュークを憎んだだろう。

―――――けれど。

「……リュークが死ぬ間際に、何と言ったか……お前は知っているか?」

ディシスは俯いた。あの日の記憶は、ディシスにはあまりにつらすぎて、顔を上げることができない。しかしそれを語らなければ……この親友は納得しないだろう。
ファングはディシスの言葉に、その大きな体躯を硬直させた。

「……ディシス……お前……あの時……あの部屋にいたのか」
「……ああ。でも……もう止めることは……できなかった」

鮮やかに思い出す。
玉座に座ってフィアルが来るのをただ静かに待っていたリュークと、彼が待っているのが何の為なのかわかっていながら、ただ立ち尽くしていたフィアルの姿を。
二人は長い間、何も言わずに見つめ合っていた。それが最期だと、わかっていたはずだった。

「……リュークは、自分の身体を掻き抱いて泣いていたフィーナに、確かにこう言った」
「……」
「『許してくれ』……と」





(『―――――すまない』)
(『許してくれ』)

その柔らかな、白い頬に―――――触れて。
かすかに微笑みさえ、浮かべながら。

(『―――――お前だけを……生き残してゆく……俺を』)





リュークには……わかっていたのだろうと思う。
彼を失った後、フィアルがどうなってしまうのかが……わかっていたのだ。
事実、今もフィアルは、深い悲しみと強い憎しみに支配されたままだ……うまく覆い隠しているだけのことだ。

「……許せと……?」
「……」
「リューク様が……そう言ったと……?」
「……そうだ」

ディシスはゆっくりと顔を上げた。そして驚きに目を見開いたままのファングを、真っ直ぐに見つめる。

「……魔竜が召還されたことは、知っているな」
「……」
「フィーナは……お前に、魔竜を逢わせたいそうだ。オレも……そう思う」
「……何故だ」
「……魔竜はリュークの魂の半身だ。わかっているだろう?」

ファングは身体を震わせて、ただ立ち尽くしていた。
昔から真面目で、一本気で融通が利かなくて。だからこそ、信頼していた親友。
―――――だからこそ、わかって欲しい。
あの二人の想いをこれ以上悲劇に向かわせない為に、一緒に……そう、一緒に立ち向かって欲しいのだ。

「……フィーナは、待っている」
「……私は……行かない」
「オレも……魔竜も……待っている。言いたかったのはそれだけだ」

ディシスは言葉を返せない親友をもう一度、静かに見つめると、くるりと背を向けて、歩き出した。
その背中は、決して振り向くことはなかった。
ファングはただ立ち尽くしたまま、それを見送った。
その姿が、鬱蒼とした森の影に消えるまで。