Clover
- - - 第16章 王冠を戴く者4
[ 第16章 王冠を戴く者3 | CloverTop | 第16章 王冠を戴く者5 ]

ラドリアの王宮は荒れていた。

アイザックが行方不明になったと聞いて、レインはかすかに眉を顰めた。あれだけの重傷で自力でどこかへ行けるとは考えにくい。誰かが連れ去ったか、誰かに命じて身を潜めたのかはわからないが、とにかく何かの意図を感じることは確かだった。

しかし、そのせいで事態は大きく動き出したとも言える。

反皇太子派の最大の勢力だったアイザックがいなくなったことで、ラドリア王宮内の微妙な均衡は崩れた。アイザックの母の実家の勢力も肝心のアイザックがいなければ、どうにも動きようがなくなる。それはセイルファウスが王位へ就くのに、最大の障害がなくなったということでもあった。現に今までアイザックにへつらっていた貴族や兄弟達も、セイルファウスへと媚びる姿勢を見せ始めている。

大きな流れが動き出したように、レインには思えた。

「……それにしても、奇妙な話だな。アイザックは一体どこへ消えたんだ。無事……なのだろうか」
「……兄上……人が良すぎます」

少しだけ緊張の解けた部屋で、セイルファウスは苦笑した。

「確かに私とあいつは仲がいいとはお世辞にも言えないが……一応は半分兄弟だからな」
「……兄上」
「お前の言いたいことはわかっているつもりだよ、レイルアース。気にはなるが、今はどうしようもない」

そう、今が絶好の機会なのだ。セイルファウスが玉座に就くまたとない好機だ、それは疑いようもない。

「お前が護衛についてくれたおかげで、少しは緊張も解けた。私もそろそろ自ら動くとしよう」

優しい茶色の瞳を少し細めて、セイルファウスは弟を見やった。レインは黙ったまま、静かに頷く。
病、飢え、重税に苦しみ、度重なる戦争で疲れ果てた国民は、おそらく諸手をあげてこの賢明な若者が王になるのを歓迎するに違いない。もうリルフォーネのような悲劇は起こるまい。

そう思うのに。
心から、そう思うのに。
―――――どうしてこんなに心が寒いのだろう。

アイザックを切りつけた時、分かってしまったからか。
自分の心の中に、どろどろとした汚泥のような感情が渦巻いていることに。

ノイディエンスタークへ発つ前までは、レインはずっと自分の殻の中にいた。悲しみと後悔と、深い諦めの中で、何かを望むことや考えることそのものから背を向けてきた。
―――――それが。
フィアルと出逢ったことで、変わってしまった。
確かに自分は、今までとは違うよい方向へと動き出したのかもしれない。しかしそのために、今まで表面に出ていなかった負の感情が溢れ出したこともまた確かなのだ。

何が正しくて、何が間違っていたのか。
そんなことはきっとそう、誰にもわかりはしない。

「レイルアース?」

突然俯いた弟に、セイルファウスが心配そうな光を浮かべて、レインの顔を覗き込んだ。
茶色の髪、茶色の瞳。ラドリアの民の持つ、正当なる―――――色。
自分が決して纏うことを許されなかった色。

「―――――いえ……何でも、ありません」

そんな自分を、イオが複雑な顔で見つめていることを、その時のレインは気付いていなかった。


* * * * *


日に日に強くなる国民からの魔竜に対する圧力を、フィアルは知らないわけではなかった。
この大陸の人々の関心が一心にラドリアに向けられているというのに、ノイディエンスタークだけは別格ということも、彼女に分かっていた。

「関係がないからな」

自分の執務机に座ったまま、最年長の侯爵であるヴォルクは眉を顰める。その姿をゆっくりとお茶を口に運びながら、アークは見つめていた。

「大地の結界があることが、この国の民を無関心にさせている」
「他国で何があろうと、自分達は安全というわけですね。それもまた、あまりいい傾向とは言えませんね」

アークの呟きに、向かいに座っていたイースも静かに頷いた。

「自分達が安全であるから、民は国内のことにしか関心がなくなっているということですか?ヴォルク様」
「そういうことだ、イース。そして今、民の関心事は魔竜ということだ」
「民というのは得てしてそういうものなのですよ」

ラドリアで大きな異変が起ころうとしているこの時に、ノイディエンスタークの民はそれが自分達には全く関係がないと思っている。それよりも優先されるべきは、自分達の安全を脅かすかもしれない魔竜を一刻も早く消すことなのだ。

「でも私が何より心配なのは……そのことではないのですけどね」
「……?どういうことだ、アーク」
「……姫様です。あの方が私は心配で仕方がない」

イースの驚いたような視線に、アークは薄く微笑んだ。

「問題は、魔竜を召還したのが姫様だということです。あの方が通常の国の王なら、それは問題ではない。国民の信頼を失った王は追われるだけですからね。けれど……この国では決してそれは許されないことなのです」
「……えっと……どういうことです?アーク様」
「わかりませんか?」
「……すみません、不勉強で」

戸惑ったようなイースを見やり、アークは持っていたカップを静かにテーブルの上に置いた。その様子をヴォルクもまた静かに見つめている。

「この国は……ノイディエンスタークというこの国は、姫様なくして成り立たない国だからです」
「……そうだな」
「あの方が祈ることをやめたその時、この国は滅びる。イース、貴方も覚えているでしょう?内乱の時のこの国の大地がどうなったのか」

赤茶けた乾いた土は、植物を育まない。
死んだ―――――大地。
急速な―――――滅び。

「簡単に言ってしまえば、この国の未来は、姫様の心一つなのですよ」
「……でも、姫様がそんなこと……」
「それはわからない。このまま民が魔竜を追いつめるようなことがあれば、姫様が、それを取引に使わないとは言えまい」

しかし、内乱が終わり、平和の戻った生活に慣れた民には、その事実を忘れてしまっている者も多いのだ。
この国にどれだけ大神官という存在が必要不可欠なのか、わかっていない者が多すぎるのだ。

「姫様はわかっていたのかもしれませんね」
「……え?」
「わかっていたから、自分で魔竜を召喚したのかもしれません。彼女以外の人間がもし魔竜を召喚していたら、魔竜排除の声はもっと大きかったでしょう」

そこまで考えていたのなら、あの姫君は恐ろしい知略の持ち主だ。
そう思って―――――三人は沈黙するしかなかった。

「そう考えると……この国の成り立ちは、どこか狂っているのかもしれませんね」

生きている―――――大地。
何故、この場所だけに意思が宿ったのか。
そして何故、その意思は大神官家の血を引く選ばれし者の祈りにしか、答えないのか。
どんなに疑問に思っても、それを知る術は―――――なかった。


* * * * *


渦中の存在である魔竜ジェイドは、奥神殿の最下層にいた。
幾重にも張り巡らされたフィアルの結界の向こう、次元を隔てた結界すら張られたその場所に、彼の対極の存在は静かに眠っていた。

(「神竜……―――――」)

美しい水晶の中、フィアルの半身である竜族の王、神竜は固く目を閉じている。
彼女の髪と同じ色の鱗を身に纏い、その閉じられた瞳もまた同じ色をしているのだろう。

フィアルにとって、この存在がどれほど大切で、愛しいものか。
それは当の竜と、当人にしか理解し得ない深い深い絆だった。

(「お前は……いつまで彼女を一人にしておくつもりだ」)

―――――知っている。
―――――わかっている。
かの竜を封印したのは、紛れもなく彼女自身であるということは。
それでも尚、ジェイドはこの至高の竜に問わずにはいられなかった―――――何故、と。

魔竜であるジェイドと神竜に、接点は一度としてなかった。
ジェイドは確かにリュークの誕生と共にこの世に生を受けたが、内乱が起こり、リュークが魔神官として神官達に祭り上げられるまでは、今の神竜と同じように封印されていたのだ。
そしてそれと時を同じくするように、内乱の起こったその時、神竜はフィアルによって封印された。対極に位置する竜達は完全にすれ違う形になったと言える。

だから―――――あの時。
リュークとフィアルが戦わなければならなかった内乱の終盤、本当ならフィアルに勝ち目などありはしなかったのだ。
リュークにはジェイドがいて、フィアルにはいなかったのだから。力は均衡などしていなかった。
けれどリュークは、ジェイドがその戦いに加わることを拒んだ。
それは彼が背負わなければいけなかった業と、彼自身が望んだ未来の為に。
そしてジェイドもまた、彼の意思に従うことを、決めた。

この神竜は、知っているだろうか。
彼女がジェイドを見つめる瞳が―――――どれだけ悲しく、愛しいものか。
彼女はジェイドを通して、ずっと彼だけを見つめていることを、知っているだろうか。

(「一人にするな」)
(「彼女を……一人にするんじゃない」)

眠り続ける神竜に、魔竜は静かに語りかける。
通じるはずも―――――ないのに。

(「お前は、知っているんだろう?」)
(「何故……彼女が自分を封印したのかを」)

そう、ジェイドには分かっていた。
神竜はそれを知っていて―――――自らの意思で、眠っているということを。

その封印の理由を、ジェイドは知らない。分かるはずもない。

けれどフィアルは、その理由のために、誰より愛しい半身を自ら封印し。
そして神竜は、その理由を知っていて、誰より愛しい半身に封印されることを、拒まなかった。

何と不器用な、そして切ないほどの―――――愛情。
お互いを想うが故に、その想いが強いが故に、彼等はこんな道を選ばなければならなかった。
それは確かに―――――リュークとフィアル、二人の関係にも当てはまることだった。


* * * * *


結界越しにじっと神竜を見つめていたジェイドの後ろで、ふっと風が動いた。
振り返らずとも、ジェイドはその存在が何なのか、知っている。

「……この竜は、フィーナ?」
『……そうだな』

純白の髪、血の色の瞳。その背に純白の翼を持つ、人であるようで人ではない種族の少年は、じっと眠る竜を見つめていた。

『翼人……か。お前は何故、彼女の側にいる?』
「……フィーナが好きだから」
『それだけか』
「そう、それだけ」

その純粋なる想いは、フィアルを少しだけでも、癒すのだろうか。
ジェイドはその翡翠の瞳を、ただ神竜を見つめたままの少年へと向けた。
ここにいる二頭の竜と、白き翼持つ少年の全てが、彼女の笑顔を望んでいる。
そのことを―――――フィアル自身も、きっと知っている。

―――――知っていても、本当には、笑えない。

自分達があの愛しい存在の為に、何ができるのか。
ジェイドはネーヤに向けていた視線を、もう一度神竜へと移して、ただそれだけを考えていた。