Clover
- - - 第21章 絡まる糸8
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「あの森を越えれば、そこがノイディエンスタークだ」

ディシスの言葉が遠く聞こえるのは何故なのだろうとフィーナは思った。
泣いてすがるネーヤを何とか説き伏せ、10年ぶりに戻るその場所を前にして、未だに心が揺れている。そんな自分の弱さが、今のフィーナには無性に苛立たしかった。

強くならなければいけなかった。何が起こっても動じず、何かに心を揺らすこともなく。
長い傭兵生活の中で身に付けたはずのそれは、こんなにも脆いものだったのだろうか。そう思うと自分で自分を殴り飛ばしたくなってしまう。

そんな葛藤を抱えて目の前の森を見つめている娘に、ディシスは心配そうな視線を向けた。

「フィーナ、お前少しここで待ってるか?オレが先に潜り込んで様子見してきてもいいぞ?」
「……何それ」
「無理すんなってことだよ」

ぽん、と頭に手が乗せられる。
その黒い皮手袋に覆われたディシスの無骨で大きな手が、フィーナは好きだった。

「違う。そうじゃないの」
「フィーナ?」
「自分でもよくわからない。なんだかもう……いろいろ、バラバラな感じなの」

心と頭と身体が全て違う方向を向いているような、そんな気がしてフィーナは目を伏せた。
素直な心は、目の前にあるその鬱々とした森の向こうに確かに感じる大地の鼓動と半身の存在に歓喜している。けれど、頭は冷静に考えている。今後のことや今は魔神官と呼ばれているリュークの存在が、足を前に進ませない。

「守ってやるから」
「……ディシス?」
「お前はオレが守ってやる。だから大丈夫だ。オレは一応近衛隊長だぜ?」
「過去の栄光だよね」
「過去って言うな!」

いつものように軽口を叩いた後、ディシスはふっと柔らかな視線を目の前の娘に送った。

「戦うようなことには、させない」
「……」
「絶対にさせない」
「そう……だね」

ディシスが差し出した手に、自分のそれを重ねる。
やがて二人はゆっくりと、その森へと歩を進めた。


* * * * *


『―――――お帰りなさい』
『―――――お帰りなさい、緑の姫』

確かに聞こえたその言葉は、ノイディエンスタークというこの大地に生きる人間以外の全てのものから贈られた言葉のように、フィーナには思えた。

10年前まで確かにそれは彼女の側にあったもの。
それがあまりにも当たり前だったからこそ、気付かなかったこと。

この大地が―――――生きているということ。

そしてその声を聞くことができるのは、ジークフリート亡き今では自分しかいない。
たった一歩、その大地に足を踏み入れただけで、フィーナには大地が喜びに震えていることを感じることができた。

「フィーナ!?どうした?」
「……ッ」

言葉にならない。どう説明したらいいのかもわからない。
それはもうどうしようもないほどに身体を突き抜ける―――――喜びで。
知らず、フィーナはその場所にがくりと膝を折ってしゃがみこんだ。

「フィーナ!?」

ディシスが慌てて駆け寄り、その華奢な身体を支える。
けれどそれに逆らうように大地に跪くと、フィーナはただ自然に赤茶けたその大地に口付けを贈った。
そうすることが当然なのだと、そう思えたから。

どうしてなのだろう。
確かに自分はこの大地を、疎んでいたはずなのに。

『愛してるものを、嫌いって言わなくていい』

ディシスが言った言葉が、不意に思い出された。
それでも愛して―――――いるのだろうか、自分は。
このどこまでも優しく感じられる存在を。

「フィーナ、大丈夫か!?」
「ディシス」
「具合が悪いのか?」
「……どうしよう」

支える腕をそっと握って、俯いたまま呟く。
見慣れた青い瞳が心配そうに見つめているのに気付いて、ああ、この人の瞳は本当は真紅だったとフィーナは不意に気が付いた。

「どうしよう……私」
「?」
「……祈ってしまいそう」

それはこの国に住まう人々のためではなく、ただこの大地のために。
純粋にただただ―――――そのためだけに。

フィーナの言葉を聞いて一瞬ディシスは呆然としたが、すぐにはぁぁぁぁと大きなため息をついて肩を落とした。その大げさな動作の意味がわからずに、フィーナは首を傾げる。

「……我慢しろ」
「ダメ?」
「今はダメだ。帰ってきたってこと宣伝して歩くようなもんだろうが」
「……ケチ」
「ケチとかそんなレベルの話じゃねえだろ」

心のままにすぐにも祈りを始めてしまいそうな娘を引っ張って立たせると、ディシスはその手を引いて歩き出す。その性急な行動に戸惑いながら大地と空を交互に見てフラフラと歩く彼女に、ディシスは小さく笑みを零した。

「歓迎されてるのか?」
「……うん」
「喜んでるか?大地は」
「うん、すごく」
「そっか」
「大地も、大気も……皆が私を待ってたって言ってる」

そうなのだろう。
たった10年でここまで荒れ果ててしまった大地は、彼女をただただ待っていたのだろう。
ディシスには大地の声は聞こえない。13諸侯家の血を継いではいても、決して聞くことはできない。
けれどこの娘の側にある大気が、どこか喜んでいるように華やいでいるのを感じることはできた。

「大地や精霊達は確かにお前を待ってたんだろうな。でも……」
「?」
「この国にいる人間全員が、オレとお前を待っているとは限らない」
「……うん」

まるで夢から覚めるように、少しずつ娘の瞳にいつもの冷静な光が戻るのを、ディシスは感じる。
見なくてもわかる、その纏う空気が違う。研ぎ澄まされた刃のような鋭利な空気は、10年の傭兵生活の中で自分とこの娘が自然と身につけたものだ。

燃えさかる神殿を脱出し傭兵を生業とするようになって、ディシスは情報屋から、逐次ノイディエンスタークの情報を買っていた。
しかしその情報はいずれも極秘裏に神官達がリュークを探しているという話ばかりで、一度もフィーナを探しているという話を聞いたことがなかった。

つまり、神官達が求めたのは光の力ではなく、闇の力だったということだ。
光の力を持つフィーナは、リュークを既に手に入れている彼等にとっては邪魔以外の何者でもないだろう。
今のノイディエンスタークはフィーナにとって安全な場所ではなかった。例えこの大地が彼女を何よりも誰よりも愛していようとも、人間の行動を制限することはできまい。

「……ねぇ、ディシス」
「なんだ?」
「分かれようか」
「は?」

強引に引かれていた手を離すと、フィーナはゆっくりとその場所に立ち止まった。
まるで青空のようだとネーヤが評した空色の瞳が、じっとディシスを見つめている。

「私、一人で反乱軍に近付いてみる」
「何言ってんだ、お前」
「あのね、実はそうしようと帰ってくる前から思ってたの。私はただ利用される気はない。彼等が強い魔導力を使うために祈ってやる気はないし、そもそも単なる坊ちゃん嬢ちゃんの集まりだっていうなら、力を貸す気にもならない。それこそ単独撃破でいいわけでしょう?」
「単独撃破ってお前……一人で神官達を一掃する気かよ」
「……それはまぁともかく、彼等を見たいの。見極めたいの。だから私、とりあえず傭兵のまま反乱軍に入ってみる」

にっこりと笑いながらそう言い放った娘に、ディシスはこの上なく不満気な顔を向けた。
当たり前である。先程のとおり、今のノイディエンスタークは必ずしもフィーナにとって安全な場所ではないのだ。そんな場所での娘の単独行動を許せるほど、ディシスは寛容ではなかった。

「……なんで一人なんだよ。オレが一緒じゃまずいのか?」
「ディシスには他にやることがあるでしょう?」
「……リュークのことなら、お前も一緒の方が……」
「それにね、ディシスは反乱軍の人達に顔が知られてるでしょう?」
「……まぁな」

昔よく剣の相手をしてやったりしたので、ディシスはそれなりに13諸侯の子息達とは面識があった。
しかも今、反乱軍には軍師として唯一生き残った風のレグレース侯爵であるロジャーもいる。
いくら色を変えていても、正体が知られない可能性は限りなく低かった。

「私は奥神殿から出ることなんてほとんどなかったから、13諸侯の子息達って言っても、逢ったことがあるのはユーノスの息子だけで、他の人とは全く面識がないでしょう?好都合じゃない」
「でも一人なんて……」
「ディシスってさぁ、女遊びしてる時は私のことなんて完全無視なくせに、どうしてそれ以外のところではそんなに過保護なの?そんなに私のことを愛しちゃってるの?」
「女遊びしてる時だけが余計だ!」

口の減らない娘にディシスは声を荒げた。
けれどそれが彼女と自分のコミュニケーションであることもわかっている。こうした言葉のやり取りが、お世辞にも近いとは言えなかった自分達の距離を今の状態まで近付けたのだ。

「お前さ……」
「?」
「いや、なんでもない」

本当は―――――リュークに会うのが怖いのではないか。
その言葉をディシスはすんでのところで飲み込んだ。
自分は汚れてしまったから、綺麗な兄には会えないと言ったフィーナに、今それを言ったところでどうなるものでもない。ならばとりあえず自分が逢って、2人を再会させてやればいいのかもしれない。

彼女を1人で行かせることは心配ではあるが、腐っても1流の傭兵だ。
その実力はディシスも認めるところであり、これ以上引き止める材料は見つからなかった。

「……わかったよ。で?どうやってオレ達は連絡を取り合うんだ?」
「1ヶ月後に、ここで」
「……1ヶ月か」
「そう1ヶ月。例えうまくいっててもいってなくても1ヶ月。どうしても来られない場合はコレ、使って」

そう言ってフィーナがディシスに渡したのは、小さな茜色の水晶だった。
リトワルトの傭兵街で裏取引されている魔道具で、1回限りだが声を送りあうことができる。

「……ずいぶんと用意周到じゃねえか、ああ?」
「へへへ」
「へへへじゃねえよ。ったく……」

ぶつぶつと文句を言いながら、ディシスは差し出されたその魔道具を受け取った。本音を言えば、離れるのは不本意なのだ。ジークフリートと『必ず守る』と約束した大切な娘を1人にしたくはない。

「気を付けろよ」
「ディシスもね、ヘマしないでよ?」
「何かあったら1ヶ月といわず、すぐに連絡してこいよ?」
「はーい」

次々と注意をしてくるディシスにフィーナは苦笑する。
同時に、昔、フューゲルでリンフェイに襲われそうになって以来、ディシスがひどい心配性になったことを懐かしく思い出した。

「じゃあね」
「フィーナ、本当に気を付けろよ!」
「はいはい、そっちもね」

フィーナはひらりひらりと手を振って、王都に向かうディシスとは正反対の方向へと歩き出した。
反乱軍が隠れ住んでいる場所を、調べる必要など、彼女にはない。大気がその場所へと導いてくれるのだから。

「乾いた……風」

髪を揺らす風に湿り気はなく、ただ赤茶けた土の表面を撫でていく。
それでも確かに今はまだ―――――大地は生きていた。