Clover
- - - 番外編5 Good Morning My Darling
[ 番外編4 Lady Devil | CloverTop ]

地の魔導を継承する、フレジリーア候爵ヴォルクの朝は早い。

―――――真面目、を絵に書いたような男である。

棒術を得意とする彼は毎朝の鍛錬を欠かさない。家人もまだ起きていないような早朝から稽古で汗を流す。体が温まり、朝日が少し昇る頃、執事の呼ぶ声で彼は家の中へと戻り、冷たい水のシャワーを浴びる。ダイニングのテーブルにつくと、ちょうど執事が彼のためにコーヒーを入れ終わっている。彼の好みに合わせた、少しだけ苦めのコーヒー。それを一口飲んで、庭を眺める。そうして穏やかな彼の一日は始まる……はずだった。





「きゃー!!寝坊しちゃった!」





質実剛健を形にしたような館に、これほどそぐわない声もないだろう。その高い甘い声が響くのは、いつもヴォルクが朝食を食べ終えた頃だった。
執事と顔を見合わせて、またか……と内心では思う。その間にタタタタタという軽やかな足音がこの部屋に近づいてきた。

「もー!どうして起こしてくれないの!?ヴォルク様のバカ!」
「……セラ、その前に言うことがあるだろう?」

バン!と作法も何も無視して飛び込んできたのは、軽く癖のある柔らかな茶色の髪の少女だった。慌てて着替えたのかワンピースの胸元にあるリボンは解けたままだ。
ヴォルクの言葉に、いまいち納得していない風でありながらも、セラは彼の側に歩み寄り、座ったままの彼の頬に軽くキスをした。

「……おはよ」
「ああ、おはよう」

―――――……彼の朝は、いつもこうして、愛しい妻の拗ねた顔と解けたままのリボンを結ぶことから始まるのだった。


* * * * *


最年長の彼は、密かに13諸侯の中では『保父さん』と呼ばれている。
なにせ13諸侯には曲者が多い。そんな彼らを本来ならまとめるはずの、姫君からして常識とは縁のない性格だし、それに次ぐアゼルも、基本的には常識人な風でありながら、実はそうでもないことをヴォルクは知っている。
結果、いろいろな面倒事を処理する役は全て彼に回ってくることになっていた。

そんな彼の妻のセラはまだ18歳。ヴォルクとは10歳の年の差がある。

「……いつまでそんな顔をしているんだ」
「ヴォルク様が起こしてくれなかったからです!」

拗ねた顔のまま、パンを口に運ぶ仕草は、毎朝見慣れているとはいえ、可愛らしいものでしかない。
しかしそれを口にすれば、また子供扱いした!と更にご機嫌を損ねることになるので、彼は敢えて何も言わずに小さく微笑むだけだった。

「せめて一緒に朝ご飯を食べたいなって思ってるだけなのに!」
「……今、食べてるだろう?」
「食べてないです!ヴォルク様はもう食べてないじゃない!」

確かに自分の前にはコーヒーしかないが、そこまで怒ることか?とヴォルクは思う。
だが、口にはしない。
この手は妻の前だけではなく、姫君の前でもよく使う手である。しかしあの姫君にはそんなことはお見通しらしく、何度か蹴りをくらったことはあるのだが。
とりあえず自分の妻が、あそこまで聡い女性でなくてよかったと、常々彼は思っていた。

「何で起こしてくれないの?」
「……あんまりよく眠っているからな」
「それでも起こしてほしいって、毎日言ってるでしょ!?」
「……一応、起こしたんだぞ?」
「……えっ……?」
「でも、お前はあと10分……と呟いてそのまま寝てたんだ」

セラの寝起きが悪いのはもうわかりきったことなので、ヴォルクは敢えてそれ以上起こすことをしなかった。何せ彼の起きる時間も、普通のそれとは随分とかけ離れていたから、無理強いはできない。
しかし一応起こされたことも全く覚えていないセラは、明らかに顔を青くした。

「お、起こして……くれたの?」
「ああ」
「……だっ、だってヴォルク様の起きる時間が早すぎるから!もっと普通の時間に起きてください!」
「鍛錬はかかせないだろう?」
「どうしてヴォルク様が鍛錬なんてするの?!もう戦争は終わったのに!」

確かにその通りなのだが、だからと言って気を抜くことはできない。仮にもヴォルクはエセルノイツ地隊の隊長でもある。部下の前でそんな気の抜けた状態を見せたくはないし、見せるつもりも彼には更々なかった。

―――――自分は、騎士なのだ。

侯爵でもあるが、その前に姫君に忠誠を誓った人間だ。
侯爵として領地を治めるのも仕事ではあるが、根本は騎士としての生き方が身についてしまっている。

領地の治め方については、各領地で不平等な税が課されたりしないよう、13諸侯と姫君で決めた明確な規定があった。気候で収穫が少なかった場合などについても対応できる完全な規定である。それを見た時、姫君が名君であることを、彼は確信したものだ。
なので、規定に従っている限りにおいては、領主としての仕事はあまりないのが実情だった。
領地の部下達もまた優秀な者達だ。不正などを働いた場合の処罰についても、姫君は明確な形で文書化している。否、処罰などせずともそんなことをすれば、ノイディエンスタークから追放になることは必至であった。

「セラ……それが俺の仕事だ」
「……ッ!もういいっ!」
「よくない。もしもまたこの国に何か起こった場合は、俺は戦わなければいけない。わかるな?」
「……そうやって戦争に行っちゃうんでしょ?あたしを置いていくんでしょ!?そんなに姫様が大事なの!?」
「お前、何を言って……」
「もういい!ごちそうさま!」

プイ、とそっぽを向いてセラはダイニングから出て行ってしまった。
残されたヴォルクははぁ、と大きなため息をつく。そんな主を見かねてか、執事が心配そうに声をかけた。

「……奥様は、ご心配なのですよ」
「何を心配するんだ。俺が戦場で死ぬことか?」
「いえ……そうではなく……」
「?」
「巫女姫様に、若様を取られた気がしていらっしゃるのでしょう。最近、何故だかいやに気にしていらっしゃるようですから」
「……俺と、姫様?どこをどうやったらそういう発想が出るんだ?」

―――――ありえない。

それはもう絶対的にありえない。天と地がひっくり返ってもありえない。
と言うか、あの姫君が自分に惚れることなどあるだろうか?いや、ない。絶対にない。何故に断言できるのかは自分でもよくわからないが、それだけはありえない。

「若様はこの間まで、ずっと王宮に泊まりこみだったことがあったでしょう?」
「それがどうしてそんな話になるんだ。大体あれは、姫様が不在の間の準備がいろいろあったからで……」
「お淋しかったのですよ。何かあった時には、若様が自分より巫女姫様のところに行ってしまうのだと」
「……そうは言われてもな……」
「奥様は平民の出身ですから。侯爵家に近しいものなら普通に思えることでも、そうは思えないのでしょう。その辺りはわかって差し上げてください。私も……微力ながら、少しずつ奥様にお教えしていきますので」
「……悪いな、頼む」

ヴォルクはそう言うと、置いてあったマントをバサッと羽織って立ち上がった。
小さくルーンを唱えると、庭に一頭の天馬が現れる。彼は今日も王宮に出仕しなければならないのだ。

ふるふる、と小さく頭を振って、ヴォルクは天馬にひらりと飛び乗った。セラのことが気にならないわけではないが、仕事とは別だ。彼は完全に仕事とプライベートを分けるタイプの人間でもある。

空に舞い上がり、小さくなっていくその姿を、寝室の窓からセラが見つめていたことに、彼は気付かなかった。


* * * * *


「ヴォルク」

13諸侯全員に与えられた王宮内の執務室に向かう途中で、ヴォルクは穏やかな声に呼び止められた。
振り返ると長い黒髪の青年が、穏やかな微笑を浮かべて立っている。

「アークか……どうした?」
「どうもしませんよ。朝の挨拶もしないのですか?貴方は」

斬のブルデガルド候アークは、ニコニコと笑っている。が、その笑顔が余計に怖かった。シルヴィラと並んで13諸侯の裏の支配者と言われている理由はそこにある。一見穏やかだから余計に性質が悪いのだ。

「……わかった、おはよう。これでいいのか?」
「はい。おはようございます」

それでも律儀に答えてしまう辺りがこの男である。それに満足気に微笑むと、アークはところで、と話を続けた。

「何かありましたか?」
「……別に、何もない」
「ああ、もしかして噂の幼妻と喧嘩でもしましたね?」
「……」

なんでそんなことがわかるんだ!?と内心思ったが、真面目な彼は少しだけ眉を寄せただけだった。

「図星ですか?」
「……関係ないだろう」
「関係はなくても興味はあります」

きっぱりと言われて、ヴォルクは思わず閉口してしまった。普通そうだったとしても、それを口に出すものだろうか?

「……どうやら、疑われているらしい」
「何をです?」
「俺と……姫様の関係を」
「……ぶふっ!」

穏やかだったはずの微笑が、一気に大爆笑へと変わった。アークはおかしくておかしくてたまりません、というように腹を抱えて大笑いしている。そのあまりの笑い方にヴォルクは少なからず不機嫌になった。

「ははっ……いや、それは面白い。奥方も冗談で言っているんじゃないんですか?」
「お前……それだけ笑っておいてよくもまぁそんなことが言えるな」
「だってよりにもよって、貴方と姫様ですよ?アゼルやシルヴィラではなく、貴方ですよ?これが笑わずにいられますか?」
「……」

否定はしないが、そこまで断言されるのも気分がよろしくない。複雑な心で葛藤しているヴォルクを、アークはまだ面白そうに眺めている。その視線も気に入らない。

「あれ?どうしたんですか?」

その雰囲気を破るように、のんびりとした声が聞こえて、ヴォルクとアークは振り返った。すると回廊の向こう側に『13諸侯の良心』と呼ばれる最年少の侯爵である空のエリオス候、イースが駆け寄ってくるのが見えた。
二人の所に辿り着くと、律儀にもおはようございます、と頭を下げる。育ちと性格の良さが感じられるその仕草は、その場の空気を和ませた。

「いや、ヴォルクの家の夫婦喧嘩について話していたんですよ」
「アーク!」
「夫婦喧嘩?ヴォルク様、奥方様と喧嘩なさったんですか?」

くりくりとした大きな目で見上げられて、ヴォルクは言葉に詰まった。よく考えて見ると、イースはあのセラより1つ年下なのだ。比べる対象が悪いのかもしれないが、セラは年齢よりももっと子供っぽいのだろう。

「ヴォルクが浮気の嫌疑をかけられているんですよ」
「アーク……余計なことを言うな」
「浮気って……ヴォルク様……それはダメだと思います」
「俺は断じて浮気なんてしていない。大体姫様と俺がそんな関係になるはずがないだろう」
「え……相手って……姫様なんですか?」

……しまった、余計なことを言ってしまった。
イースの瞳が驚きで見開かれるのを見て、ヴォルクは思わず舌打ちをしてしまった。それにタイミングが悪い。姫君がオベリスク討伐に出かけてからなら少しは穏便に済むだろうが、それは明日で、今日はまだ彼女はここにいるのだ。

―――――こんなことがあの姫君の耳に入ったら。





(―――――絶対……これ以上ない位に笑い飛ばされるに決まってる!!)





その程度の予想がつくほどには、ヴォルクは自分の主の人となりを知っていた。


* * * * *


しかしその時、当のフィアルはと言えば。
明日オベリスク討伐に出かけるというので、残務作業に忙しい自らの執務室で、珍しい来訪者と対峙していた。

「……ねぇアゼル。私、いつの間にヴォルクの愛人になったんだっけ?」
「―――――なってないでしょう」

とりあえず律儀に答える神官長も、目の前で姫君を睨みつける少女を呆れたように見つめていた。
夫が出かけた後、屋敷を守っていた地隊の隊員に散々駄々をこねて、王宮に連れてきてもらったセラである。

元々侯爵家の出身ではないセラにとって、フィアルと実際に対面するのはこれが二度目だった。
一度目はヴォルクとの結婚式の時、あまりにも美しいその姿に、緊張して口も利けず終わったのを覚えている。
―――――だが、今は緊張とか見惚れるとか、そんなことを言っている場合ではない。

「とにかく、別れてください!」
「……いや、別れるって言われても……そもそも付き合ってないし」
「嘘です!ヴォルク様は真面目で真っ直ぐな人だから騙しやすかったでしょうけど、あたし、騙されません!」

(うわ〜……面倒くさい〜……)

こういった色恋沙汰のトラブルがとんでもなく苦手……というか嫌いなフィアルは、どうしましょう、という意味をこめてアゼルを見やる。アゼルもその視線を受けて困ったように眉根を寄せた。普通に考えれば、セラのしていることはとんでもない不敬罪だ。礼儀に厳しいヴォルクの耳にこんなことが入ったら、彼は大地に頭をつけてフィアルに詫び、本人は自主的に謹慎しかねない。まぁフィアル本人がそういうことを気にするタイプではないのが救いではあるが。

「奥方殿……いい加減にしたらどうだ?大体何の根拠があってそんな……」
「いいえ!あたし、今日は決着をつけに来たんです!」
「決着も何も、そもそも原因がないし……」
「嘘!貴女がヴォルク様をたぶらかしたんでしょう!?」
「―――――うわ、私、悪者?」

フィアルは苦笑しながら答えたものの、エスカレートしてくるセラの態度は、アゼルを不愉快にさせていた。明日の出立の準備や残作業の始末でただでさえ今日は忙しいのに、こんなくだらないことに時間を取られたくはない。それに仮にも自分の仕える主に対して、暴言を吐かれるのは気分のいいものではなかった。
アゼルは少しだけ瞳に怒りを浮かべながら、事の成り行きをおろおろと見守っていたメナスに言い放った。

「メナス、ヴォルクを呼んで来い」
「……えっ!呼ぶんですか!?」
「妻の不始末は夫の責任だ!呼んで来い!」
「は……はいッ!」

慌てて出て行くメナスを、フィアルはあーあ、という目で見送る。自分のことなのに、どこか傍観者な反応は、アゼルだけではなく、セラの怒りにも油を注いでいた。

「ふざけないで!ヴォルク様は私の大事な人なんだから!」

彼女は半泣きでフィアルに食ってかかろうとするが、寸でのところでアゼルの腕がそれを制止する。

「放して!」
「いい加減にしろ!お前のしていることは単なる子供の我侭だ!」
「あたしは子供じゃない!間違ったことなんて言ってない!」

アゼルに腕を掴まれて、それを振りほどこうと暴れるセラを、フィアルはひどく冷静な瞳で見つめていた。これが自分と2歳しか違わないというのが信じられない気持ちでもある。

(まぁ私はね……既に悟りの境地って感じがしなくもないし)

そんな冷静なツッコミを自分で自分に入れてみた時、部屋のドアが荒々しく蹴るような勢いで開けられた。

「セラ!」

ドアの向こうに見えたのは、珍しく慌てた様子のヴォルクと、面白そうな顔のアーク、そして心配そうなメナスとイースである。
聞きなれた声で名前を呼ばれて、半分癇癪を起こしていたような状態だったセラは、はっと我に返ったように、現れた自分の夫を見つめた。

「ヴォルク様……」
「お前は……何をやっている!」

いつもとは違う厳しい怒りの声に、セラはびくっと身体を竦ませた。その腕の力が抜けるのを見て、アゼルが押さえつけていた手をそっと放す。その間にヴォルクは部屋に入ってくると、セラの前に立った。

「どうしてここにいる!姫様に何を言った!?」
「……ッ!だっ……だって!だって!」
「お前は自分のしたことがわかっているのか!?仮にも俺の……フレジリーア侯爵の妻であるということを忘れたか!」

セラの反論を許さず、ヴォルクは怒りをぶつけると、フィアルに向き直った。

「申し訳ありません……!明日出立という大事な日にこんな不始末を……」
「あ〜……まぁいいわよ」
「いいえ!そういうわけには参りません!俺はしばらく謹慎します……妻とは離縁しますのでお許しください」
「……げ!」

ヴォルクの言葉は、その場にいた全員を硬直させた。というか今忙しいこの時期に自主謹慎なんてされたらそれこそ迷惑だし、セラのことについてもわざわざ離縁まで言わなくたって……ビシッと一言言ってやればそれでいいと誰もが思っていたのだ。
―――――頭が固い、生真面目な性格の男ほど手に負えないものはない。

「ヴォルク様、そ、そこまでしなくても……そうですよね?姫様」
「そうよ……っていうかそんなことされたら私が迷惑―――――」
「けじめです!」

イースのフォローやフィアルの言葉にも耳を貸さず、ヴォルクはセラを振り返った。

「わかったな、セラ。お前は帰って身辺整理をしておけ」
「……い、イヤ!どうして!?」
「お前がしたことは姫様への不敬罪だ。フレジリーア侯爵家の顔に泥を塗ったお前を、このままにしておくことはできない」
「……姫様、姫様、姫様!こんな時までヴォルク様はこの人が大事なの!?」





パンッ!





瞬間、セラの頬に鋭い痛みが走る。目の前の夫である人に殴られたのだと気付くまでに、しばらく時間がかかった。
頬を押さえて呆然と自分を見上げる少女を、ヴォルクは冷たい……それでいて傷ついたような瞳で見つめていた。

「―――――ヴォルク様……?」
「……お前には……わからない」

シン……と静まり返った部屋の中で、誰もが身動きできずにいた。
セラはヴォルクが苦し気に、まるで搾り出すように言ったその言葉の意味を必死で考えてみる。けれど自分の夫の心が、何もわからないことに、彼女は愕然とした。





「―――――水差すようで悪いけど、執務中なのよね……今は」





沈黙を破るのは、甘い高い声。

「姫様……」
「全員、とっとと執務に戻りなさい。あとメナス、悪いけどこの子、フレジリーアの館まで送ってあげて?」
「は……はい」
「さあ!解散!メロドラマの時間は終わり!」

パンパン!と大きな音を立てて、フィアルは手を叩いた。メロドラマ、の一言でこの事態を解決しようとするその度胸に、アークだけが密かに忍び笑いを漏らす。しかしヴォルクは納得がいかないかのように、フィアルに向けて姿勢を正した。

「姫様……俺は」
「謹慎なんてしないでよ?今ただでさえ忙しいってことくらいわかるでしょ?しかも私達がオベリスク討伐に行ってる間の代理執務、残った他の人間に押し付けるなんて、無責任なことしないわよねえ?ヴォルク。ついでに離縁なんてやめて。私の寝覚めを悪くさせるつもり?そんなことしたら、ますます執務に身が入らなくなって、アゼルの雷を食らうのは私じゃない」
「……」

そこまで言われると離縁、謹慎する方が悪いような気になってしまって、ヴォルクは黙り込んだ。しかしそれでは全てがうやむやになってしまう気がして、退出はできずに立ち尽くす。その視界の端に、こちらをしきりに気にしながら、メナスに肩を抱かれて退室していくセラの姿が映った。

「ヴォルク、とりあえず謹慎とか言う前に、奥方様を教育する方が先ではありませんか?」
「……アーク」
「歳が離れているからと、甘やかすのはあまりいいことではありませんよ?いくら彼女が侯家の出身ではないとしても、人として の常識は誰かが教えてやらなければいけません。候家など関係なく、今日の彼女の態度は失礼ですからね」

それもそうかもしれない。今まで確かに自分は、セラに対して甘やかすばかりだったのかもしれない。困ったように眉根を寄せたヴォルクを見て、フィアルは少し悪戯心を抱いた。

「まぁ、別に本気でヴォルクが私を愛人扱いしたいって言うなら、考えてあげてもい……」
「結構です」

憮然として答えるヴォルクを見て、即答するのも結構失礼ではないだろうかと、成り行きを見守っていたイースは密かに思った。しかしもちろんその答えは予想範囲内のことで、フィアルは面白そうな苦笑を返すばかりだった。


* * * * *


執務を終えて帰宅したヴォルクを出迎えた執事は、メナスからどうやら事の顛末を全て聞いたようだった。こういう辺りのメナスの気の利かせ方は有難い。そしてそのメナスとセラも、一つしか違わないのだということを感じて、ヴォルクはまたため息を付くしかなかった。

「それで……メナスは?」
「つい先程お帰りになりました。お送りしますと申し上げたのですが、王宮に寄ってから帰るとおっしゃいまして」
「そうか……メナスも執務途中だったからな……悪いことをしてしまった」
「後程、メナス様が菓子作りに良く使うというメネラ酒でもお届けしようかと思っております」
「ああ、頼む」

そのままマントを外し、館内に入ったヴォルクに、執事が言い辛そうに切り出した。

「奥方様は……」
「部屋か」
「はい……ずっと泣いておられまして」
「俺はセラに甘すぎたのかもしれん。まさかこんなことをするとは思わなかった。姫様が寛容な方だったから今回は咎めはなかったが、またこんなことになれば、今度は周りがそれを見逃してはくれないだろう」
「若様……」
「セラにはわかっていない。俺達13諸侯にとって、あの姫様がどれだけ大切な存在なのか……がな。口で何を言っていても、心の底は誰もが同じだ。あの地獄のような世界を、戦いの日々を送りながら過ごした俺達と、セラは違いすぎる」

セラが辛い想いをしなかったとは言わない。けれど圧倒的に違うのだ、その想いの強さは。フィアルがノイディエンスタークに戻ってきたその時のあの想いは、13諸侯に近しいものだけしか決して知ることはないだろう。
死んだと思った彼女が生きていた―――――その歓喜にも似た心の震えを。
彼女の存在そのものが、唯一の希望だった自分達の想いを、セラは決して知ることはないのだ。

「セラ」

執事を下がらせて、ヴォルクは一人で部屋へと向かった。寝室のベットの上で、セラはうつ伏せになり、しゃくりあげている。その様子に少しだけ心が痛んだ。
ヴォルクはそのままセラの傍らに腰を下ろした。

「セラ」
「……っ」
「……どうしてあんなことをした?お前は俺を信じることができなかったのか?」
「だって……」
「だって、なんだ?」
「だって!ヴォルク様が一緒に朝ご飯食べてくれないから!!」
「……」






(……はぁ?)






予想外のその言葉に、慰めようと思っていた気持ちも、少し厳しく言い聞かせなくてはいけないという考えも、一瞬だけどこかへ飛んでいった。
しかしそんなヴォルクに赤く腫れた瞳でセラは訴える。

「朝ご飯を食べないのは、浮気の証拠だって!」
「……なんだそれは。誰がそんなことを言ったんだ?」
「タミルおばさん」
「……誰だそれは」
「昔、近所に住んでた金物屋の奥さん」

話の展開がいやに庶民的になってきたな、と思いつつ、ヴォルクはセラの次の言葉を待った。どうやらセラの暴走の原因はそのタミルおばさんとやらにあるらしい。

「タミルおばさんがいっつも言ってたの。旦那さんのウージおじさんが朝ご飯を食べなくなったら、絶対浮気をしてるって!」
「……なんでだ?」
「前の晩に酒場で食べて、胃がもたれてるから」
「……それがどうやったら浮気に繋がるんだ?」
「だって、村の酒場にはその……そういう女の人がいっぱいいたから」

……そういう酒場と、王宮がどうしてイコールで結ばれてしまうのか、理解できず、ヴォルクは頭を抱えたくなった。
この分では、セラが幼い頃からずっとずっとそのタミルおばさんとやらは、愚痴を言い続けてきたのだろう。
一本気なところのあるセラのことだ、律儀にそれを信じていたに違いない。

「俺が、そのウージおじさんとやらと同じように、王宮で姫様と浮気をしてたとそう思ってたのか?」
「……だって」
「あのアゼルがべったり張り付いてるのに、どうしてそんなことができるんだ」
「……うぅ」
「王宮は酒場じゃない。そして今お前が暮らしているのも、お前の住んでいた町とは違うんだ。俺が朝早くから王宮に行くのは、地隊の訓練に付き合っているからで、日中は執務をしているし、夕食までにはちゃんと帰ってくるだろう?何を疑う?」
「……あぅぅ」
「それでも俺が浮気をしていると思うなら、どこをどう疑っているのかちゃんと言ってみろ」

理論で責められて、セラはそれ以上何も言えなくなった。
確かにその通りで、冷静になればあの姫君と自分の夫が浮気をしているとはとても思えず、感情で先走った自分が情けなくなる。

「……ご、ごめんなさい」
「……」
「ごめんなさい……ヴォルク様」

ポロポロと涙を流すセラに、ヴォルクは深いため息をつくと、小さく微笑んだ。

「……謝れるか?」
「え……?」
「姫様に、謝れるか?無礼なことをして、申し訳ありませんでしたと、頭を下げられるか?」
「……は、はい」

セラは自分に言い聞かせるように何度も何度も頷いた。
フィアルがオベリスク討伐から帰ってきたら、セラを伴って謝罪をしようと、ヴォルクは心に決める。

「わかればいい。でももう二度とあんなことはしてはダメだ。俺の許可なく神殿や王宮に来ることは許さない。いいな?」
「……はい。ごめんなさい……本当に」
「それと」

ヴォルクは俯いている妻の頬に手を伸ばして、そっと上を向かせた。
潤んだ瞳がじっと自分を見つめているのを見て、彼は薄く笑う。





「明日は―――――一緒に朝食を食べようか」





―――――セラが満面の笑顔になったのは言うまでもなく。


* * * * *


その日からしばらくは、ほんの少しだけ起きるのが遅くなった侯爵と、かなり起きるのが早くなった奥方が、仲睦まじく朝食をとるようになったという。

ただ、元々朝に弱い奥方が早起きできたのは、一ヶ月が限界だったとか。
結局フレジリーア侯爵家の朝は、それ以降、変わることはなかったのであった。