創作「盗作騒動」

「夏は来ぬ」とゲイツ帝国

 夏は来ぬ     

    作詞:佐々木信綱
    作曲:小山作之助
    
   (一)
   卯の花の におう垣根に
   時鳥(ほととぎす) 早も来なきて
   忍び音もらす 夏は来ぬ

   (二)
   さみだれの そそぐ山田に
   早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
   玉苗(たまなえ)うるる 夏は来ぬ
   
   (三)
   さつきやみ 蛍とびかい
   水鶏(くいな)なき 卯の花さきて
   早苗うえわたす 夏は来ぬ


 この「夏は来ぬ」を私のパソコンで打ち出すには、一回で変換しようとしたら<な−つ−は−こ−ぬ>とインプットしなければ変換できません。<な−つ−は−き−ぬ>では、先ず「夏は絹」と変換されてしまいそれで終わり。たしか昔の<
EPOWARD>という変換ソフトではちゃんと出て来ました。この意味するところは、欧米言語文化主導のものをグローバルスタンダードとして、無批判に日本語を合わせようとした結果でしょう。しかし、言葉は文化そのものです。一部のギョーカイの金儲けのために、無思慮に日本語が改変されていってはたまりません。日本人が日本内部で文化を変えていくとともに言葉が変わっていくのは、これもまた日本文化の一形態ですが、外部事情からの言葉の破壊や遺棄は日本文化の破壊そのものとも言え、侵略とも言えるでしょう。IT時代にきちんと政府が危機意識をもって対応せず、IT業界も効率のみを求めて、無思慮に追随した結果ですが、ことはこれに留まらず、もっと重大な問題をはらんでいます。
 日本は漢字仮名文字混合文化の国ですから、漢字と仮名は対等です。例えば、戸籍に記載する場合、両親は<香苗>と付けたかったのに、お祖父さんが届けに行って、<か苗>としてしまった、と言うのは良くある話です。<カな江>と届け出たら一生<カな江>と言うのが正式名となります。
 漢字かな混合の表記は、範囲が非常に多岐にわたり、「たなかまさあき」「うえだよしひろ」などの組み合わせは何十何百にも及ぶでしょう。これは漢字文化をきちんと運用していけば国民の背番号などほとんど不要なことを意味します。例えば<すずきいちろう氏>は日本ではもっともありふれた名前ですが、それでも漢字にすれば、姓だけでも<鈴木><須々木><鱸>、名前のいちろうに至っては、<一郎><一朗><伊知郎><伊知郎><伊知朗><市郎><市朗><一良><市良><伊智朗><伊智郎><以知郎><逸郎><逸朗>・・・・・。もちろん<鈴木一郎>、<鈴木伊知郎>、<鈴木市郎>が圧倒的に多いでしょうが、それでも<すずきいちろう>を一集団とすればかなり細分化されます。欧米では、例えばJohn Smith などという人は何万人いるか分からないので、国民ID番号がないと、どうしようもないのです。そこを、<香苗>さんも<か苗>さんもITワールドでは強引に<かなえ>もしくは<カナエ>とし、それなくしては生活していけないような世の中になってきています。漢字文化を大切にしないでITに無思慮に走った結果が、今ではカタカナ一文字違うと住基ネットや銀行利用の機能が麻痺してしまう状態です。例えば「芳正(よしまさ)」を晩年になって正式に「ほうせい」と名乗ろうとしても、過去のITのカナ使用のしがらみで、到底果たせません。年金の5,000万件不明の問題も元はと言えば、漢字の名前をITの都合で粗略に扱ってきたことがあったと想像されます。「きたむら」を「北村」と思っても仕方ありませんが、「喜多村」は間違えようがありません。自国の文化を軽視した報いといえるでしょう。
 「夏は来ぬ」の読み方のどちらの日本語が正しいかと言えば、平成生まれの人は別として、圧倒的に<なつはきぬ>で、「夏が来た」の意味です。<なつはこぬ>は、例えば「来ぬ人」などと使いますので間違いとは言えませんが、普通の文章や詩歌の中で「夏が来ない」という意味には使われない言葉です。「夏が来ない」の言い切りは<なつはこず>でしょう。これはこのまま「夏は来ず」と変換されます。
 それにしても、正しい日本語に変換するのに、曖昧な表現で且つ全く正反対の意味を持つものを入力しなければならないと言うのも変な話です。原因ははっきりしています。多くの日本語変換ソフトが、文語もしくは文語的表現を除外してしまっているからです。完了形の助動詞「〜ぬ」が無視され、<〜しない>の口語体の助動詞「〜ぬ」(言わぬ、など)が優先されている結果です。<早や日も暮れぬ>を、「日も暮れない、というのに何で‘早や’なんかが付くのだろう?馬鹿じゃないか?」の時代がそこまで来ています。
 今、記述していて気がつきましたが、【来】を[き]と発音する場合は行動が完結した場合が多いようです。きた。できた。[こ](‘くる’のカ行変格活用)と発音するばあいは、否定、未完、進行形が多いようですね。そのことからすると、「夏は来ぬ」の詞の<時鳥早やも来なきて>は=ほととぎすが早くもやってきて鳴いている、ですから、[こなきて]でなく[きなきて=来鳴きて]と[き]と読むことが分かります。
 同じことは古今和歌集、藤原敏行の「秋来ぬと 目には清かに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」にも言えます。←これをインプットしただけでも、随所に赤い波線のアンダーラインがついて「間違いだよ」と言っており、何か日本文化を自らが冒涜しているようで、誠に不愉快です。皆さんはそのように思われませんか?このご時世、そんなことは当たり前で、怒(いか)るほうがおかしいのでしょうか?私には、政治、経済、文化全般にわたって、欧米のものをグローバルスタンダードなどと言って、ドッドと押し付けてくるものの一環がゲイツ君であるように思われて、暗澹とせざるを得ないのです。
 佐佐木信綱珠玉の名詩が、「題名で<なつはこぬ>、と言っているのに、中味は夏は既に来ているようだ。変な歌詞だなあ」などとパソコンの普及が文化を破壊することにならないよう、祈るばかりです。

TOP 童謡・唱歌・懐メロ 八洲秀章&抒情歌 昭和戦前の流行歌・新民謡 昭和戦後の歌謡曲・演歌 Piano Classic 歌謡余話