正調・岸壁の母 vs お涙・岸壁の母

正調・岸壁の母 vs お涙・岸壁の母
  岸壁の母

  作詞:藤田まさと
  作曲:平川浪龍
  歌唱:菊池章子
  MIDI制作:滝野細道

  (一)
  母は来ました 今日も来た
  この岸壁に 今日も来た
  届かぬ願いと 知りながら
  もしやもしやに もしやもしやに
  ひかされて

  (二)
  呼んでください おがみます
  ああ おっ母さん よく来たと
  海山千里と 云うけれど
  なんで遠かろ なんで遠かろ
  母と子に

  (三)
  悲願十年 この祈り
  神様だけが 知っている
  流れる雲より 風よりも
  つらいさだめの つらいさだめの
  杖ひとつ



 この「岸壁の母」は、菊池章子の<正調:岸壁の母>です。<正調>というわけは、昭和47年に大ヒットした二葉百合子の<リメイク版:岸壁の母>があるからです。普通何人がリカバーしても構わないのですが、昨今、岸壁の母=二葉百合子、と云われている風潮には異論があります。二つの岸壁の母はメロディーと歌詞は同じでも、背景に流れる精神や時代的価値は全く違うものなのです。
『歌は世に連れ世は歌に連れ』といいますが、先ず、この歌のヒットした時代背景が重要であることです。作詞の藤田まさと、作曲の平川浪龍とも、NHKラジオで『帰還名簿に名前がなくても”もしや”の気持ちにひかされて、岸壁に息子の帰還を待ちわびて佇む端野いせさん』の報道に義憤と反戦の意気に燃えて一晩で書き上げた、というものですから単なる<お涙頂戴>の歌ではないのです。この前年にフィリピンのモンテンルパから、渡辺はま子達の尽力により死刑囚を含むBC級戦犯が釈放されたばかりで、次にソ連(現ロシア)の抑留の理不尽さに国民の目が向いた、まさにこの時代の歌だったのであり、それゆえにこの歌の大ヒットは価値があったのです。
第二に、この歌を菊池章子が歌ったから、ということがあります。菊池章子も渡辺はま子同様戦時中は慰問団に加わって戦意高揚に努めましたが、戦後それを反省した一人です。当クラブにもある「星の流れに」はその気持ちがベースとなってできあがった歌です。戦後生きるために進駐軍兵士相手の娼婦となった女性が数多くいました。その女性達は身を売って、結果的に進駐軍兵士から一般女性の性を守ったこととなったのですが、人々(特に為政者)は自分達の所業で悲惨な結果を招いておきながら、その結果の彼女等を<パンパン>とか<パン助>などと呼んで蔑んだのです。作詞の清水みのるはこのような状況に憤りを感じ、実際に彼女たちの中に入って取材をし、その意気に感じた菊池章子により、”こんな女に誰がした”という当時の国民を譴責する反戦歌が出来上がったのです。この「岸壁の母」はそれらの第二弾ともいえるもので、歌詞を見ますと単なるお涙頂戴の歌ではないのです。
第三に、昭和47年版に台詞が挿入されたことです。少し前、森進一の歌う「おふくろさん」について作詞者川内康範が、保富庚午が作詞した台詞を冒頭に挿入したことに、著作人格権の同一性特権に基づく抗議を申し入れた事件がありました。川内康範の歌詞の内容は、<お母さんの薫陶のおかげでちゃんと生きてこられた。ありがとう>というモチーフが主体ですが、冒頭に入れられた台詞は<自分は(お母さんに薫陶を受けたのに)いけない子でした。もう一度叱ってもらいたい>、と、歌詞内容と全く違う台詞をくっつけてしまったものですから、川内康範が激怒するのも頷けます。二葉百合子版の「岸壁の母」に三箇所の浪曲調(瞼の母調)の台詞が入ったことにより、所期の歌の趣旨が失われました。昭和47年という時代を考えますと仕方が無いかともいえますが、「岸壁の母」=二葉百合子という図式はMIDIを製作していて違和感を覚えます。
      
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