この「幌馬車の唄」は昭和7年にミス・コロムビアの歌でリリースされましたが、あまりヒットしませんでした。原野為二(池田不二男)は翌8年「片瀬波」のヒットを出していますが・・・ところがこの歌は当時日本領であった台湾でヒットして、民衆に歌われていたのでした。太平洋戦争が終わり、台湾は日本人の手から台湾人(鄭成功以来の漢人=内省人)の手に戻りかかりましたが、そうはならず、この日本産の歌が歌い継がれたのです。終戦の戦後処理と統治引継ぎのため中国国民党軍が派遣されてきて統治を始めました。台湾からは日本人が去って台湾人が統治できそうになった矢先に、大陸の軍人がドドッと派遣されてきて、その為政がとんでもない腐敗にみちていたものですから、当然抵抗運動と暴動が起りました。1947年2月28日、ある台湾人婦人のタバコの闇販売の処置の誤りに激怒した台湾人の蜂起は1日で台湾全土に及び、大騒乱となりました。これがいわゆる【228事件】と呼ばれるものです。この騒乱を鎮圧するため大陸から国民党軍が大挙増派され、台湾人の知識層を始め2万8000人が処刑されたり虐殺されたりしたといわれます。中には裁判官、大学教授、学校長、台湾人の日本国籍軍人なとが沢山いましたが、基隆中学校校長の鐘東洪氏も1950年、台湾民主化運動に加担したと言うかどで逮捕され、公開処刑されることになりました。そのとき鐘校長は皆に<「幌馬車の唄」を歌って見送って欲しい>と頼んだのです。以後同じようなときに、「幌馬車の唄」で見送るのが通例となったそうですが、抗日戦の闘士であった鐘校長が、あろうことか日本の<遥か彼方に消えてゆく>という歌をなぜ選んだかは不明ですが、台湾人の『犬が去ったら、豚が来た』という言葉に象徴されているのかも知れません。 原野為二(腹の為に)は、原野為二名で「片瀬波」「幌馬車の唄」「並木の雨」を、池田不二男名で、「雨に咲く花」「花言葉の唄」を作曲しています。 【著作権について】作詞の山田としをは、「片羽鳥」(人妻椿主題歌)や「阿蘭陀船の唄」などを作詞しているようですが、JASRACに無信託です。しかし、出版権を持つ全音がJASRACに全信託しておりますので、歌詞も掲載します。歌手の持ち歌としては、著作権上ミス・コロムビア/桜井健二が筆頭となっていますが、同年10月発売のパーロフォン・レコードの和田春子の原盤が一番早い出版のようです。 |