昭和51年(1976年)
JASRAC No.039-9009-5
十九の春
作詞:沖縄俗謡
補作詞:本竹祐助
作曲:添田唖蝉坊(?)
歌唱:田端義夫
編曲&制作:滝野細道

This photo of Okinawa 19 beauty was
taken by Hosomichi
in 1968, two years
before "The return of the Territory".


(一)
わたしがあなたにほれたのは
ちょうど十九の春でした
いまさら離縁というならば
もとの十九にしておくれ
 
(四)
一銭二銭の葉書さえ
千里万里と旅をする
同じコザ市に住みながら
あえぬ吾が身のせつなさよ
 
(二)
もとの十九にするならば
庭の枯木をみてごらん
枯木に花が咲いたらば
十九にするのもやすけれど
 
(五)
(ぬし)さん主さんと呼んだとて
主さんにゃ立派な方がある
いくら主さんと呼んだとて
一生忘れぬ片想い
 
(三)
みすて心があるならば
早くお知らせ下さいね
年も若くあるうちに
思い残すな明日(あす)の花
(六)
奥山住まいのうぐいすは
梅の小枝で昼寝して
春が来るよな夢を見て
ホケキョホケキョと鳴いていた
童謡・唱歌 懐かしのメロディー 八洲秀章&抒情歌 昭和戦後の歌謡曲・演歌  *2009/JAN/28

(注):デュエットで歌う場合、(一)、(三)、(五)番が女性の独唱、 (二)、(四)番が男性の独唱、 (六)番が男女混合の合唱となる。
この沖縄俗謡とされている「十九の春」は、もともと福岡県三池炭鉱で歌われた、添田唖蝉坊の<ラッパ節>がルーツと言われ、炭鉱夫が九州全域から奄美、与論、沖縄と渡っていく中で、その土地風土による様ざまな歌詞が生まれ、歌い継がれてきたものが、戦争を挟んで風化してしまったとも言われます。戦後琉球は米国の占領地として独特の政体、文化を醸成してき、「十九の春」はそれゆえに独特の文化の一端として生き残ってきたものと思われます。沖縄が1972年(昭和47年)に日本に復帰したことに伴い、同年に本竹祐助が上記のように補作詞し映画の主題歌となって大ヒットした結果、沖縄の地と共にこの歌も本土回帰したわけです。