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永井博士の長崎の鐘  

長崎の鐘

 「長崎の鐘」とは長崎原爆の爆心地に近い浦上天主堂にあった<アンジェラスの鐘>のことで、原爆で崩壊した瓦礫の中から出てきた唯一の天主堂の証であった。この鐘は、今でも再建された天主堂で澄んだ音色を響かせ、原爆の理不尽さと世界平和を訴えている。しかし、サトウハチローの書いた歌詞の「長崎の鐘」は、長崎医科大学の放射線科の医師であった永井隆博士が書いた自伝本「長崎の鐘」と永井博士の被爆の半生を歌にしたものである。
 歌詞に「こよなく晴れた青空を、悲しと思う切なさよ」とあるように、昭和2089日は、朝からこよなく晴れた上天気であった。3日前の新型爆弾による広島の悲惨さもまだ伝わってはいなかった。長崎医科大学放射線科医師永井隆博士は、朝から放射線研究に没頭していた112分、窓の外が白昼の日光よりも明るく、ピカっと光った。同時に被曝と灼熱地獄、続いて耳を聾する轟音と猛烈な爆風、衝撃波。永井博士も深手を負って壊滅状態の瓦礫の中からやっと這い出したが、長崎医科大学だけでも角尾学長を始め890人余の人命が一瞬にして失われたのだった。
 長崎医科大学は安政4年(1857)に蘭方の長崎奉行西役所伝習所として開校され、明治元年(1868)長崎府医学校となり、幾多の学制改革を経て大正12(1923)大学に昇格して長崎医科大学となって、浦上の地に居を定めた。後の昭和24(1949)、長崎医科大学は長崎大学医学部となるが、いまだに浦上の長崎医大跡地に医学部本部がある。ここは爆心地から400mほどしか離れておらず、爆心地500mの浦上天主堂(医学部北隣)とともに、500m上空で爆発した原爆の被害を最も手酷く受けたところにあった。
 長崎医科大学も壊滅的被害を受けており、永井博士も重傷を負っていた。にもかかわらず、病院跡にはケロイド状に皮膚の剥がれた人々や、重傷の人々が引きも切らさず運び込まれる。専門医だった永井博士には、それが通常の爆弾によるものでなく、放射線による被曝であることが一目でわかった。放射線を出す爆弾といえば原子核分裂爆弾。自分の領分の患者たちである。一人また一人と亡くなっていく中で、永井博士は被爆時から昼夜を分かたず、懸命に治療に専念した。
 奇妙なことに、ピカの朝、笑顔で送り出してくれた妻の緑の消息のことは思い浮かばなかった。ただ、何となく無事で居るものとばかり思い込んでいたのである。緊急の日々が終わり、ホッと一息吐いたとき、「家はどうなっているんだろう?一回見に行ってこなくては」と思いついた。その途端「緑は!?」そういえば、被爆の日から妻に会っていない。急いで浦上天主堂近くの自宅に帰って見ると、自宅があったはずのところには瓦礫のほか何もない。懸命に探すうち、台所だったところの隅のほうに小さな黒い塊があった。骨盤と腰椎の一部だった。脇に妻がいつも身に付けていたロザリオが。後は黒い雨となって流れ、風に吹かれて天に上っていったと思われる。「緑ッ、緑―ッ!」初めて滂沱の涙が止め処なく流れた。
 救急で息つく暇も無かったとはいえ、爆弾の程度が分からなかったとはいえ、どうして妻のことを忘れてしまったのか、なぜ直ぐに帰ってやらなかったのか、なぜ当日少しでも側で祈ってやれなかったのか。博士は自責の念にかられ、後に疎開先から呼び戻した二人の子供と住んだ<如己堂>で、原爆の悲惨さを書き残す決心をする。自身も、長年の放射線研究で被曝し続け、また原子爆弾で被曝したことで白血病に罹っていたが、その体に鞭打って、「長崎の鐘」「この子を残して」「ロザリオの鎖」などを書き残し、妻、緑に遅れること59ヶ月で妻のもとへ旅立ったのである。
 浦上天主堂の<アンジェラスの鐘>は、左塔の方は衝撃波で25mも吹き飛ばされて大破したが、右塔の鐘は奇跡的に瓦礫の中から無傷で掘り出され、有志の手で再び美しい音色を流し始め、永井博士も妻・緑の再来と思ったことだろうか、最初の本は「長崎の鐘」となったのだろう。
 歌謡曲「長崎の鐘」の二番の「召されて妻は天国へ 別れて一人旅立ちぬ 形見に残るロザリオの 鎖に白きわが涙」には発見時の経緯が、四番には「心の罪を打ち明けて 更け行く夜の月澄みぬ 貧しき家の柱にも 気高く白きマリア様」と、<如己堂>での生活が詠まれている。また、丘灯至夫作詞、古関祐而作曲の「長崎の雨」にも、「人の儚さ世のつらさ 遠くマリアの鐘も鳴る 浦上さまならロザリオの 涙長崎夜もすがら」と歌われている。

      

 【永井博士作詞の歌】

 「あの子」 
 昭和24年(1949年) 作詞:永井隆 作曲:木野普見雄 歌:山里小児童

 (一)                   (二)
 壁に残った 落書きの         運動会のスピーカー
 幼い文字の あの子の名        聞こえる部屋に 出してみる
 呼んでひそかに 耳すます       テープ切ったる ユニホーム
 あゝ あの子が生きていたならば   あゝ あの子が生きていたならば

 (三)
 ついに帰らぬ おもかげと
 知ってはいても 夕やけの
 門に出てみる 葉鶏頭(はげいとう)
 あゝ あの子が生きていたならば

 「南天の花」
 昭和25年(1950年) 作詞:永井隆 作曲:山田耕筰 歌唱:辻輝子

 (一)                    (二)
 南天の花咲きぬ ひそかに咲きぬ  南天の花散りぬ ひそかに散りぬ
 おもかげは かなしかるもの      おもかげは ほのかなるもの
 この花の しずかさに似て       この花の はかなさに似て
 焼跡に ふたたび生きて        焼跡に われのみ生きて
 南天の花は咲きぬ            南天の花に泣きぬ
     
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