「上海帰りのリル」と上海租界

「上海帰りのリル」と上海租界(注1〜8)
(注:1)

北京議定書とは、
1899年、清朝(西太后と李鴻章)が攘夷の義和団側に付き、イギリス、ドイツ、日本など列強八カ国に宣戦布告して徹底的に敗北し、拒否不能の不平等条約を結ばされたものである。この議定書は清国を事実上の植民地化するもので、列強諸国の大挙駐留を容認することとなり、結局内乱である辛亥革命を招き、清朝は崩壊してしまう。映画「ラストエンペラー」はこの間の状況を愛新覚羅溥儀の生涯を通じて描いている。西太后による溥儀に対する皇帝指名と崩御を描く1908年からスタートし、所々に世界大戦後の中華人民共和国での戦犯収容所での尋問場面を挟みつつ、満州国の皇帝になり、満州国の崩壊後に一市民として死去する1967年までの出来事をメインに溥儀の人生を描いている。この議定書は1937年(昭和12年)の日中戦争にまで及び、中国侵略の一口実となった。



(注:2)


当時この
日中戦争
を日本側は最初は<北支事変>と呼び、後に<支那事変>または<日華事変>と呼んだ。一方中国側も戦争ではなく<八年抗戦>などと呼称した。これは1941年(昭和16年)の太平洋戦争の勃発まで、どちらの国も自国に不利な状況があると見て宣戦布告をしなかったからであるが、歴史的には19377月〜19458月までを日中戦争と呼称する。日本にはこの期間のアジアでの戦争を総称して<大東亜戦争>と言う人たちもいる。世界的視点からは一般に、対米戦争を中心に、米国の呼称<Pacific War>を採って<太平洋戦争>と呼び、大義には<第二次世界大戦>の一環とされている。ここで問題なのは<満州事変>の位置づけである。満州国は、1932年中国国民党から離反した勢力が日本の力(これそのものが柳条湖事件など謀略とする説もある)を借りて建国し、第二次世界大戦終結と同時に無くなったが、それまでは愛新覚羅溥儀が満州国皇帝であり、崩壊するまでは傀儡といわれたものの政権があったことから、侵略戦争たる日中戦争には含まれないとする人たちもいる。



(注:3)

汪兆銘は長く日本に留学し、中国に帰って国民党員となり、実力者となった。最初は抗日統一戦線を作るため、中国共産党と国民党の合作を試みるが失敗し、蒋介石と対立するようになって袂を分かつ。日中戦争が深刻化するにともない段々親日宥和的となって、毛沢東の共産党軍と蒋介石の国民党軍が手を結び、抗日民族統一戦線を作ると戦線から脱出して南京入りし、時の中華民国維新政府と語らって南京国民党政府を樹立した。日本政府はこれを承認し日中戦争の解決を図ろうとしたが、統一戦線の抵抗もあり、果たせなかった。汪兆銘は太平洋戦争勃発後も何度も来日し日中宥和を画策したが、
1944年(昭和19年)日本の名古屋で病没した。遺体は南京郊外の梅花山にコンクリートで厳重に覆い隠されて埋葬された。墓を暴かれるのを恐れたのだが、戦後国民党軍により、墓は爆破された。今も中国では「漢奸」の代表のように言われる。



(注:4)

香港島および九龍地区は租借地ではなく、アヘン戦争の賠償として割譲された正式な英国の領土であり返還義務は無かったが、
1997年に租借地である新開地(ニューテリトリーと言う)と一緒に英国より中国に返還された。これは、新開地の方が圧倒的に広く、ここがないと現在の人口を抱えたまま、九龍、香港だけでは生活が成り立たないためである。返還後一時は完全に中国化されるのではないかと、資産家などは早々と香港から逃げ出したり、万一の時は逃げ出そうと、海外(特にカナダ)に拠点を設けたりしていた。資産の海外流出を憂慮した中国共産党は50年間は従来の香港体制を保証すると宣言し、一国二政体となった。現在はランタオ島に巨大なハブ空港を作り、深センや蛇口地区などを香港経済圏に取り込むなどして増大しており、中国にとって欠くことの出来ないものとなっている。このことはポルトガルから返還されたマカオ(澳門)も同様な政体から発展を続け、カジノのマカオは今や本場のラスベガスを凌ぐ勢いであるという。



(注:5)

リル>という名前は当時滅多にあった名前ではない。マタ・ハリや川島芳子のような活動もしていたとすると、これは源氏名というべきものであろう。男は夜中につい余分なことを言ってしまうものだから、というのはこの曲のフィクションでの<リル>の話。現実の作詞に当たっては、<注:9>に述べているように昭和9年の「上海リル」が作詞者東条寿三郎の頭にあったに相違なく、名前を考えるまでも無かったとも思われる。ただ、<リル>は英語では<
little>で、小さくて可愛い、愛らしいなどの意味があるから、進駐軍のGI Joeあたりが、女の子を見て、<ヘイ、リル、カモン>などと呼ぶのも作詞者東条寿三郎の脳裏に残っていたかも知れない。



(注:6)

この「上海帰りのリル」自体がフィクションであり、以下は、「上海リル」の本歌取りではないかということも含め、すべて筆者の推察であることはもとより、東条寿三郎氏、渡久地政信氏とも亡き今は確認すべくもない。筆者の調べた範囲では、東条寿三郎氏本人の解説は見当たらなかった。


(注:7)

伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)は伊達騒動を描いた浄瑠璃、歌舞伎、狂言を纏めたもの。仙台藩主伊達綱宗(歌舞伎では足利頼兼)が吉原の花魁高尾太夫に入れ込み我が物にせんと計るが、高尾には禁断の言い交わした男がいて、綱宗を袖にするところから伊達騒動が始まる・・・・・伊達騒動は山本周五郎の<樅の木は残った>に詳しい


(注:8)

<カサブランカ>の意味は、<カサ=家、ブランカ=白い>で、ギリシャのエーゲ海に面した真白い家々同様、都市全体が白く見えたことから、フランスが命名した。第二次世界大戦中は、<砂漠の狐>こと独軍機甲師団将軍エルウィン・ロンメルや<猛将>こと米軍大戦車軍団将軍ジョージ・スミス・パットンが戦った北アフリカ戦線の情報戦が渦巻くのがカサブランカであった。映画の『君の瞳に乾杯』はなんて気障なことをヘーキな顔して言うものかな、と思ったものだ。


(注:9)

上海リル」は、1933年(昭和8年)のワーナー・ブラザーズ映画ミュージカル『フットライト パレード』(Footlight Parade)の主題歌「上海リル」アル・デュバン作詞、ハリー・ウォーレン作曲で、劇中ジェイムス・ギャグニー、ルビー・オーラーのデュエットで歌われ、日本でも大評判をとり、服部龍太郎の訳詞で、各レコード会社競作となった。戦後も、あがた森魚、青江三奈、吉田日出子(舞台)、松尾和子、鶴田浩二といった面々にカバーされており、「上海帰りのリル」もこれなくしては語れない。



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