明治33年(1900年)
JASRAC No.039.-2595-1

信州の名刹善光寺山門
信濃の国
作詞:浅井  冽
作曲:北村季晴
歌唱:長野県歌
制作:滝野細道

(一)信濃の国は十州に 境(さかい)連ぬる国にして
(そび)ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺 四つの平(たいら)は肥沃(ひよく)の地
海こそなけれ物(もの)さわに 万(よろ)ず足(た)らわぬ事ぞなき

(二)
四方(よも)に聳(そび)ゆる山々は 御岳(おんたけ)乗鞍駒ケ岳
浅間は殊(こと)に活火山 いずれも国の鎮(しず)めなり
流れ淀まずゆく水は 北に犀川(さいがわ)千曲川
南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり

(三)
木曾の谷には真木(まき)茂り 諏訪の湖(うみ)には魚多し
民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕飼(こが)いの業(わざ)の打ちひらけ
細きよすがも軽(かろ)からぬ 国の命(いのち)を繋ぐなり

【四番メロディーは変わる】
(四)
尋ねまほしき園原(そのはら)や 旅のやどりの寝覚(ねざめ)の床
木曾の桟(かけはし)かけし世も 心してゆけ久米路橋(くめじばし)
くる人多き筑摩(つかま)の湯 月の名にたつ姨捨(おばすて)
しるき名所と風雅士(みやびお)が 詩歌に詠みてぞ伝えたる

【最初のメロディーに戻る】

(五)
(あさひ)将軍義仲(よしなか)も 仁科の五郎信盛(のぶもり)
春台太宰
(しゅんだいだざい)先生も 象山(ぞうざん)佐久間先生も
皆此
(この)国の人にして 文武の誉(ほまれ)たぐいなく
山と聳
(そび)えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず
 
 
(六)
吾妻
(あずま)はやとし日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山
穿
(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来
(こらい山河の秀でたる 国は偉人のある習(なら)
 
 
 童謡・唱歌・懐メロ 八洲秀章&抒情歌 昭和戦前の流行歌・新民謡  *08/AUG/17

信州の山野風景や神の山、野の仏を余すところなく
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伊那谷薄雪 FF-002
南八ヶ岳 FF-013
木曾御嶽山 FF-007
斑雪浅間山 FF-006
南駒ケ岳 HF-004
安曇野・春 HF-016

この「信濃の国」は明治33年(1900年)に浅井冽が作詞し、翌年(明治34年)北村季晴によって曲が付けられました。以来昭和22年まで長野県民の歌として親しまれ随所で歌われ続けてきましたが、戦後、内容があまりにも故郷賛美にすぎ、戦時中の国粋主義にも繋がるとして排斥され、昭和22年、公募による長野県民歌が定められました。しかし、「信濃の国」に対する県民の思いは聊かも褪せることなく歌い続けられ、新県民歌は忘れ去られました。県民は、「信濃の国」の内容が、短い中で歴史・地理・経済など信州全体をうまく表している類いまれなものであるのに加え、メロディーが優れているものであったためこれを愛し、ずっと歌い続けてきたのです。昭和43年、<県歌に制定を>という県民意識の盛り上がりで正式に『長野県歌』と定められました。長野県民の「信濃の国」に対する思い入れは、内田康夫ミステリー『「信濃の国」殺人事件』に詳しく書かれています。面白いです。