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- - - 第1章 至上最強の姫君3
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4枚の葉は大地の神の祝福の証。

ひとつは希望を。
ひとつは信仰を。
ひとつは愛情を。
そして残りのひとつは幸福を。

ノイディエンスタークの民は誰もが大地の神に祈り、その印を何らかの形で身につける。

(大地の神、ね……)

ノイディエンスタークの大地は生きている、明確な意思を持って。だからこそ人々が大地に神が宿っていると信じるのもあながち間違っているとは言えない。

(―――――大地はただ生きているだけ。人間が生に執着するのと同じ、本能に過ぎないものを)

神殿にある祈りの間に続く清めの泉に身をまかせながら、フィアルはぼんやりと石造りの天井を見上げた。そしてその額に光る銀色の4枚の葉の印にそっと触れる。

ノイディエンスタークの王を兼ねる大神官家には千年に一人、4枚の葉の印を額に戴いた子が生まれる。
彼等は大地と意思を通わせ、木々と語り、動物の心を理解することができると言われ、彼等の御世には、ノイディエンスタークは大いなる繁栄と平和を手にすることができると言い伝えられていた。

(―――――……信じない)

そっと目を閉じてフィアルはすっとその水の中に沈んでいく。緩やかな水が全身を包んでいくのを感じて、その心地よさに小さく彼女は微笑んだ。
大地を、木々を、動物たちを、この国に住まう人々を、とてもとても愛しているけれど。それでもこの一人でいる時間を一番心地よいと感じる自分の心を、笑わずにはいられない。

―――――今も見つからないままの、あの日に砕けた心の欠片。


* * * * *


「平和って言うのも何気に退屈なものですね」
「問題発言だぞ、イシュタル」

部下の視察報告書を持ってきた水の女騎士の一言にアゼルは眉をしかめた。
エセルノイツの各隊長はみな自分の執務室を王宮内に持っているのだが、アゼルはそれを使わず国王の執務室の中の補佐執務机を自分の物として使っている。フィアルと確認を取るような雑務が多いのでその方が合理的であり、あの無鉄砲な姫を見張るにもその場所が最適と考えての判断であった。

「時々シルヴィラがうらやましくなるんです。あたしも風隊に入ろうかしら?」
「水隊はどうするんだ」
「有能な副官が何とかするんじゃないですか?」
「……サージナルも苦労人だな」

自分と同じ立場であろうイシュタルの副官の顔を思い浮かべてアゼルは心の中で同情の祈りを捧げた。イシュタルは肩をすくめたが、ふと思い出したかのようにアゼルに問いかける。

「そう言えば、シルヴィラはずいぶんと急に発ったんですね?何かあったんでしょうか?」
「それに関してはシルヴィラが帰ってきてからみんなに説明すると姫は言っていた」
「不穏な兆しでも?」
「あの方の行動に意味がないことがあると思うか?」
「……ありませんね」

イシュタルはアゼルの執務机の端にちょこんと腰掛けた。一瞬それを咎めようとしたが、アゼルはそのまま口をつぐむ。最近ひどくお小言ばかり言っていることには自覚があった。
―――――小言を言いたいわけではない。
でも、言わずにいられないような状況なのだから、仕方がないのだと自分に言い聞かせてみても……少々虚しい。

「でも、いちいちお忍び状態で他国へ行くのは多少面倒ですね」
「それは……仕方がない。今の状態ではな」
「……ねえアゼル様、いつまでこの鎖国のような状況を続けるのですか?」
「……いつまでも、というわけにはいかないだろうが……」

頭の痛いことばかりだな、とアゼルは思う。
ノイディエンスタークは、2年前から完全に鎖国に近い状態になっている。
それは大地そのものが、国境線に自ら結界をはったからだ。
ノイディエンスタークの民が他国に出ることはできるが、他国の民はその結界を越えることはできない。大地の意思ではさすがのフィアルもその結界を解くことはできずにいる。
唯一南のラドリア王国との国境上にある、夜の神殿だけが他国の者が越えることができるほど結界が緩んでいる場所であるが、そこでも大地がノイディエンスタークに危害を加える者と判断したものは、その結界を越えることはできない。

大地は―――――恐れているのだ。
再び自分を脅かすものを、憎んでいるのだ。

2年前、この国の内乱が終結するまでの10年以上の時間。
ノイディエンスタークの隣国の者達は、飢えに苦しんでいた民を助けもせず、受け入れることもしなかった。
それどころかその隙に領土を広げようと攻め入った国すらある。そんな国と国交を復活させることに、フィアルは苦い顔をしていたが、このままずっと孤立するわけにもいかないとアゼルは考えていた。
ノイディエンスタークは農業も商業も復興しており、自国だけで十分生活していけるだけの力を備えているとはいえ、いつ大地の結界が解けるか、それは彼女にすらわからないのだ。

(「こっちから仲良くしてくださいと言ってやる必要はないわ。条約を結ぶにあたって不平等なものを結ぶ気はないけれど、こっちが下手に出る必要はないの」)

このことを話し合った際、お茶を口に運びながらフィアルはこう言った。続いて、まるで予言のように彼女の口から紡がれた言葉の意味を、アゼルはいまだに図りかねていた。

(「もうすぐ機会は来る、それまで私達は待ちましょう」)

機会とはなんなのか、それをフィアルは微笑むだけで決して教えてくれようとはしなかった。副官など要らないのではないかと思うほど彼女の知略は優れたもので、それを疑う余地はアゼルにはなかった。

考えてなくてはいけないこと、そして考えても仕方のないことの多さに、ふっとアゼルがため息をついた時、コンコン、という控えめなノックが聞こえた。

「失礼します」

入室を許可する声と共に入ってきた少女は、イシュタルの顔を見て足を止める。

「あ、お話中でしたか?」
「いえ、書類を届けに来ただけだから平気よ」
「そうですか。それならイシュタル様もご一緒にいかがですか?お茶を淹れてきたんです」

控えめに微笑むメナスを見て、アゼルはペンを置いた。メナスの作るお菓子は甘すぎず、アゼル達の間では抜群の評判を誇る。甘いものがあまり得意でないイシュタルが口にするだけでもそれは明らかだった。

執務室の端にあるテーブルにお茶が用意されていくのを見ながらアゼルはぼんやりと思う。

(「―――――平和って言うのも何気に退屈なものですね」)

イシュタルが言った言葉。どこかで自分もそう思っていたことを否定できない。日々の忙しさに忙殺されて考えずにいられるものの、戦場で戦っていた2年前までの日々を、懐かしく思い出すことがないわけではない。

―――――それでも。

(「わたし達が今、ここに生きていることに何の意味があるんですか!」)

そう叫んで雨の中、その紫の瞳から大粒の涙を零した、目の前の黒髪の少女をアゼルは覚えている。
あの日とは比べ物にならないほど、穏やかで優しい顔をしているメナスを見ると、今の日々が間違いではないことに気づかされるのだ。
平和にあって戦乱を求め、戦乱にあっては平和を求める。そんな人間の性はどうしようもなく貪欲で愚かなものだと。

「どうぞ、アゼル様」
「ああ、ありがとう」
「イシュタル様、いかがですか?」
「……おいしい」

イシュタルの言葉にメナスは笑顔になった。イシュタルもつられたように悪戯っぽく微笑む。
本当は誰もがわかっている。この平和は退屈だけだけれども、かけがえのないものだということに。

「アゼル様、いかがですか?」
「……ああ、うまい」

嬉しそうなメナスの顔にあの日の翳りはない。いや完全に消えることはないとしても、時間がゆっくりとその傷を癒してくれるだろう。
そんな柔らかな確信と共に、アゼルはとても穏やかな顔で微笑んだ。