Clover
- - - 第2章 遅れてきた使者3
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結界の間は夜の神殿の一番奥深くにあった。
その部屋に入ると淡いベールのような光が、部屋を二つに遮断しているのがわかる。レインはそれを見つめて息をのんだ。

「これが、大地の結界です」

隣に立つアゼルの声が恭しく響く。結界に音までもが反射しているのか、その声は不思議なビブラートを伴ってレインの耳に届いた。
アゼルとレインはほとんど身長も体格も変わらない。横を向くと自然と視線が合う。真紅を纏った神官長は、柔らかに、けれど自嘲的な笑みをレインへと向けた。

「この結界はノイディエンスタークの大地そのものの意思。私や姫がどんなに通したいと思っても、大地が許さなければ誰であろうとこの結界を通ることはできません。それは入国してからも同じです。一瞬でも大地に対して悪意を持った瞬間、その人物はこの結界の外へはじき出される。そのことを忘れないでいただきたい」
「……承知しました」

レインはアゼルから視線を外して結界を見た。淡い光のようなこれを通り抜けることが、そんなにも大変なことなのだろうか。疑問が次々と浮かぶが、間違いなく、自分はこれからこの大地に試されるのだ。

そんな想いを巡らせていると、不意に真横に立つ彼が呟いた。

「……無口で無愛想、冷徹、時には冷酷。整った顔に温かみはない、無二の剣の使い手」
「……?」
「私が、数年前まで伝え聞いていた貴方の噂です、レイルアース王子」

アゼルは真っ直ぐ結界を見やったまま言葉を続ける。

「私達はもしかしたらあの内乱の折、剣を合わせることがあったかもしれない。現実にそれはありませんでしたが……でも今は合わせてみたいと思う気持ちもあります。純粋に、騎士としてです」

その言葉に、レインは再びアゼルの横顔を見やった。
ノイディエンスタークという国を治めるこの青年の横顔は、凛々しく、迷いがない。この国は、平和になるだろう。導く人間の顔に迷いがないということが何よりの証だとレインは思った。

「貴方は騎士だ、王子である前に。私には、わかります」
「……」
「さあ、お行きください」

アゼルはレインを手で促した。レインは一瞬後ろを振り返って、イオを見る。イオは大きく頷いて主の意思を確認した。
そのままレインは結界に向かって一歩を踏み出し、ふとその足を止めた。

「……神官長殿」
「……?」
「私にも、わかります。貴公も、神官である前に騎士だ」
「……そうですね」

レインとアゼルの視線が一瞬重なり、そして再び、レインは結界に向かって歩き出した。ゆっくりと結界が近づいてくる。しかしレインは歩みを緩めることはなかった。

―――――目の前の淡い光のベールに触れた瞬間、何か暖かい手に包まれたような、そんな気がした。


* * * * *


「俺はともかく、お前が越えられるとは思わなかった」
「何を言っているんです。私は王子のことは大事ですがノイディエンスタークに危害を加える気など欠片もないんだから当然じゃないですか」

自分だけではなくイオが通り抜けられたことにレインは少なからず驚いていたが、内心の動揺が顔に出ることのない性分なだけにそれを悟られることはなかった。

そんな二人を少し離れたところから見守っていたアゼルは、精獣を呼び出そうとしてふと手を止めた。

(予想通りだ……本当に)

レインが結界を通りぬけるであろうことはフィアルの頭の中では予想済みだった。
ラドリア国王は愚かだが馬鹿ではない。元々結界を越えられないような王子を使者にするとは考えにくかった。レインは政治家ではなく騎士だ。その外見や態度で誤解されることは多そうだが、元々は清廉な魂の持ち主なのだろう。

(―――――狙いは何だ)

ただオベリスクの退治と食料供給の要求だけとは思えない。アゼルですらそう思うのだから、フィアルの中ではもうそれすら予測の内に入っているのだろう。

(「アゼル、あんた笑わないでよ?」)
(「何をですか?」)
(「その王子の前で、私がお姫様仮面をかぶってるところをに決まってんでしょ!」)

心底嫌そうだった姫君の顔を思い出して、アゼルは思わず吹き出しそうになった自分を必死で押さえる。
今頃は朝から張り切っていた女官達の手で、すっかり光の巫女姫ルックに着替えさせられているに違いない。あの根っから暴れ者の姫が、姫らしく振舞う姿などほとんどお目にかかったことのない諸侯にとって、それはある意味楽しみなことでもあった。

「……アゼル様、顔が引きつってますよ」

その表情の変化に気付いたのだろう、シルヴィラが苦笑しながら話しかけてきた。

「……お前だって楽しみなんだろう、シルヴィラ」
「当たり前じゃないですか、今後見られるかわからないものが見れるんですからね」

シルヴィラは満面の笑顔で笑うと、ふと表情を改めた。

「目的、何だと思いますか」
「……あの王は狡猾だからな、何を考えているかわかったものじゃない」
「あの王子は父王とはあまり似ていませんね。以前侵攻してきた軍を率いていた王子はいかにもって感じでしたけど」
「……そうか……お前だったな、ラドリア軍との戦いで指揮を取ったのは」

ラドリアとの戦いにおいて指揮を取ったのはシルヴィラだった。アゼルはその時、ちょうど神官勢力との戦いが激化していて、中央を離れられなかったのである。
機転を利かせてなんとか撃退したものの、ラドリアの残した爪跡はあまりにも酷いものだったと、アゼルは聞いていた。その場にいたシルヴィラのラドリアに対する感情は、怒りと憎しみで満ちているはずだ。それが普通の人間の心理というものだろう。

「俺は大丈夫です」
「シルヴィラ……」
「憎いと思います。あの街を見てしまったから尚更です。でも、姫様は言いました。憎しみは憎しみを生み、その連鎖が続くことで争いは続くと。誰かがどこかで断ち切らなければいけないものなのだと。俺は……それを断ち切る勇気を持ちたいと、そう思うんです」

シルヴィラの顔は穏やかだ。内乱で負った心の傷はこの国の全ての民に存在する。だからこそもう二度とこの国に争いが起きないように守る。それが自分の仕事なのだとアゼルは思った。

「レイルアース王子」

呼ばれて振り返るレインを、アゼルは手招きした。

「乗馬は、お得意か?」
「ええ」
「高い所は、大丈夫ですか?」
「別に高所恐怖症の気はありません」
「……イオ殿も?」
「私は平気です」
「では、大丈夫ですね」

アゼルはそう言うと、額に念を集め、小さくルーンを唱えた。

【……精獣、召喚】

アゼルの前に大きな光が集まり、パンッと弾けるように飛び散ると、そこには、二頭の純白の翼を携えた天馬が現れた。レインとイオは一瞬言葉を失う。その間にシルヴィラも二頭の天馬を召喚した。

「ここから王宮までは少し距離がありますので、これで行きます。大丈夫ですね?」
「これは……」
「乗り方はほとんど馬と同じです。乗ればすぐにお慣れになるでしょう」

そう言うとアゼルはその内の一頭に躊躇うことなく飛び乗った。真紅のマントがはたり、と閃く。

「私の精獣ですので貴方を振り落としたりはしません、どうぞ」
「……わかりました」

レインはいつも馬に乗るようにひらりとその天馬に跨った。翼があること以外はいつも乗っている馬と対して変わりはないように思える。イオもシルヴィラが召喚した天馬に乗っていたが、どこか居心地が悪そうに見えた。

「シルヴィラ」
「はい」
「風の守護ルーンを二人にかけてくれ。俺はいい、自分でかける」
「わかりました」

シルヴィラがすっと指を動かすと、レインは何かが自分の体を包み込むのを感じた。不快ではない、緩く穏やかな気のようなものが全身を覆っている。

「天馬は空を駆けますので、どうしても地上を駆ける時より風を受けます。今のはその風を遮るための魔導です。申し訳ないが我慢していただきたい。風に煽られて落下したりしたら、命の補償はできかねますので」
「かたじけない」
「それでは参ります。私に続いてください。シルヴィラ、お前は後ろをお守りしろ」
「はい」

アゼルが手綱を動かすと、天馬は翼をはためかせ空中に浮きあがった。レインもそれに続く。多少勝手は違うが確かに普通の乗馬とたいした変わりはなかった。

「レイン様、大丈夫ですか?」
「問題ない」

イオもコツをつかんだらしく普通に乗りこなしている。
それを見てアゼルがスピードを上げた。4頭の天馬は一路真っ直ぐに王宮を目指して飛ぶ。
ふと下方に視線を落とすと、どこまでも緑の大地が広がっていた。内乱が起こる前まで、この大陸でもっとも豊かな国と呼ばれた、ノイディエンスタークの本来の姿にすっかり戻っている。

(……祈りの力とは、こんなにも強大なものか)

死に絶えた大地を生き返らせる大神官の祈りの力。光の巫女姫の祈りがこの大地を形作る。大神官なくしてこの大地は成り立たない。それをわからず当時の神官達は大神官を殺害し、権力を自分達の手にした。

(―――――権力とは恐ろしいものだ、人を狂わせるものだ)

ラドリアは父王の絶対の権力によって今は治まっているが、父王亡き後おそらく国は荒れる。世継の兄は優しく、賢い男だが、それをおとなしく認めるとは思えない兄弟達も山のようにいるのだ。子が多いのはよいが度を越すからこんなことになる。父の好色ぶりはレインの一番嫌うところでもあった。

外見が生まれた時から他の兄弟達とは違っていた。茶色の髪と瞳の兄弟達の中で、レインだけが鮮やかな闇の色を纏っていた。生き抜くためには力が必要だった。だがレインが求めた力は権力ではない。純粋たる力そのものだ。彼は強くなり、戦場では冷酷なほど敵を倒し、そして認めさせた。自分の存在意義を国中の者に認めさせたのだ。
レインにとって力とは自分を守るための鎧でもある。

(巫女姫、か)

ラドリアの中にも崇拝者がいると言われる光の巫女姫。大地を守るため神殿の奥深くで祈りつづける女性。まるで現実味のない話だと思っていたが、実際にこれからまみえるのだからそうも言っていられないだろう。

「神官長殿」

レインの言葉に先行していたアゼルが振り返り、速度を弱めて隣についた。

「何か?」
「巫女姫殿は、どのような方ですか?」
「……」

何故か絶句するアゼルをレインは不可解そうに見つめた。アゼルはあらぬ方向を向いて何か思案しているようだったが、しばらくしてふっとレインに向き直った。

「レイルアース王子……それは貴方のその目で確かめられるとよろしいかと思います」
「……」
「ここで私が何かを言っても、それは私の主観の入った姫の話です。それでは意味がないでしょう?」
「……確かに」

レインはそのアゼルの言葉に納得する。そうだ、自分で確かめるのが一番確実なことだ。ラドリアのためではない、純粋に自分として興味がある。

(全く……ごまかしだけは天下一品ですね、アゼル様)

レインを納得させて少しだけほっとした表情を浮かべたアゼルを、シルヴィラは苦笑して見守った。アゼルがレインに姫の人となりを告げなかったのは、今言ったような意図があったわけではないことが、シルヴィラにはわかっていたのだ。確かに素直に言えるはずもないのだが……あの予想を遥かに超えた姫を説明するのは、ひどく難しいことでもある。

(「いいわね?これからやることはノイディエンスターク全員でやる大芝居なのよ?」)

半分ヤケになって言っていたような気がしないでもないが、確かにそれは事実だ。これから自分達はラドリア相手の大芝居をやってのけるのだから。

(それでいつもとは違う姫様を見られるのも、悪くはないか)

そう思ってシルヴィラは、隣のイオに気づかれないように小さく笑いをもらした。