Clover
- - - 第3章 血色のピアス1
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「限界……」
「そうでしょうね」

執務室のソファーにごろんと横になったフィアルは、いつもの軽装ではなく薄絹のドレス姿だ。裾がめくれて白い素足がのぞくのも気にせず、ごろんごろんと寝返りを打つその姿に、アゼルは呆れたようにため息をついた。
レインがノイディエンスタークに滞在して、今日でちょうど一週間になる。その間、涙ぐましい努力で、フィアルは深窓の姫君を演じていた。それは周囲の人間もみな同じで、レインに警戒心を抱かせないように、わざとらしいほどに愛想よく彼に接している。演技に自信のない者は、極力レインとは接触しないよう、細心の注意を払っていた。

「世の中のお姫様って毎日こんな生活してるのかなぁ?脳味噌腐りそう」
「内乱の前までは、貴女も姫として暮らしていたはずですが?」
「忘れた、そんなの」

ごろん、ともう一度寝返りを打って彼女はアゼルに背を向けた。そう、それはもう10数年以上も昔の話だ。

「それにね、いい加減レインも気がついてると思うし?」
「……どうでもいいけど呼び捨てですか?」
「うっさい、レイルアース様なんて呼んでたまるか、舌噛みそうじゃない、あんな、なっがい名前」
「はいはい」

この姫は、とにかく勝手に人に呼び名をつけるのが好きだ。名前が4文字以上の人間は、全部好き勝手な呼び方で呼ぶ。シルヴィラやイシュタルも、勝手に短縮されて呼ばれているのが、そのいい例だ。

「そんなに限界なら、書状を渡してとっとと帰らせればいいでしょう」
「それじゃ意味がないのよ」
「彼をノイディエンスタークにもらうと言った意味が、俺にはよくわからないのですが?」
「私、あの王子が変な意味じゃなく、気に入ったの。ラドリアを背負ったまま、ノイディエンスタークに引き入れるわ」

さらっと言い放つ彼女に瞳の奥には、本気が見え隠れしている。

「……裏切らせるのですか?」
「違うわ。言ったでしょ、ラドリアを背負ったままって」
「彼は第五王子ですよ?本妻腹でも上に二人、兄王子がいます」
「優しい第一王子、父親にうりふたつの第二王子、女狂いの第三王子、病弱な第四王子に死神と呼ばれる第五王子、以下続く……ね。王子の見本市みたい」
「……」
「わかってるでしょ?」
「……最近なんとなくでも、姫の考えがわかるようになってしまった自分が、悲しく思えるんですけどね」
「アンタね……失礼よ、それ」

フィアルが微笑むのにつられて、自然とアゼルも笑顔になる。彼女とアゼルのやり取りは国の政策という重要事項のはずなのに、まるで言葉遊びのようだ。

「で、どうするんです?」
「キールを呼んで」

フィアルはそういうと、ソファーから離れて自分の執務机に座った。ドレスを着ていてもその動きは俊敏で隙がない。ごろごろ転がっていた先ほどまでとはまるで別人のようにすら思える。

―――――凛とした姿。

風の流れは、そこから始まる。


* * * * *


―――――愛想が良過ぎる。

そんな違和感に気付いたのは、ノイディエンスタークに滞在してから、三日ほどたってからのことだった。
仮にもレインは敵国の王子だ。それほど遠くない過去にこの国に攻め入り、残虐な行為を繰り返した国の人間だ。それなのに、王宮に出入りする国民がみな何も気にしていないかのように、笑顔で挨拶をしてくる。
最初は自分が何者なのか、彼等が知らないのかと思っていた。しかしそうではないらしい。

(「ラドリアの王子様、おはようございます!」)

そんな言葉を何度もかけられた。国民は少なくともレインがどういう人間なのかを知っているのだ。

―――――ただ単に愛想がいいのか、お人よしなのか。

それだけでは片付けられない何かを、レインは感じずにはいられなかった。ずっと戦場で生きてきたレインは、ある種の勘が鋭くなっていて、それが警笛を鳴らしている気がしていた。

「居心地が悪いですね」
「……そう思うか?」
「我々には馴染めませんよ、こういう空気は。ラドリアの王宮や街とは違いすぎます」

イオがその大きな体を竦めさせる。ラドリアはノイディエンスタークの南にあり、気候的には温暖な国だ。しかしどこか暗い雰囲気が漂っていて、陰鬱としている。戦乱で疲弊している今は、尚更その感が強かった。

「おかしいと思わないか?」
「……そうですね」
「回廊で逢う諸侯もみなそうだ、敵国の人間にあそこまで愛想がいいということがありえるか?」
「確かに感じてはいます。しかし諸侯だけならともかく、国民までがああなので真意がわからないのです」

イオは主の言葉に戸惑ったような顔をした。国民までもがみなレイン達を謀っているとは考えにくい。しかしそれでもどこかひっかかるものを消すことができないでいる。

「……油断するな」
「わかっています、レイン様。ここもある意味では戦場ですから」
「戦場、か……確かにな」

ふと腰の剣に目をやる。ラドリアにいる時は、決してこの剣を手放すことはできなかった。権力欲に取りつかれた多くの兄弟達が、刺客を送ってくるなどということは日常茶飯事だった。気の休まることなどほとんどない、周りの全てが敵の生活がレインの日常だった。
ノイディエンスタークにあっても習慣で剣を手放すことはないが、深く眠れるようになっている自分に気付いた。
この国は、不思議な国だ。治めている姫君そのままの国だ。

ふっと視線を緩ませ、レインは部屋の外の景色を見た。ここ数年ラドリアでは見ることのできない、どこまでも続く緑の大地が目に眩しかった。ここはレインにとって、何とも穏やかな戦場だった。